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汚泥の天使  作者: はまゆう


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第4話 鏡の中の天使

雨が止んだのは、翌朝の四時過ぎだった。

繭は一睡もしていなかった。

眠れないのではなく、眠ることが怖かった。夢の中では、藤堂勲がいつも同じ姿で現れるからだ。血も涙も流さず、ただ穏やかに微笑んで、何も言わずに繭を見つめるだけの、あの老人の幽霊が。責めることも、咎めることも、憎むことさえしない。ただ「見ている」だけの藤堂こそが、繭にとって最も耐えがたい拷問だった。生前と少しも変わらない、あの慈悲という名の暴力。

繭は、布団も敷かずに畳の上に横たわり、天井の染みを数え続けていた。

十七個ある。

一番大きな染みは、入居した日からそこにあった。家主は「前の住人が煮炊きしすぎたせい」と言ったが、繭にはずっと、人の横顔に見えていた。誰の顔かはわからない。顎が細く、額が広い、どこか気品のある輪郭。

今夜初めて気づいた。それは藤堂に似ていた。

(あなたはどこにでも出てくるのね)

繭は、天井に向かって無言で呟いた。声にするのも憚られる、内臓の奥から滲み出るような思念だった。藤堂勲という男は死んでなお、繭の生活空間のあらゆる染みや、窓ガラスの傷や、水道の蛇口から垂れる錆色の水の中に、じっとり浸透してきているようだった。

彼女は、ゆっくりと体を起こした。

六畳間は、黎明前の暗闇の中で、安物の家具と、積み上げた雑誌と、脱ぎ捨てたままのコンビニの袋に埋め尽くされていた。藤堂の豪邸に通い詰めていた頃の繭なら、こんな部屋の惨状を見て、深く恥じていたかもしれない。あの頃の繭はまだ、自分が「上昇」している最中だと信じていた。

今は何も感じない。

恥も、惨めさも、もはや繭の皮膚を透過しなかった。

スマートフォンには、着信が十二件入っていた。小川から九件、あとの三件は番号非通知だった。小川からのメッセージは全て読まずに削除した。あの赤い口紅の女の声を、今夜だけは聞きたくなかった。あの粘着質な欲望の声が耳孔に入り込めば、繭は自分が本当に小川と「同じ生き物」なのだと、改めて確認させられることになる。

それに耐えるほど、今夜の繭はまだ強くなかった。

番号非通知の着信については、少しだけ考えた。

週刊誌の記者か。あるいは藤堂の遺族か。それとも警察か。

どれでもよかった。

繭は、台所に立ってやかんに水を入れた。水道から出る水は、この季節でも微かに鉄の匂いがする。蛇口を握る手の甲に、青い静脈が浮き上がっているのを見て、繭は不意に、藤堂が最後に自分の手を握ったときのことを思い出した。

病室のベッドの上で、彼の手はひどく冷たかった。

けれど握る力は、思いのほか強かった。

「繭さん」と彼は言った。死の三日前のことだ。「あなたは、もっと違う生き方ができる人間だ。私はそれを信じている」

繭は、その言葉を聞いた瞬間、奥歯の裏側で、全身の憎悪を噛み潰した。

信じている、と彼は言った。この期に及んで、この男は繭を「救われるべき魂」として信じ続けている。繭が仕組んだ罠も、捏造した告発も、彼の清廉な人生に塗りたくった泥の一切合切を、彼はきっと半分も理解していない。あるいは理解した上で、それでもまだ「若さゆえの過ち」という物語の中に繭を押し込もうとしている。

どこまでも上から目線だった。

どこまでも、美しかった。

やかんが鳴り始めた。

繭は火を止めて、インスタントコーヒーの瓶を開けた。瓶の底には、固まりかけた黒い粉が数グラム残っているだけだった。それをカップに叩き込み、沸騰した湯を注ぐ。立ち上る湯気が、蛍光灯の光の中で白く揺らいで、すぐに消えた。

コーヒーを持って、繭は窓際に立った。

東京の夜明け前の空は、汚れた藍色をしていた。ビルの輪郭が、朝の光の萌芽を受けて、まだ曖昧に滲んでいる。どこかで鴉が一声鳴いた。繭は、その声を聞いた瞬間、場違いな懐かしさを覚えた。子供の頃、繭が育った千葉の郊外のアパートでも、夜明けには必ず鴉が鳴いた。あの頃の繭はまだ、何者でもなかった。何者でもない繭を、誰も傷つけなかった。傷つける価値すら、なかったから。

