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暁への使者

作者: 一瀬詞貴(一ノ瀬貴斗名義にて投稿)

 もとから少ない荷物を処分すると、安宿の狭い部屋は、幾分広く感じた。

「よし。後は、これだけか……」

 ずしりと重い麻袋を机上に放り、私は手にしていた酒瓶を傾けた。

 ―――奴を殺す。やっと、この日が来た。

 口の端から零れた液体を袖で拭った時、甘い香りが鼻孔を擽った。幼なじみ兼同士が、部屋に戻ってきたのだ。

「朝からお酒? 身体に良くないよ」

 そうボソボソ言って、莫邪(ばくや)は顔を顰めた。私より三つ年上の二一歳で、雨季のじめっとした空気が人の形を取ったような男だ。雰囲気からは想像もつかないが、何年か傭兵として働いていたことがあり、私に剣を教えてくれたのも彼だった。

「飲む? 祝い酒は美味しいわよ」

 杯を差し出すと首を振って、私の隣に腰掛けた。机上に紙袋を置こうとした彼は、ふと、麻袋に目を止め首を傾げる。

「これは……?」

「あんたのお給金。今までありがと」

 袋の口を開けて覗き込んだ莫邪は、うっと低く唸った。

「こんなにたくさん……一体、何処から」

「この前ちょろまかしたやつ。もう、私には必要ないし」

「さっきから……どういうこと?」

 間抜け面で困惑する幼なじみに、私は小鼻を膨らませて宣言した。

「奴を殺すのよ、今夜」

 奴―――()(おう)。不本意だけど、私の父親だ。長安でも名の知れた商人で、東西を手玉に取る商才は見事だと聞くが、女狂いに殺人狂いの噂の方が有名だった。夜な夜な繰り広げられる身の毛のよだつ晩餐の話は語るに尽きない。

 私の母は幼い頃、金で奴に囲われた。意に沿わぬ妊娠の末、その腹を裂かれるかもしれない恐怖に耐えかね出奔、そして私を育てるため過労で死んだ。

「そういうのは、武官に任せれば……」

「あんな奴ら、役に立たないでしょ」

 ただでさえ賄賂が横行するお国柄なのに、荒れた長安の武官など尚更信用出来ない。

「……それで、どうやって殺すつもりなの?」

 点心を咥えながら、おどおどと莫邪が問う。私は彼の鼻先に顔を近づけると答えた。

「今夜、奴は春明門近くの青楼に泊まる。そこを乞食の振りして近づいてグサッと」

「む、無理だよ……どれだけ、周りに警護がいると思ってるの」

「だから、それを今夜だけは減らしてくれるって話なのよ」

「え?」と、訝しげに眉根を寄せた莫邪に、私は胸を張った。

「家人の一人が、もう見て見ぬ振りは出来ないってんで裏切ったの」

 莫邪は暫く何か言いたげに俯いていたが、やがて太息を吐くと、麻袋の中身を数枚机上にばらまいた。

「そんなことより、明日のこと考えよ? ここ最近、長安は物騒だから離れた方がいいかなって思ってたんだ。うん、これだけあれば暫くお腹は好かない。ね、良かったね」

「そんなこと?! あんたね、私には明日なんて無いのよ。今が全てなの!」

 椅子を蹴倒して立ち上がった私に、彼はおろおろ紙袋を差し出してきた。

「た、食べてごらん? 落ち着くよ?」

「いらないわよ! 私は長安まで点心食べに来たんじゃないの。奴を殺しに来たの!! あんたも家族殺されたの忘れた訳じゃないでしょう?!」

「それは……そうだけど、でも」

 彼はもごもご何か言って俯いた。

 溜息と共に私は窓枠へと寄りかかると、蒼穹を見上げる。

 ……天には意思があると聞く。燦々と照りつける太陽に目を眇め、私は思いを巡らせた。

「……奴を殺したって世間は変わらないけど……少なくとも、奴に苦しめられてる人たちの不幸は終わる」

 私は……そのために、生まれた。母が死んでからずっと考え続けてきた答えだ。李央は、子供ですら容赦なく殺し、また、逃げ出した女は地の果てまで追い掛けられ、酷い死に方をするという。けれど私はここまで成長した。それは何故か?

