第三章 天の割れ目と巨神の収穫
【第三章 あらすじ】
突如として街から消失した、あらゆる「音」。
風の揺らめきすら拒絶された絶対の沈黙の中、異形との死闘を繰り広げていたシノハラを、逃げ場のない「超重力」が襲う。
叩きつけられる圧力を前に、人間も、異形も、ただ地を這うことしか許されない。
血の混じった視界の中、彼らが見上げた夜空は、不可解な形に大きくくり抜かれていた。
雲の割れ目から現れたのは、人間のあらゆる美意識と常識を容易く粉砕する**「圧倒的な存在」**。
惨殺者すらも狂乱へと追いやる無慈悲な威圧感。
ビル群が乾いた砂のように崩れ去る中、地上を覆う光とともに始まったのは、人類が経験したことのない恐怖の現象だった。
圧倒的な絶望の渦中で、シノハラが目撃する「世界の真実」とは——。
……カチ……
風の音も、遠くで燃える瓦礫の爆ぜる音も、シノハラの荒い息遣いすらも。
あらゆる空気の振動が拒絶されたかのような「絶対の沈黙」が、深夜の新宿を支配した。
「……ぐ……!?」
シノハラの上にかぶさっていた変異した男が、唐突に動きを止めた。
男の背中でうねっていた異形の棘が、まるで氷水をかけられたかのように一瞬で縮み上がり、男の肉体の奥深くへ逃げ込もうとして激しく蠢いている。
ズゥゥゥゥゥン……!!
遅れてやってきたのは、音ではなく「超重力」であった。
大気そのものが超高密度の鉛の塊と化して叩きつけられたかのような圧力が地表を襲った。
アスファルトに蜘蛛の巣状の深い亀裂が走り、シノハラも、変異した男も、その場に叩きつけられて指一本動かせなくなった。
「ガハッ……!? な、なんだ……体が……ッ!」
シノハラは胸を強く圧迫され、口から真っ赤な血を吐き出した。
肺の中の空気が強制的に押し出され、息を吸うことすら叶わない。隣の男は、あまりの重圧に両の眼球が破裂し、赤い血の涙を垂流しながら地を這っていた。
耐震補強された超高層ビルの強化ガラスを一斉に粉砕され、夜空にダイヤモンドの粉末となって舞い散る。
シノハラは血の混じった視界を必死に持ち上げ、夜空を見上げた。
雲が、割れていた。
気象現象などではない。何千キロメートルにも及ぶ分厚い鉛色の雲海が、綺麗な円形にくり抜かれていたのだ。
その渦巻く雲の隙間から現れたのは、群青色の宇宙と——**「巨大な手」**であった。
その「手」は、人間の持つあらゆる美意識や生物学の理解を遥かに踏みにじっていた。
皮膚は半透明の青白い水晶のような光沢を放ち、その奥には銀色に輝く太い脈管が、幾何学的な模様を描いて蠢いている。指は細長く、5本でも6本でもない、見つめる者の正気を削り取るように本数が歪み続けていた。
そして何より、その巨大さであった。
たった一本の指の太さが、都庁舎の全高を易々と上回っている。
それが雲を押し開き、ゆるやかに、まるで熟した果実を摘み取るかのような、恐ろしいほど繊細な足取りで地上へと伸びてきた。
「ヒ……ヒィィィィィッ……!!」
先ほどまで惨殺者気取りだった変異した男が、股間から黄色い体液を撒き散らしながら、狂ったように頭を地面に打ち付け始めた。
彼の中に潜んでいた「龍の寄生虫」は、自分たちとは次元の違う**「神々の回収機関(捕食者)」**の威圧感を前にして、完全に精神を破壊されていた。
メリメリメリメリ……ッ!!
捕食者の指先が、超高層ビル群の屋上にそっと触れた。
それだけで、数万トンの鉄骨とコンクリートで固められた建築物が、まるで乾いた砂の城のように呆気なく砕け散っていく。
だが、彼らの目的は破壊ではなかった。
「手」の掌から、半透明の淡い桃色の光幕が放射された。
その光に包まれた瞬間、ビルの中に潜んでいた無数の人間たちが、悲鳴を上げる隙すら与えられず、ふわりと重力を失って上空へと吸い上げられていった。
何千、何万という人間の身体が、光の粒子とともに雲の向こうへと収穫されていく。
(ああ……)
シノハラは地面に頬を押しつけたまま、その光景をぼんやりと眺めていた。
かつて人間が、養鶏場の天井を剥がし、逃げ惑う鶏を次々とカゴの中に放り込んだ時の光景。
あるいは、網を使って川の魚を一網打尽にすくい上げた時の光景。
あれと、まったく同じだ。
上空の雲の彼方から、微かに、しかし地球全体を震わせるような音が伝わってきた。
——ゴクリ。
それは、果実の汁を飲み干し、肉を胃袋へと落とし込む、あまりにも巨大な「咀嚼と嚥下」の音であった。




