待ち望んだ春の日に
第161回コバルト短編小説新人賞に投稿した作品です。
サクッ、とい軽い音と歯触りがして、口の中でほろりとほどける。甘い匂いがふわりと鼻に抜け、体中に幸せな気分が満ちていく。
「おいしい!」
ころんと落っこちてしまいそうな頬を両手で押さえ、幼い少女が破顔する。バラバラに伸びた栗色の髪が、彼女につられて楽しげに揺れた。
「まだあるよ。もっと食べる?」
「うん、食べる!」
栗色の瞳を細めて、少女は両手でクッキーを一つずつ持つ。彼女と同じ年頃の少年は、後ろのテーブルに置いてあった籠を持ち上げた。中には、不揃いな長方形をした、きつね色のクッキーがたくさん入っている。
後を引かないほどよい甘さに、ついつい手が伸びてしまう。
もう食べたらダメ。そう言われてもきっと、やめられない。
☆
ぼんやりと、今朝見た夢のことを思い出していた。子供の頃、一度だけ食べた極上のクッキーが、今でも忘れられない。
毛先がバラバラの、栗色の髪が動きに合わせて揺れる。
(今日こそ、あの味ができるといいんだけど……)
願うものの、辺りに漂う匂いはなぜか酸っぱそうだ。酸味のあるものを入れた覚えはないのに。
ため息をつき、覚悟を決めてオーブンを開ける。
漏れていた以上に、匂いがきつい。
レモンを食べた時に似た気分になる匂いの中で、ほのかに甘い香りがした。それがまた、余計に酸っぱさを引き立てる。
「ホント、何でこんな匂いがするの?」
泣きたい気分だ。
毎日毎日、辛そうだったり苦そうだったり。甘い匂いしかしなかったことはなかった。
百歩譲って、あの味にならなくてもいい。でも、人間が食べられるものが作りたい。
恐る恐る、焼きたてを一つ手に取る。色はきつね色で、焼き加減は抜群。見た目は完璧だ。勇気を出して口に放り込んで、奥歯でかみ砕く。
「ぅげほっ!」
口と鼻を襲った匂いで、飲み込めずに吐き出した。
気分転換をしようと、街に出ることにした。材料や、失敗作が入ったオーブンと向き合っていても、仕方がない。
「お、殺人菓子職人のハンナじゃん」
(う……よりによって、トニーだなんて)
今、一番聞きたくない声だ。意地悪なトニーの相手をする気力も、余裕もない。無視を決め込んで、違う道を行こう。
一瞬で心を決め、ハンナは右手の道へ入り込む。大通りの狭間の、細い路地だ。
「おい、待てよ!」
しつこく追ってくる声を振り切りたくて、ハンナは歩調を早める。後ろからは、駆けてくる音。
「待てって!」
肩をつかまれ、強引に足を止められた。意地でも、振り向かない。振り向きたくない。
「今日も作ったのか? んで、まーた失敗したんだろ?」
絶対に、ニヤニヤしながら言っているに決まっている。言われるたびに、どれだけ傷ついているか。
「そんなんで、いざって時は……」
「うるさいっ!」
怒鳴り、肩をつかむ手を振りほどき、ハンナは駆け出した。
☆
十分な距離が取れてから、ハンナは走るのをやめた。気分だけでなく、足まで重い。
悔しくて悔しくて、にじんでこぼれそうな涙を手の甲で拭う。
「どうして泣いてるの?」
行く手から声が聞こえる。顔を上げると、明るい茶色の髪の少年が立っていた。自分と同じ年頃だ。心配そうに、焦げ茶色の瞳と顔を歪めている。
「よかったら、使う?」
差し出された、真っ白なハンカチを受け取る。目に押し当てると、甘い匂いがした。
「ありがとう。これ、洗って返すから」
「いいよ、気にしなくて」
さりげなく取り上げられたハンカチは、彼のズボンのポケットから顔を出している。
「ところで、どうして泣いていたか、聞いてもいいかな?」
ハンナがどんなあだ名で、なぜそう呼ばれているか。初めて会う顔だから、知らないのだろう。
初対面の相手に、わざわざ不快なあだ名を知られたくない。でも、少しだけ、聞いて欲しい気持ちもある。
誰にも話せない思い出を含め、吐き出してしまいたいが。
不安半分で彼の顔を見れば、軽く首を傾けて微笑んでいる。その表情が、不思議と懐かしく感じられて。
