表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

陰謀論、認知戦について

作者: kkeman
掲載日:2026/06/06


 最初に断っておきますが、これから書くことは、それを決めつけ、盲信することが目的ではなく、それぞれに考えること、というより、見る、聞く、考えることについて、考えることを目的とするものです。


 陰謀論を信じるべきかそうでないか、正しいのか間違っているのか、そういう話はしません。何かのテーマで対立して争う場合、それぞれ論理的に議論しても、最終的に水掛け論になる場合があります。色のたとえで言えば、赤か青か黄色かと言い争い、変わり者が黒だ白だと言う。しかし、それらはすべて光という電磁波の波長の違いにすぎません。要するに、一つ上の階層から捉える視点が必要だということです。

 

 陰謀論について言われることといえば「なぜ、陰謀論に引き込まれてしまうのか」「陰謀論を信じてしまう人達は、どのような人達か」といったものばかりです。そして、その内容自体は、だいたい当たっていることが多く、陰謀論について考えたくない人達が、それを聞いて溜飲をさげ、それで終わりです。そして、それを信じている人達に、「かわいそう」「生きづらそう」などと字面としては、同情しているような言葉で、実際は相手を傷つけることがわかっていながら発するということをしているように思えます。それは相手のためにも、自分のためにもするべきではありません。


 しかし、まずこの時点で、おかしいと思わなければならないと思います。陰謀論という言葉の定義をする前に、こういう問題の提起の仕方をする時点で論理的ではないと、気づかなければなりません。その陰謀というものについて、詳細に検証することが都合が悪いからであると思われても仕方ありません。かつて、ノストラダムスの予言というものがあり、それを信じていた人達と、陰謀論を信じる人達には共通するものがある、その論旨の扱われ方、否定のされ方がほとんどです。しかし、陰謀論とノストラダムスの予言は違います。


 CIAが定義するよりはるか昔から陰謀論は存在していました。これは陰謀論が普遍的なものであることを示唆するものです。哲学、社会学、経済学などにしても、現状を疑う事と切り離せないという事を考えれば陰謀論と一部重なる部分があります。違う部分は、その権威性、信じるに足る、と人が思っているか否かでしょう。しかし、その権威も、ある利害から、そのように主張することがあることを、今では誰でも普通に知っているでしょう。ならば、その信じるに足るか否かの境界は、曖昧であるはずです。だとすれば哲学と同じように、その「あり方」や「存在する意味」そのものを問う必要があります。


 歴史的に見れば、何かに異議が唱えられたとき、民衆の知的レベルが追いつくまでは、それは「陰謀論」と呼ばれ、レベルが上がって隠せなくなると正当な主張として認められることがあります。三権分立というものですら、それがまだ存在しなかったとき、それに関する疑い、問題が最初に唱えられたときは「政治家は善人だから、まさか司法を自分の都合のいいように操作したりはしないだろう」という、いわば陰謀論のような側面があったのではないでしょうか。


 いま「陰謀論」という言葉のもとには、質の異なるものが混ぜ合わされています。地球平面説のような荒唐無稽なものと、本来、真剣に考えるべき問いとが同列に扱われ、後者が埋もれてしまっています。


 ここには一種の構造があります。ある知られたくない秘密を抱える者、権力者などは、日頃から出鱈目な陰謀論を唱える人物にあえてその隠したい真実を語らせます。すると聞き手は「地球平面説を唱えるような人間の言うこと」として鼻で笑い、聞く耳を持たなくなる。つまり「陰謀論」という言葉が、すべてを一つの箱に押し込めるレッテルとして機能している、この点を見抜けるかどうかが問われます。この出鱈目な陰謀論者は、仕事としてやっている者も、無自覚にやっている者もいます。


 ちなみに、権力者、支配者などという言葉を使うとき、ルサンチマンがどうの、という風に考える方もおられると思いますが、その点は、こちらも常々気をつけているところです。


 陰謀論を否定する意味も理解できます。職も生活も充実している人々が陰謀論に傾倒し、こぞってデモなどに参加すれば、経済は止まります。


 色のたとえを使えば、黒は他のすべての色を黒一色に塗りつぶす。陰謀論が「黒」であり、皆がそこに引き込まれれば、結局は皆デモをしているだけになるので世の中にとって悪い、という理屈は成り立つでしょう。


 一つ一つの証拠に自分で当たれないという点では、陰謀論も、政府や大企業の公式見解も同じであると思います。だからこそ重要なのは、証拠の真偽そのものより「権力者がどう考えるか」それを可能性として考えることです。


 データというものが証拠のように思われますが、これには落とし穴があります。一つの例として、A高、B高という、ともに共学の高校があり、そこでテストを行った結果、平均点は男子、女子ともに、A高が高かった。こう聞くと、全体の平均点は当然A高が高いと思ってしまいますが、実は、全体の平均点ではB高の方が高いということが普通にあります。そこで、例えばワイドショーなどで専門家がデータを出すとき、この「男女ともにA高が高かったんですよ」というところで話を止めた場合、見ている人のほとんどは、「全体もA高が高かったんだ」と思ってしまいます。何より悪どいのは、専門家が「嘘は言ってない」ということです。それがもたらす結果を知っていながら、わざと、そう言ったにもかかわらず。


 人は信じたいものを信じる。それと同じように、見たくないものは見ず、考えたくないことは考えない。情報が隠されているというこれまでの状態は、ネットやAIによって変わりつつあり、その変化が何を意味するかも問われます。


 奴隷は時間が経つとその状態から抜け出すことを望まなくなるといいます。人間はどんな状態でも、時間が経てばそれを幸せと思えるようにできている。だからこそ、今の自分の状態が本当はどういう状態なのかを考えられるかが問われます。


