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絵画教室

作者: snowman

 彼女は一つの作品の前で立ち止まり、僕はその姿に眼を奪われていた。


 

 この作品展は色々な人が持ち寄ったものを展示していた。

彼女はこちらを向くと「貴方の作品はどれ?」と尋ねてきた。

「今、貴女が御覧になっている作品です」

明らかに年下の彼女に僕は敬語をつかっていた。

聞いておきながら彼女はさして興味なさそうに「そう。」と答えた。

それからも僕の作品を見続けている彼女。

しかし、視線は僕の作品にあるのに何か違うものを見ているようだった。

彼女はその日最後までそこに立ち尽くしていた。


 十一月八日。

もうすぐ冬が始まりそうな肌寒い良く晴れた一日だった。

それが僕と彼女の出会い。


 作品展が終わって家に帰り、僕は彼女の顔を思い出していた。

特に美人なわけでも、可愛いわけでもない顔だった。

ただとても色が白く、良く似合う紺色のカーディガンを着ていた。

まるで彼女のためにあつらえたように、ぴったりだった。

僕は彼女の顔を描き出した。短い間でも脳に焼きついている彼女の顔。

描き始めて少し経ち、僕は戸惑った。描けないのだ。

眼を瞑れば鮮やかに思い出すことができるのに、描き始めると判らなくなる。

描こうとすればするほど脳に映る彼女の顔に靄がかかる。怖くなった。

始めから彼女は存在しないんじゃないだろうか。

自分は幻想を見ていたのではないだろうか。僕はすぐにシャワーを浴び、床に就いた。

怖がっていた筈なのに、驚くほど早く深い眠りに就いた。

 


 僕は昔から何でも無難にこなせるタイプだった。

その中でも描いたり、造ったりするのが得意で美術の授業は褒められたりしていた。

調子に乗って美大なんてものに入って、入学して半年も経たないうちに後悔した。

デッサン力は他の奴らに負けないほどあった。

始めは少し得意になっていたが、描き続けるうちに気がついてしまった。

自分はこれまで上手い絵ばかり描いてきたが、いい絵を描けたことがない。

デッサンがいくら上手かったとしても僕の絵はいい絵ではなかった。

上手な絵。

見た人の心を揺さぶる絵ではない。入ってから気づくなんてと後悔したのだ。


 作品展から十日ほど過ぎた頃だろうか。僕は仕事に向かっていた。

そう僕は一応社会人だ。

大学を卒業して、今の会社に就職した。デザイン事務所の営業マン。

何故営業なのか?

面接の時、営業なら枠があると言われて入社したのだ。

未だに作品展に出品したりしているあたりが未練がましい。

営業成績は普通。可もなく不可もなく、手順も分かってきたところだ。

ただ毎朝会社に着くまでが酷く辛かった。満員電車だ。

同じような格好をした人間がひとつの乗り物にギュウギュウ詰めになっている。

たった二十分間の間でも僕は毎回吐きそうになる。

自分はこんなことをしてまで生きていかなきゃいけないのだろうか。

 その日も吐きそうになりながら電車に乗っていた。

十分位経ったところで停車した駅のホームに眼をやると、あの日の彼女が反対のホームで電車を待っていた。

僕は何も考えずに急いで電車から降りていた。

会社に行かなくては、と現実に戻ろうと思った瞬間彼女が乗る電車が来てしまった。

僕もすぐさま乗り込んだ。初めての無断欠勤だ。


 それから三十分位電車に揺られ、彼女は降りた。降りる客は僕らしかいなかった。

とても静かな駅。

歩き始めた。住宅街なのにまったくひとけのない路を歩き続ける。

安っぽく聞こえるかもしれないが、僕ら以外誰もいない世界に迷い込んでしまったようだった。

“これは現実なのだろうか…”