「今日も、クッキーを作るのに失敗しちゃって」
ぽろっと口からこぼれ落ちていた。
「子供の頃にね、甘くてすっごくおいしいクッキーをもらったことがあるの。あんなクッキーが作りたいって思ってるんだけど……今日のは酸っぱいし、変な匂いがするし」
酸っぱい、で彼の顔が引きつり、その後露骨に歪む。だが、ハンナは責める気になれない。甘いはずのクッキーが酸っぱい上に、食べ物でない匂いがする。そんな話を聞いてもまず信じられないし、真偽はともかく食べたいと思わないだろう。
「よかったら、作り方を教えようか? 僕、お菓子作りは得意なんだ」
「……いいの? 本当に? お願い、教えて!」
願ってもない申し出に、ハンナは両手を合わせ、我を忘れて頼み込んでいた。
「じゃあ、君の家に行こうか。いつも使っている道具でやった方が、君も勝手がわかるでしょ?」
彼の言葉に頷き、自宅へ案内する。
「そういえば、名前も言ってなかったね。僕はロイ。君は?」
「私はハンナよ」
名乗ると、一瞬だけ、ロイが目を見開く。すぐに穏やかな微笑みが戻り、今見たものが幻覚だったような錯覚を覚えた。
歩く間に、ロイが最近この街に超してきたことを知り、ハンナはようやく合点がいく。だから彼は、自分のことを知らないのだと。
家に残してきたクッキーを思えば。一度でいい、まともなものが作れるだけで、きっと満足できてしまうから。
自宅に着き、台所へ向かう。手前の廊下にまで、酸っぱい匂いが流れていた。
「あーっ、窓開けておくの忘れてた!」
慌てて家中の窓を開けに走る。
「想像してたよりすごいかも。何が入ったらこんな匂いになるんだろう?」
苦笑いしているロイに、苦かったり辛かったり、ひどい時には生臭い匂いがすることは言い出せなかった。
ごまかしたいハンナは曖昧に微笑んで、今度こそ台所へ足を踏み入れる。
使った道具は綺麗に洗い、水切り棚に乗せてある。材料は決められた場所にしまっておいた。きちんと片づけないと、次は作らせてもらえないからだ。
「えっと、道具は水切り棚ね。で、材料は、バターと卵は地下。小麦粉はそこの引き出しの中で……ええっと、他にいるのは……」
「砂糖はどこ?」
「あ、砂糖は小麦粉の隣の引き出しよ」
「ありがとう」
礼を言ったロイは、まず地下へ向かう。炊事場の隣にあるドアを開け、階段を下り、バターと卵を持って戻ってきた。それから、ハンナが指さした引き出しを開け、小麦粉と砂糖を取り出す。さらに、水切り棚から大きめのボウルを二つと、小さなボウルと小皿を一つずつ。泡立て器と木べらと秤を抱えて、テーブルの上にそれらを並べる。
「最初にいるのはこのくらいかな。じゃあ、まずは手を洗って、バターを量ろうね」
手を洗うついでにナイフを持ってきて、ロイの言う分量だけバターを取り分けた。それを大きなボウルに入れる。
「バターは放っておいて、次は砂糖と小麦粉を量って」
大きなボウルに小麦粉を、小皿に砂糖を量り入れた。
「そしたら、この小さいボウルに卵を割り入れて、泡立て器で混ぜてね」
言われたとおり、卵を割り入れ、泡立て器で混ぜる。白身がなるべく目立たなくなるよう、けれど泡立たないように。
「うん、上手だよ。じゃあ、一度泡立て器を洗ってもらって」
水で綺麗に洗い流す。軽く水を切り、リネンで丁寧に水気を拭き取った。
「ちょっと泡立て器を貸して? ……うん、いいかな」
泡立て器でバターを突いたロイに、泡立て器を突っ込んだままのボウルを渡される。受け取って、同じように泡立て器で突いてみた。
「いつもよりやわらかい!」
「バターはやわらかくして、泡立て器でよく混ぜるんだよ。混ぜてると白っぽくなってくるから、そこまで頑張って」
頷いて、左腕でボウルを抱え込み、右手で泡立て器を動かす。
普段作る時より、バターがやわらかいからか。ひたすら混ぜ動かすのも、あまり苦にならない。