「奴を殺せってお天道様は言ってんのよ」

 ……私に。それこそが、私の存在意義。

「……(すい)

 ふいに、真剣な声音で莫邪が私を呼んだ。振り返ると、真っ直ぐな瞳とぶつかる。

「………違う生き方もあるんだよ」

 言葉に私は、麻袋を勢い付けて莫邪に投げつけた。バラリと硬化が床を打つ。

「……別了(サヨナラ)! 精々元気でね」

「翠……っ!!」

 声を振り切るように、私は宿を出た。

 ……私に、他の明日なんて、必要ない。

 辛気くさい思いを振り払うように、私は活気ある市へと足を向けた。


* * *


 灯火が煌々と闇夜を照らしていた。例の青楼の前では、艶やかな女たちが列を成して奴の出迎えに出ている。

 不安は杞憂だった。本当に李央の周囲の警備は少なかったのだ。

 豪勢な馬車が楼の前に止まると、道端で寝転がっていた乞食らが、むくりと身体を起こした。お恵みを、とぼやきながらわらわら群がり、車は飴で絡められたように動かなくなる。数人の警備の男達が面倒そうに硬貨を投げると、乞食らは一斉に地に這いつくばった。

 私もそれに紛れ込むと、汚れきった外套の下で剣を抜き放ち息を潜めた。

 央が、馬車から姿を見せた。

 年の頃は六〇前後か。金銀の刺繍を凝らした衣服を肥えた身体にまとい、指には目玉ほどの宝石を付けていた。蝦蟇を潰したような横顔に、これが父親だと思うと吐き気が込み上げてくる。

 奴は鬱陶しげに人集りを一瞥し、やがて女達へと優雅に手を上げた。

 ―――今だ。

 私は素早い身のこなしで群衆から抜け出すと、ぼんやり立つ警備の男の股下をくぐり抜けて央へと特攻した。

「李央覚悟!!」

 迷わず剣を突き出せば、ズプリ、と鈍い感触。更に深く踏み込んだ私は、手応えに口元を綻ばせようとして……右脇に訪れた衝撃に目を見開いた。冷や水を浴びたように背筋が粟立つ。

 恐る恐る見下ろせば、自分の腹部に銀刃が突き入れられていた。

「なめるなよ、小僧」

 剣が引き抜かれると共に、目深に被っていた頭巾をも剥ぎ取られた。視界が開け、私は自身が刺し殺した相手に息を飲んだ。

「女を盾に、反撃までしたって言うの……」

 置物をどかすかのように、事切れた妓女を取り払った央と目が合う。マズイ―――逃げようと踵を返した私は、

「その髪、その顔……貴様、美麗か?!」

 思いがけない母の名に一瞬、出足が遅れた。

「こ、こここの、乞食風情がっ―――!」

 事態を把握した警備兵が今更ながらにあたふたと腰に佩いた獲物へと手を伸ばす。

 その時だった。

 バラバラバラッ

 唐突に空から硬貨が降った。地を打つ音に一瞬静寂が訪れ、次いで地鳴りのような歓声が沸き立つと辺りは一気に紛乱する。

 朦朧とする意識の中、目だけで央を追った私は、警備兵に取り囲まれる奴を見て舌打ちした。

「ちくしょう」

 思ったより傷は深かった。行かねばならないのに足が動かない。立て、立ってくれ、私の足。今殺さなければ、次はないのに……!