 自分の状態、そして世の中の抽象的な動きや状態を認識するには、思考的にであれ物理的にであれ、ある程度、世間から離れてものを考えられる時間がなければ見えてこないでしょう。しかし、日々の忙しさのせいで、そんな暇はないという方々は、それは仕方のないことです。それを情報弱者などと言って馬鹿にすることなど決してあってはなりません。


 また、社会的弱者が陰謀論にハマりやすいことは、人生がうまくいっていると思う人が陰謀論の類を考えたくないことと、ちょうど表裏一体になっています。


 自分の現状が社会的に弱い立場である場合、近道をして、手っ取り早く逆転させようという考えから、陰謀論というものを何の吟味する事もなく盲信している人たちもいるでしょう。それは良くないことです。


 また、考えすぎることから陰謀論に嵌るということもあるでしょう。

 

 ある種の精神病は「少ない知識で考えすぎること」と関係しています。思考とは脳のデータを結びつけ、そこからパターンを導く作業です。少ない知識で考えないなら、ただ愚かであるにとどまる。しかし、少ない知識で考えすぎると、ある種の精神病のようになる。本人の中では理路整然としている、限られた知識をきちんと結びつけているからです。しかし、外から見ればいくらでも例外を挙げられる。その例外にあたるデータが本人には欠けているため、見えないのです。


 この話の上では、優越感には二種類あります。「自分だけが世界の秘密を知っている」という優越感もあれば、「自分はいかにバランス感覚のある人間か」という優越感もある。どちらの側にも陥りうることです。


 だから、賢そうな人でさえ、この話題を語るときはどちらの側であってもかなり偏る。それは、自分の生活、やってきたこと、信じてきたことを疑わなければならないという苦痛を伴うからでしょう。そして「そのままで自分は幸せだ、余計なことは考えたくない」という人も当然います。


 陰謀論というものにまつわる問題も含め、今ある認知戦に立ち向かわなければならないと思います。


 一つ一つの情報を仔細に検討することも重要ですが、それには限界があり、その前に重要なことがあります。その情報が誰によって、どういうタイミングで、そこに出されたのか、その意味と意図を考えられなければなりません。要するに、これまで論じてきたのと同じく、一つ上の階層で考える必要があるということです。時間的にも、空間的にも、人間的にも、情報の裏に広がるものへ視野を持たなければなりません。


 何年か前に、日本に住むクルド人の振る舞いが悪くて周囲の人達に迷惑をかけている、という問題が注目されていた時、SNSにバイデンが、戦時中の日系アメリカ人強制収容(在米の日本人を収容所に入れたこと)について、「恥ずべきこと」であり、「家族は引き離され、地域社会は引き裂かれ、人々は尊厳を奪われた」と言及したというポストが突然あがりました。それに対するコメント欄は、「原爆は、謝んないの?」「他に謝ることいっぱいあるだろ」というようなコメントばかりで、そのポストの意味を理解している人はいませんでした。この場合、バイデンが言及したことが事実であるかどうか、フェイクであるかは、ここでは問題ではありません。なぜその時、その情報があがってきたか、ということが重要であり、それは、日本の世論がクルド人に対して、そして移民政策に対して引き締めの方向に向かわないように牽制する為のものである可能性に気づかなければならない、ということです。


 SNSはbotや、お金をもらって動く工作員のようなもので溢れています。また「人」で判断することにも気をつけなければなりません。「この人は前に正しいことを言っていたから、今度の発言も信用できる」このような考え方をしてはならないと思います。


 詐欺師は、十のうち九は正しく優しい言葉をかけ、最後の一で全部をかっさらう。最後の一つの目的のために、残り九割を人の賛同を得るためだけに語る者がいます。発言者の過去の正しさは、個々の発言の正しさを保証しないのです。現在、突然どこから湧いてきたのか、SNSや、youtubeなどで、頻繁に露出し始め、知名度を上げるような人達がいますが、そういう人達、もちろん政治家も含め、上記のような事をやっている人間は多いように思えます。その人達の本当の目的がどこにあるのかを考えて見ましょう。


 さらに巧妙な手口があります。SNS上であるテーマについて対立する二つの側があったとき、一方の側の人間を装い、わざと汚い言葉を使ったり、愚かに盲信しているかのように振る舞ったりする。そうしてその側全体のイメージを貶め、「あちらはそういう人間の集まりだから聞く必要はない」と思わせ、まるごと無効化する。これは反対側から仕事として送り込まれた工作員の場合もあれば、そもそも、そのテーマに何の関心もない者がお金のためにやっている場合もあります。


 これは物理的な場でも行われています。たとえば街角で何かを主張する者、選挙の候補者でもいいですが、それに反対して邪魔をするように罵詈雑言を浴びせ、チンピラのように振る舞う者がいたとします。その悪く振る舞う者を、実は、主張している側、候補者本人が用意していることがあります。反対派をそういう品のない連中に見せかけ、相対的に自分の立場をよく見せるために。


 ここまで述べてきたすべてのことは、結論をあらかじめ決めつけ、盲信するためのものではなく、何かの情報を見極めるとき、その裏にあり得る可能性として、すぐに頭の中に羅列できなければならない、そのためのものです。羅列した中のどれかに、ことさら偏る必要もありません。ただ頭に入れておいて冷静に見定めていく、ということです。


 認知戦に対しては、すべての人が、まず物理的にも思考的にも自分の状態を知ること。その上で、ものを見る・聞く・考えるとはどういうことかを知ること。そこからしか始まらないと思います。


 一つの票、いいね、チャンネル登録も、ものを考えられようが、考えられまいが同じ「一」です。そのことの表と裏の意味を考え、票を得ようとするものがそれを、どのように使うかを考え、自分が、どのような「一」になるのかを、権利と責任の両方で考えなければならないと思います。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