泡立て器が忙しく動くうちに、薄い黄色だったバターが、白っぽくなってきた。
「上出来だよ! 次は砂糖を全部入れて。今度は全体に混ざればいいからね」
サラサラと音を立てて流れ込んだ砂糖を、バターに混ぜ込む。ボウルに当たって、ザリザリした振動になって伝わる。
「次は、溶いておいた卵を少しずつ入れて、しっかり混ぜてね。一気に入れると、分離しちゃうから」
「ちょっとずつ、ね」
小さなボウルをわずかに傾けて、中の溶き卵を流す。緊張して手が震え、ボウルもガタガタ震えている。
勇気を出してさらに傾けると、溶き卵がダラッと流れ出た。慌ててボウルを戻すが、かなりの量が入ってしまった。
「あ、ああ……」
「んー、このくらいならまだ大丈夫。しっかり混ぜて」
「う、うん」
最初は、卵とバターがバラバラだった。懸命に泡立て器を動かすうちに、バターと卵が混ざり始める。
「あっ、混ざってきた!」
「ね? ちょっとくらいだったら、卵が入りすぎても大丈夫だよ」
ハンナは笑顔になって、今度は上手に、少しだけ溶き卵を流し込んだ。同じ作業を、溶き卵がなくなるまで繰り返す。
「ロイ、卵がなくなったけど」
「じゃあ、泡立て器についてる生地の元をよく落として、泡立て器は流しの中ね。ここからは木べらを使うから」
言われるままに、泡立て器をボウルの縁で軽く叩き、ついていた生地を落とした。
「小麦粉は、全部を一度に入れてね」
ボウル同士をくっつけて、ゆっくり傾ける。一部がふわりと舞い上がりながら、黄色味がかった生地の上に雪山が出来上がった。
「木べらで切るように混ぜてね」
「切るように?」
聞き返すと、ロイは空いたボウルを手に、動きを見せてくれる。ハンナはそのとおりに手を動かす。
初めの数回は、粉が舞い上がってやりにくかった。だが、何度も繰り返すうちに、小麦粉とバターが混ざり合って、一つの固まりになっていく。
「うわぁ、まとまってきた!」
「ハンナは上手だね。今まで、本当にできなかったの?」
「うん、全然ダメ。この辺で、私の作るクッキーのこと、知らない人なんていないくらいの失敗ばかりよ」
「何でだろう……分量の量り方は間違ってなかったんだから、作り方に問題があったか、関係のない材料を混ぜ込んじゃってるか、ってことかな?」
よほど疑問に思っているのか。ロイは首を傾げ、腕を組んで、唇を尖らせて考え込んでいる。
「変なものを混ぜた覚えはないんだけど……あ、これからどうすればいいの?」
集まって一塊になった生地を見せると、ロイはそれを手でまとめた。ボウルに戻し、生地に触れないようリネンをかけ、地下へ運ぶ。くっついて見に行った先で、ボウルは涼しい場所に陣取り冷やされていた。
「ちょっと寝かせるんだよ。涼しくしてあげて、休んでもらうと、綺麗にできるから」
ニコッと微笑んだロイに促され、台所に戻る。
ロイは手近な椅子に座り、ハンナにも座るように言う。
「今さら聞くのもどうかな、って思ったんだけど、どうしてクッキーを作ってるの?」
「えっと、この辺りにある、お祭りのことは知ってる?」
尋ねてみたが、ロイは知らないようだ。不思議そうに首を傾げ、目を瞬かせている。
「初春の月の五日にね、春祭りっていうお祭りがあるの。屋台が出て、みんなで踊るんだけど……女の子は、好きな人に手作りお菓子をあげるの。で、受け取ってその場で食べてくれたら、恋人になれるのよ」
春が近づくと、恋をしている女の子はみんな浮かれ始める。そして、好きな人の好きな菓子が何なのかを、懸命に調べるのだ。
「……ハンナは、好きな人がいるの?」
妙に真剣な顔で問われ、慌てて首と両手を横に振る。
好きな人どころか、気になる人さえできやしない。子供の頃から殺人兵器以上の菓子ばかり作っていたから、近づいてくる同性もほとんどいないのだ。
絡んでくるのは、菓子作りの失敗をからかってくるトニー一人だけ。
「今は全然縁がないお祭りなんだけど。でも、いつか好きな人ができたら、ちゃんと食べられるものを渡したいし……」