 焦りは、じゃり、と地を踏み躙る音で打ち切られた。ハッと我に返れば警備の男が血溜りでもがく私を悠然と見下ろしていた。私は為す術もなく男と対峙した。全身から血の気が引いていく。急激に喧噪が遠ざかる―――

「きゃっ…………」

 不意に力強く後方から肩を掴まれた。地に引きずり倒されたかと思うと、その脇を影が疾風の如く通り抜ける。

「な、何だ……?!」

 影はそのままの勢いで困惑する警備の男へと体当たりをかますと、猫の如き俊敏さで男が手をかけていた剣を奪い取り、それでもって斬りつけた。鮮やか過ぎる手並みだった。

「翠……」

 返り血で汚れた影―――莫邪は、血を噴いて倒れる男を気にも留めず、惚ける私の側に跪くと、傷に何かを押し当てた。

「………行くよ」

 強ばった声でそう耳打ちすると、犇めき合う人を掻き分け、莫邪は問答無用で私を引きずっていった。

 失敗したんだ、私は―――知れず頬が濡れた。


* * *


 傷が元で高熱を出した私は、苛立たしいことに、宿を代えると同時に寝込んだ。

「ただいま」

 何処からか戻ってきた莫邪は、脱いだ外套をぐちゃりと丸めると心配げに私の枕元へとやって来た。額に触れるひんやりとした掌が気持ちよくないと言えば嘘になるけれど、腹立たしさの方が勝っていて、私はその手を振り払う。

「…………外の様子はどう?」

 問いに莫邪は少し視線を伏せて応えた。

「うん。ややこしいことになってる」

「そう……ふん。なかなかの賞金じゃない」

 差し出された人相書きを眺めた私は、莫邪が手にする季節外れの小花に気付いて眉を顰めた。

「桔梗……? 何、見舞いのつもり?」

「いや。痰切りに使えるから……」

「風邪じゃないのよ」

「あ、そっか。なら、活けよう」

 莫邪は微笑を零すと、瓶に桔梗を突っ込み机上に飾った。私は、その平和然とした態度が気に喰わず、勢いをつけて身体を起こす。こんな風にくたばってる場合じゃない。

「怪我、熱持ってるんだ。休まないと」

 莫邪が押し留めるように背後から私の両肩を押さえた。ふらりと傾ぐ自分の身体が無償に憎らしくて、鼻の奥がツンとした。

「悠長なこと言わないでよ。此処で寝っ転がってて、しょっ引かれるの待ってろっていうの? 冗談じゃないわ!」

「でも、だからって、その身体で何が……」

「それを今、考えてんのよ!!」

 髪を乱して振り返れば、莫邪は恐る恐る私の手を両手で包み込んで、俯いた。

「ねぇ、翠。怒らないで聞いて欲しいんだ」

「……何よ」

 唸るように先を促すと、ますます聞き取り辛い声が続ける。

「もうさ、こんな事止めて田舎に帰らない? 貧乏だし、良い暮らしなんて出来ないけれど、でも、今よりずっと穏やかに暮らせる。女の子が一生を復讐に費やすなんて、やっぱりおかしいよ」

「却下」

 復讐を諦めて、惰性で生きることに何の意味があるんだろう。平和ボケした莫邪の頭をかち割って答えを探したい。

「言ったでしょう? 私は、このために生まれてきたんだ、って。これ以外の生き方なんて知らないのよ」

「探そうよ。僕だって、協力するし……あ、あのね、翠。僕、これ冗談とかじゃなくて、本当に、あの、君と」

 顔を赤らめたまま黙り込んでしまう。あー苛々する。こんな奴の方が剣の扱い方を知ってるなんて天は人選を誤った。莫邪なら、あの時、李央を討つことも出来たはずなのに。

 ……ん? 莫邪なら……?

「……翠?」

 次に機会があったとしても、私じゃ仕損じて無駄死にするかもしれない。でも、莫邪なら? 確実に討てる状況さえ作り出せば、きっと……きっと!