そんなことを思い始めた頃、彼女は目的地に着いたようだ。

僕は少し驚いた。

そこは大学。ただやはりひとけはない。彼女はどんどんキャンパスを突き進んでいく。とうとう館内に入る。

そして僕はまた驚く。そこは美大だった。

入った瞬間に木と油絵の具の混ざった臭いがした。

あまりに懐かしいその臭いに、僕は心臓のあたりが苦しくなり軽く眩暈がした。

そしてあることに気が付き、怖くなった。

ずっと彼女の後をついて来た。つけて来た訳ではない。

ということは、彼女は僕の存在に気付いているのではないか。

逆に気付いていないというのは少しおかしい。

しかし彼女はまったくそんな素振りを見せなかった。

今更後戻りする訳にはいかない。このままついて行くしかない。

音の無い世界の中、僕らの足音だけが静かに響いていた。


 彼女がついに立ち止まった。

一番奥の突き当り。古ぼけた扉の前。

彼女はしばらく立ち尽くしていたが、ついにその扉を開けた。


 そこはもう使われていない教室だった。

所々に埃が溜まっていたし、物がほとんど無く壊れそうな椅子が何脚かころがっていた。

窓際に(窓際といっても日がまったく射し込まない部屋だ)一枚の絵が立て掛けてあった。

彼女は絵の前に立っていた。まるで出逢った日のように。

その絵は彼女の絵だった。

白銀の世界に立つ白いワンピースを着た彼女。

白い雪・白いワンピース・白い肌の中の、真っ黒な夜空と瞳に吸い込まれそうな絵だ。

 彼女が急に口を開いた。

「この絵は、私のことを愛した人が描いた絵よ。美しいでしょう?」

僕は何も言い出せなかった。

「貴方には描けないわ。本当に愛したことなどないでしょう?」

分からない。

愛に本当と嘘があるのか・・・

それから僕らは日が暮れるまでそうしていた。


 

 考えている。そして気がつけばあの絵の前に居る。

今まで僕は何を考えながら絵を描いてきたのだろう。

「貴方は絵を愛している?彼は絵を愛して、私も愛して、ただ私を描いて死んで逝った。

 彼も私も短い時の中でこんなにも深く濃い幸せを感じることができたなんて奇跡」

いつのまにか其処にいた彼女が語った。

「君も愛していたのだろう?何故君は生きて行ける?愛する人を失って・・・」

彼女は少し微笑み言った。

「何故だと思う?」

その瞬間。雪がハラハラと降り出した。

教室の中に居た筈の僕らは白銀の世界に居た。

目の前に絵と同じ姿の彼女。美しく・儚く・幸福な空気を湛え。

「目に見えるから満ち足りることが出来るわけじゃないの。この絵の中で私は一生、彼に生かされ続けている。

 私と彼が離れることなんてないし、できないのよ。」


 美しい・・・


この空間が、全てが彼女と彼の愛で満ち白銀の世界がこんなにも暖かい。

「暖かい。愛は暖かいんだな・・・」

目の前が真っ白になった。


 

 気が付いた時、僕は彼女を見かけたホームのベンチに座っていた。

空がとても高く澄み渡り、眩しいほどの青空。

空はこんなにも美しかったのか・・・

僕は駅を後にした。歩いて家に帰ろう。

そして一枚のキャンバスと絵の具。少しのお金を持ち旅に出ようと思う。

何処へ行こうか・・・

まずは北に向かおう。

凍てつく世界で、人の生命の暖かさを感じよう。

あの二人が確かめあったであろう温もり。

見失ってしまいそうな温もり。

独りを知って僕は本当に人を愛することができるだろう。

愛を知り、僕にとってたった一枚の名画を仕上げた時。旅が終わる。

 今、僕に不安などない。

こんなにも生きていることにワクワク出来るなんて。

それだけで僕の一生は輝きだした気がした。


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― 新着の感想 ―
[一言] 先生の作品、初めて読ませてもらいました。ふっと目に触れた一枚の絵、そんな一枚の絵をみて、鑑賞者の心が・・・。名作とはいかなるものか、という命題が、言葉を尽くして説得するのではなく、ストーリー…
2009/02/07 13:45 退会済み
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