食べたとたんに、吐くか倒れるかする菓子は、ただの凶器だ。
「そっか」
なぜか、安心したように息を吐いて、ロイは地下室を振り返る。
「そろそろ出してきて、形にしようか」
「うん!」
出してきた生地を薄く伸ばす。型を抜くのもいいが、少しでも早く焼き上げたかったので、包丁で長方形に切る。油を引いた天板に綺麗に並べ、温めておいたオーブンに放り込んだ。
後は、焼き上がりを待つばかり。
(どうか、人間の食べ物になっていますように……)
思わず、祈らずにはいられない。
時間が過ぎるのが、遅く感じる。その間、心臓はドキドキしっぱなしだ。たまに話しかけてくるロイの言葉も、何一つ耳に入ってこない。
ふわり、と鼻をくすぐったのは、甘い匂いだった。
椅子を蹴倒し、立ち上がる。
「あ、まだだよ」
「わかってるけど……ちゃんと、お菓子の匂いがしたから」
ソワソワしているハンナを椅子に座らせ、ロイがオーブンの前に立つ。数を数えているのか、彼の足はトントンとリズムを刻んでいた。
「はい、できあがり」
鍋つかみを渡され、ハンナは急いで手にはめる。ロイがいなくなったオーブンの前に立って、大きく深呼吸をした。それから、オーブンを開く。
熱気に混ざる、むせ返るような甘い香り。天板を引っ張り出せば、綺麗なきつね色のクッキーが並んでいる。
早速鍋つかみを外し、一つつまんでみた。
思い出のクッキーよりは硬くてしっかりしている。でも。
「甘くておいしい!」
人間が食べられるものだ。
「ね? ちゃんと作れるでしょ?」
「うん! ロイってすごいね。まるで、魔法使いみたい!」
「それは、君の方だよ」
呟かれた意味がわからず聞き返すが、ロイは言葉を濁す。ごまかすように、できたてのクッキーを一つ、口に放り込んだ。
「これだったら、君に好きな人ができても大丈夫だね」
「明日、教わったとおりに作ってみて、ちゃんとできてからよ。いつでもちゃんとした食べ物になってくれなきゃ、安心して作れないじゃない」
「……そんなに、ひどかったの?」
顔を引きつらせたロイに、ハンナは何度も頷いた。
☆
今日は、待ちに待った春祭りの日だ。
あれから、ロイに教わったクッキーを何度も作ってみた。できたものを食べてもらったこともある。今はもう、目を閉じていても作れそうなくらい、失敗知らずだ。
サクランボの砂糖漬けを小さく切って乗せた、特に焼き色のいいクッキーを選び、小さな紙袋に入れる。口を三回折り曲げて、両手でしっかりと、けれど優しく抱き締めた。
優しくて面倒見のいいロイは、このふた月ですっかり人気者になっている。今日はきっと、たくさんの手作り菓子を差し出されるだろう。それどころか、もうとっくに誰かの菓子を受け取って、食べているかもしれない。
それでも、一縷の望みをかけて、差し出すくらいはしてみたかった。
街は、浮かれた空気に包まれている。そんな中で何人か、沈んだ表情で歩く少女を見かけた。彼女たちの手には、綺麗に包まれた箱や、小さな紙袋が握られている。
見るからに贈り物らしい、可愛い手荷物のある少女とすれ違うたび。ハンナの心にある小さな不安の芽が、どんどん育っていく。
二度と会いたくない。そう思ってしまうほど、ひどいことを言われたらどうしよう。
おかしな考えが浮かぶと、他のことが考えられなくなった。小さかった芽は大きくなり、ハンナの心臓を突き破りそうだ。
ロイの家が見えてきた。同時に、渡そうと集まっている少女たちも、視界に入る。
(……このまま、帰った方がいいのかも)
教えてもらったクッキーだけは上手に作れる。だが、それだけだ。他の菓子となると、恐らく作れない。でも、ここにいる少女たちはきっと、どんなものでもそつなく作ってしまうのだろう。
(うん、やっぱり、帰ろう。で、これは私が食べちゃえばいいよね)
向きを変えたところで、名前を呼ばれた気がした。
気のせい、絶対に気のせい。
頭を数回振って、離れるための一歩を大きく踏み出す。