「莫邪!」

 私は抱きつくようにして、莫邪の両肩へ手を伸ばした。目を白黒させて戸惑う莫邪にうん、と顔を近づけて提案する。

「私の首に、賞金が掛ってんのよね? ってことは、あんたが私の首持って行けば、央に近づくことって出来るんじゃない?」

「は……はあ?!」

「そうよそうよ。それで、あんたが央の首をたたっ斬る。復讐完了、ハイ終わり。完璧!」

「ちょ、ちょっと待ってよ。ねぇ、首って……首って、君の、首?」

「他に何があるっての?」

 我ながら名案だ。莫邪ならきっとやってくれる。私は、床に放られていた荷物から剣を取り出すと、鞘を捨て去った。抜き身の刃がギラリと光る。

「故事にもあるじゃない。『子よ、頭と剣とを持ちて来たれ!!』ってさ」

「…………やだよ」

「あんたがダメなら別の人を当たるだけよ?」

「馬鹿な! いるわけないよ。無関係な君のために復讐してくれる人なんて」

「仁義忠義に熱い奴はいつの世にもいる」

「そんな人は父親殺しに手を貸さない!」

「その辺はうまくごまかせばいいの。時間が惜しいわ。どいて」

「だめだ!」

 珍しく声を荒げて、彼は行く手を遮った。

「なら、あんたがやって。お願いよ。私たちもともと奴を殺すためにここまで来たんだもの。それに、あんたなら絶対出来るよ」

「嫌だよ!! 嫌だ……何度も言ってるだろう? 僕は君がっ」

 好きだって? そういう事は詩人に任せておけば良い。

「だから、あんたに頼んでるのよ。……私には、もう時間がないから」

 今度は本気で頭を下げた。

「時間?」

「私……母さんの声、忘れちゃったの」

 それだけじゃない。姿、笑顔……どんな人だったのかすら、指の間を零れ落ちてゆくように忘却の彼方へと去ってしまった。それは、憎しみも同じだ。

「気付いたのよ、私。悲しみも、怒りも、永遠に持続するわけじゃないって」

 だから、早く央を殺さなければならない。憎しみが憎しみである内に。

 暫くの沈黙の後、ポツリと莫邪は言った。

「…………それでいいんだよ」

 一瞬、彼が何を言ったのか分からなかった。莫邪が安堵の笑みを浮かべている……私はそれを理解すると同時に、目の前が怒りで赤く染まるのを感じた。彼はそれを知ってたからこそ悠長に構えていた? そもそも復讐なんて彼にとってはゴッコでしかなかった……? 胃の中が焦げ付いた。どす黒い怒りが渦を巻いて込み上げ、脳天を突き破った。

「裏切り者!!」

 叫んで、私は莫邪の胸ぐらを掴みあげた。

「何やかんや理由つけて復讐を先延ばしにしてきたのは、そういうわけ?! 心の中じゃどーせ無理だって馬鹿にしてたんだ?!」

「ち、違うよ! そうじゃない!!」

「じゃぁ何だって言うのよ?!」

「君は女の子なんだ。女の子がそんな一生を送っちゃダメなんだよ!」

 私は内心舌打ちした。苛立たしさが限界を突破して、弾けた。

「はっ……勝手に決めつけないでよ。女だとか男だとか関係ない。私の使命なの。あんたにそれを取り上げる権利なんてない。復讐する気がないなら……部外者は黙っててよ!!」

 言葉に莫邪の肩が大きく震えた。

「部外者……? 僕が、部外者?」

「あんた、もう復讐する気ないじゃない。私………間違ってないわよ」

 その顔が余りにも悲しげだったから、私は何故か後ろめたくて彼から目を逸らした。ふいに、私に優しくしてくれた莫邪の家族が脳裏を過ぎる。

 莫邪には姉が一人いた。彼にそっくりな黒髪の美しい、涼しげな目元の女性……。李央が目をつけ差し出せと脅し、最期まで抵抗した父母は殺された。姉はその時、自殺した。

 泣きながら墓を掘る彼の背中を覚えている。

 その時感じた、胸を突いて沸き上がる怒りもまだ、覚えている。

「何でよ……何で!?」

 だからこそ理解出来なかった。何故復讐せずにいられるのか? それこそ失った家族への冒涜ではないか。私は央を許せない。私の家族を、莫邪の家族を奪った奴を許せない!

「翠……」

 そっと、莫邪が私の頬を包み込んだ。見上げれば、復讐なんて血腥いものからは無縁のように澄んだ瞳と目があった。

「……いつだって、君にとっては父親が一番だったね。彼を殺すことが君の生きる支えだ。だから、それが薄れるまで僕は待つんだ。そう、決めたんだよ」

 そう言うと、彼は私をかき抱いた。頭の中で警戒音が鳴り響く。内で育まれた憎しみが薄まってしまう恐怖に全身が強ばる。

「………愛してるんだ」

 耳朶に囁かれた言葉に全身が震えた。

「……やめてよ」

 逃げようともがくも、力強い腕からは逃れられない。

「やめてよ!!」

 私と共にあり続けた何かが、膝を折って莫邪に屈しようとしている。

 私は無茶苦茶に暴れた。蹴られても殴られても莫邪はじっと耐え続け、それが一層怒りに火を付けた。

「……翠、僕は……僕は死にたくない。死にたくないよ」

 すがるような、切実な声で莫邪が告げる。

「君と生きていたいんだ……一緒に考えよう? きっと、きっと別の生き方を見つけられる。僕は、君が幸せになるなら、何だってする。何だって。だから」

 血の涙を流して剣に誓った復讐は、未来を想って覆せるほど甘いものじゃなかったはずだ。幸せ? そんなもの夢見たりしない。私は別の生き方なんてとうの昔に斬り捨てた。

「これ以上しゃべったら死んでやるから!」

 私は声を張り上げて莫邪を睨み付けた。

 腹立たしく感じるのは、莫邪が復讐を決意出来ていないこと……「明日」を語ること。その腑抜けた頭に描かれる腑抜けた穏やかさを私は憎み、彼の能力を羨んでいる。私と同じ復讐者のくせに、奴を殺す力があるのに、莫邪には無念を晴らす覚悟がない。

「別の生き方? 私は奴を殺さずには生きられない。それでも生きろって言うなら、今この場で死んだ方がましよ!!」

 私が舌に歯を添えると、咄嗟に莫邪は私の腕を掴んだ。

 ……奴を殺すために生きて来たはずだ。私たちにはそれ以外の道はないのに!

「…………君を失うくらいなら、君と同じ亜麻色の髪の女を何人だって殺すよ。君が死ぬ必要はないんだ。首だけ持って近づくなら別の人でも」

「私は、死ななきゃならないのよ!」

 自分の唇から漏れた言葉にギクリとする。

 「あんた、邪魔なのよ……邪魔、邪魔、邪魔、邪魔!!」

 言葉から目を逸らすように、胸の内で荒れ狂う感情のまま私は叫んでいた。

 彼の語る明日に無償に腹が立ったのは、単に羨ましかっただけ……復讐を目指す先には死しかないはずなのに、莫邪には明日があったから。それが、憎らしくて、眩しくて……私、単に八つ当たりしてた………?

「役立たず! 顔も見たくない。消えて。消えろぉっ!!」

 私が苦しんでるんだから、あんたも苦しんでよ、好きなら一緒に苦しんでよ、って。私を殺した罪悪感で一生不幸でいてよって。何だ、それ。私、彼に何を求めてる?

 莫邪に吐く暴言とは裏腹に、私の頭は冷静に理解していた。

 ……ただ、羨ましかっただけなのだと。復讐するために諦めてきたものを大切に守ろうとする莫邪が羨ましかった。その対象が私だとしても苛立った。私だって復讐なんてやめて安らかに思いのまま生きてみたかった……?

「翠」

「もう黙って。央を殺して私も死ぬの。それしか望んじゃいない!!」

 ……そんな自分を、どうして認められる? そんな臆病者をどうして認められる?