「ハンナ、待って!」
はっきり聞こえたロイの声に、驚いた足が勝手に走り出した。
腕の中に抱え込んでいる小さな紙袋を、落としたりつぶしたりしたくなくて。いつものような速度が出せない。
「ハンナ!」
つかまれた腕は痛くないのに。
なぜか鼻の奥がツンとして、見えていた景色がにじんでぼやけた。目からこぼれたものが、頬をくすぐりながら滑り落ちていく。
「あ、ご、ごめん! 痛かった?」
慌てて手を離したロイは、ズボンのポケットから白いハンカチを出した。そっと目元に当てられたそれを、ハンナは左手で押さえる。
「そ、その……君がお菓子を持ってきてくれてるみたいだったのに、帰っちゃうのかと思ったら、いても立ってもいられなくて……」
しどろもどろで、必死。しかも、戸惑っている。こんなロイは、初めて見た。
いつも見ていたロイは、どちらかというと余裕があって、人のあしらいがうまい。ケンカになりそうな雰囲気がしたら、間に入って仲を取り持ってしまう。笑顔を絶やさず、いるだけでみんなを明るい気分にしてくれる。そういう人だ。
「多分、ルール違反なんだろうけど……そのお菓子、もらってもいい?」
腕に抱えていた紙袋を指さし、ロイが微笑む。
「でも、ロイに渡したいって子は、あんなにたくさんいたのに……」
「これを食べたら、僕が君の恋人になれるんでしょ?」
穏やかな微笑の割に、真剣な声。
急に息が詰まって、ハンナはかすかに頷くだけで精一杯だ。
「ハンナの作ったお菓子を、僕にちょうだい」
渡したい。そう思うのだが、体が固まってしまって、指一本動かせなくなっていた。
「じゃあ、勝手に開けていい?」
どうにか首が縦に動く。
とたんに、ロイはパッと破顔して、折られた紙袋の口を戻して開ける。
「いい匂いだね」
開いたと同時に立ち上る、甘い香り。
食べられる菓子が作れること。誰かに手作りの菓子を渡すこと。一年前の同じ日には、想像もしていなかった。
「あ、待って。食べる前に一つだけ、聞いてもいい?」
袋の口をギュッと握って、ハンナはロイの手を遮る。
「ロイはどうして、私にお菓子の作り方を教えてくれたの?」
「……僕が昔、この街に住んでた頃の話なんだけどね」
話さなければ渡さない。瞳で語るハンナに両手を挙げて降参の意を示し、ロイは目を閉じて話し出す。
「母さんと一緒に初めて作ったクッキーの余りを、たまたま通りかかった子にあげたんだ。目をキラキラ輝かせて、小さな手で一つつまんで口に入れて、こーんな顔で」
言いながら、ロイは両手で頬を押さえ、満面の笑みになる。
「おいしい! って言ってくれたんだ。籠いっぱいにあったのに、あっという間になくなっちゃって。たった一回、名前を聞いただけのその子に、もう一度食べて欲しくて、今じゃお菓子作りが趣味になっちゃったんだ」
やわらかな笑みを添えて、ロイは幸せそうに語っていた。
「うん、まあ、だから、春祭りについても、実は知ってたんだけど」
目を見開くハンナを、いたずらっ子のような顔のロイが覗き込む。
「君と、話をするきっかけが欲しかったから」
「……え?」
「だって、君ときたら、僕の作ったクッキーのことは覚えていても、僕のことは全然覚えてないんだから。ちょっと意地悪したくなっても、不思議じゃないでしょ?」
片目をつぶったロイの言葉に、ハンナは呆然として目を瞬かせるばかりだ。
「春祭りなんてあるから、ずっと気が気じゃなかったんだけど。君がお菓子作りに失敗してばかりで助かったよ」
「え? あ!」
しっかり握っていたはずの紙袋が、いつの間にかロイの手の中にある。口を開けられて、つまみ上げられた一つが、ロイの口の中に飛び込む。
「うん、すっごくおいしいよ。これで君は、僕だけのものなんだね」
心の底から向けられた賛辞と、かすかな意地の悪さが見える微笑。嬉しいのか、だまされた気分なのか、判断がつかない。
力が抜けたハンナは、真っ赤な顔で、へなへなとその場に座り込んだ。