「本当に? 本当に死にたいの? それが君を救う唯一の術なの? ねぇ……っ!」

 舌を噛まないように、と口に突っ込まれた莫邪の親指に、噛み千切らんばかりに私は歯を立てて応え、無言で彼を睨み付けた。

 一方で、情けなさと切なさが込み上げる。

 ごめん、莫邪。馬鹿は私だ。

 でも、認めたくない。そんな弱い自分、私は認められない。

「……………分かったよ。君が、それを、望むなら」

 掠れた声を落として、彼は私を解放した。 急に心細くなって彼の服へ手を伸ばすと、莫邪は力なく微笑んで今度はそっと私の前髪を掻き上げた。

「あんたのこと……好きよ」

「うん」

「だから、頼むのよ……」

「分かってる」

 こつん、と額を合わせ、鼻先に吐息がかかるほどの至近距離で見つめ合う。莫邪が重たげに湿る睫毛をゆっくり瞬くと、目尻から零れた涙の玉が一筋すっと頬を伝わり落ちた。

 潤む黒曜石の瞳を、私は綺麗だと思った。そして、その瞳が映す私の何と汚らわしいことか。誠実さを土足で踏みにじり、彼の好意に甘えようと目論む卑劣さ……。後ろめたさに目を伏せると、躊躇いがちに唇が押し当てられた。額、瞼、頬……そして、唇。啄むような幾度かの口づけの後に、噛みつくように唇を奪われた。驚き顔を背けて押しとどめると、首筋に頭を埋めた莫邪は祈るように言った。

「死ぬその瞬間まで、僕だけを見てて」

 深くきつく抱きすくめられ、私は呼吸を忘れた。のけぞって閉じた瞼の裏に、いつか見上げた青空が過ぎり、やがて全てが熱に犯され色を失っていった。


* * *


 家人たちが遠巻きに眺める中、広間に通された莫邪は殊勝に膝をついて頭を垂れた。その姿は、頭から水鉢を引っ繰り返したように全身血塗れで、透き通るほどに白い頬には、渇いた血漿が黒い染みを作っている。

 豪勢な椅子に背を預けていた李央は、莫邪を見下ろすと、手を打って立ち上がった。

「よく来た。しかし、まさか、娘だったとはな……惜しいことをしたよ」

 下卑た笑いを漏らしてから、彼は近くにいた従者に顎で命じ、莫邪へ身体を向ける。

「ささ、その首級をわしに差し出せ」

「李央様直々に取りにいらしてください」

「なに?」

 莫邪は、首を両手で包むと小首を傾げた。

「渡したと同時に、弩が飛んでくるかもしれませんし」

「用心深いヤツだな。するなら、もうとっくにやっておるわ。わしは対価は払う男だぞ」

 莫邪は答えない。李央は苛立たしげに足を踏みならすと、警備の武官へ問うた。

「……おい。ヤツは本当に丸腰だな」

 是との答えに央は頷いた。屋敷に入る前の身体検査の厳重さは、命じる央が一番理解している。彼は深く頷くと、威厳を保ったまま莫邪へと近づいた。

「さぁ、美麗の娘を……」

 莫邪は差し出された央の掌を見つめながら彼にしか聞こえない声で語りかけた。

「翠を縛るのが、あなたなら」

「は?」

「…………僕は解き放つ者でありたい」

「何を言っている?」

 と、莫邪はフラリと蹌踉けた。訝しげに顔を顰めた央は汚いものを避けるように、半歩退く。その時、床の上を転がった首に、一瞬気を取られた。……それが決定打だった。

「なっ―――」

 突っかかるようにして央にぶつかった莫邪は央の佩いた剣を抜き放つと蕩けるような笑みを浮かべた。

「………さぁ、君は自由だ。翠」

 数多の弩が構えられる中、銀刃を翻し、

 莫邪は容赦なく李央の首を斬り飛ばした。


* * *


 烏が群をなして巣へと帰っていく夕空の下、私は苛立たしげに家路を急いでいた。

 と、前方に莫邪を見つけて歩みを緩める。

「翠、どうだった? 新しい仕事は」

 問いに、私は鼻を鳴らして答えた。

「サイッテーよ。朝から晩まで同じ作業をコツコツコツコツ……ああ、苛々するったら!」

 隣を歩く莫邪は困ったような顔をして、何も言わない。それをちらりと一瞥してから、私は鼻頭を指先で引っ掻き、訊ねた。

「ね、莫邪。これが平穏ってやつ?」

 きょとんとしてから、莫邪はふっと笑みを零した。私は肩を竦めて苦笑する。

「……こんなんで満足だなんて、あんたホント貧乏性」

「翠と一緒なら、僕は幸せなんだよ」

 間髪入れない答えに、私はどう返したらいいか分からず意味もなく口を開閉させた。それから、

「…………ぶぁーっか」

 何とか、それだけ言った。

 一陣の風が吹き抜ける。前髪を描き上げ、空を仰いだ莫邪の横顔を眺めていた私は、聞こえるか聞こえないかの声で、付け足した。

「ま……思ってたより、悪くないんじゃない?」

 莫邪がきょとんとする。私は恥ずかしくて歩みを早めた。慌てた莫邪の足音が追い掛けてくる。そんな、

 ―――優しい夢を見ていた。


 身体の芯が怠い。額に触れた冷たさに、私は驚き瞼を持ち上げると、見知らぬ女性が覗き込んでいた。宿屋の女将だった。

「……まだ熱が高いんだ。ゆっくりしてな」

 起き上がろうとすると、ふくよかな手に押しとどめられる。

「面倒見てやってくれってよくよく頼まれてんのさ。気にすることはないよ」

 誰が、とは聞かなかった。莫邪しかいない。私は今度こそ身体を起こして、小さく呻いた。下腹部に走る痛み……まざまざと昨晩の事を思い出し、カッと頬に熱が集まる。

「ほらほら。まだ、休んでる」

 促されるまま横になると、女将は枕元に落ちた濡れ布巾を再び額に置いてくれた。

「汗かいたろう? 着替えるかい? いい、いい、私が手伝ってやるさ……あら?」

 上掛けを捲り上げた女将が、ちょっとだけ片眉を上げた。私は、その視線の先―――鮮やかな赤い染みに気付いて、息を飲んだ。

「す、すいません」

「謝ることじゃないよ。お月のものが来るっていうのは、健康な証なんだから」

 違う、と言いかけた私は、唇を噛んで顔を両手で覆う。

 そもそも何故自分は生きているのか。今頃は莫邪が自分の首を持って李央の所へ行っているはずではないか。だから、あんな……思い返して慌てて首を振った。

「…………本当、最低」

 女将が出ていった後、私は身体を丸めて爪を噛んだ。会って殴り倒さねば気が済まないのに、莫邪が帰ってくる気配は一向にない。

「嘘吐き。意気地無し。何処ほっつき歩いてんのよ、あの馬鹿……」

 戻ってきたら引っ叩いて、引っ掻いて……

 ……違う。とりあえず、謝らなければ。

 ふいに、気配を感じて振り返ると、机上の瓶に活けられた桔梗が目に入った。水でも足りなかったのか、それとも観賞用でなかったからなのか、見るも無惨に萎れている。

「…………早く帰って来いっつーの」

 私は膝を抱えて、視線を外へと移した。

 ………莫邪に会いたい。

 憎しみはいつまでも私を蝕むだろう。莫邪の言う別の生き方なんて想像もつかない。

 けれど、今は……春の日差しに雪が解けるように、胸の内で何かが変ろうとしていた。不思議な事に、少しだけ莫邪の語る明日を見てみたいと思えるようになっていた。

「そんな事言ったら、あんたは呆れるかな。それとも……」

 窓を通って爽やかな春風が火照った頬を撫でる。私は目を眇めて青空を眺めた。

「…………明日、か」





(了)

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