コーヒーは苦すぎて、飲み込むのに少し時間がかかった。

繭は、昨夜から繰り返し反芻していた疑問を、再び取り出した。

なぜ、藤堂勲を汚し尽くした今も、自分は少しも軽くならないのか。

彼のキャリアを焼き、名誉を腐らせ、遺族にさえ疎まれる「性的異常者」の烙印を、白骨になりかけた死体に押しつけた。それだけのことをしても、繭の内側にある、あの重くて粘ついた「何か」は、一グラムも減っていない。むしろ増えている。藤堂という清潔な器に汚泥を注いだことで、繭自身が汚泥の容積を正確に知ることになった。

(私は、あいつに勝ちたかったのか。それとも、あいつになりたかったのか)

その問いに、繭はまだ答えを持っていなかった。

窓ガラスに、繭の顔が薄く映っている。

背後の部屋の蛍光灯を受けて、その顔は幽霊めいて白く、輪郭がぼやけて見えた。まるで、存在そのものが定まっていないような、危うい透明感だった。繭は、その顔をじっと見つめた。

その顔が、藤堂に似ていた。

気のせいかもしれなかった。しかし繭には、確かにそう見えた。頬の落ちた輪郭が、あの老人の死に顔の静謐な美しさと、どこかで交差している。繭は、藤堂の人生を喰い尽くすことで、藤堂の「形」を内側から吸収してしまったのかもしれなかった。寄生虫が宿主の形に似てくるように。

その考えは、繭を不思議なほど落ち着かせた。

と同時に、凍りつかせた。

スマートフォンが、また鳴った。

今度は番号非通知ではなく、見知らぬ市外局番だった。繭は、三秒ほど画面を見つめてから、通話ボタンを押した。

「野上繭さんですか」

低い、男の声だった。感情の起伏が削ぎ落とされた、事務的な声だ。

「……そうですが」

「藤堂勲さんの件で、少しお話を伺えますか。私、警視庁の者でして」

繭は、コーヒーカップを窓枠に置いた。

心臓が、一回だけ強く跳ねた。あとは静かだった。不思議なほど静かだった。恐怖という感情が、繭の中のどこかで既に消費し尽くされていたかのように。あるいは恐怖と期待と安堵が、瞬時に混合されて、どの色にもなれない透明な感情に変質したかのように。

「いつ、どこへ行けばよいですか」

繭は答えた。声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。

電話が切れた。

繭は窓の外を見た。

東京の夜明けが、じわじわと空の底から滲み出てくる。汚れた藍色が、くすんだ桃色と混ざり合って、どちらとも呼べない、曖昧な色になっていく。美しいとは言えなかった。しかし目を離せない色だった。

繭は、そのまま長い時間、窓の外を見ていた。

藤堂勲の顔が、朝の靄の中に浮かんで、消えた。今度は責めてもなく、慈しんでもなく、ただ静かに、目を細めているだけだった。その表情が何を意味するのか、繭にはわからなかった。わかろうとする気力も、もはやなかった。

ただ一つだけ、繭は確かめることができた。

彼女は今、泣いていない。

涙腺はとうに干上がっていた。悲しみを処理する器官は、藤堂が死ぬよりずっと前に、繭の中で静かに機能を停止していたのかもしれない。あるいは、繭がかつてそれと呼んでいた「悲しみ」は、本当は別の何かだったのかもしれない。羨望だったかもしれないし、飢えだったかもしれないし、もっと言えば、藤堂勲という男に「対等に愛されたかった」という、一度も言語化できなかった原初の渇望だったかもしれない。

それは今となっては、もう確かめようがなかった。

繭は、コーヒーカップを持ち上げた。

残りを一息に飲み干す。ひどく苦かった。最後の一滴まで苦かった。

彼女は、カップを流し台に置き、クローゼットから一番上等なコートを取り出した。黒いウールのコート。藤堂に会うために買った、唯一の「真面目な服」だった。それを羽織り、鏡の前に立った。

鏡の中にいる女は、昨夜より少し、顔の輪郭が締まって見えた。

あるいは、繭の目が乾ききって、正確に像を結べなくなっていただけかもしれない。

どちらでもよかった。

繭は、コートのボタンを一つずつ、丁寧に留めた。

まるで、これから大切な人に会いに行くかのように。

ドアノブを握る。金属の冷たさが、手のひらから腕を伝って、肩まで上ってきた。繭は一瞬、目を閉じた。閉じた瞼の裏に、藤堂の病室の天井が見えた。消毒薬の匂い。白い光。老人の細い手首。「あなたは、もっと違う生き方ができる人間だ」という言葉が、繭の耳の奥で、最後にもう一度だけ鳴った。

それが鎮魂歌なのか、呪いなのか、繭にはわからなかった。

ドアを開けると、朝の冷気が一斉に繭の体に流れ込んできた。

階段を降りる。足音が、誰もいない廊下に響く。

通りに出ると、東京の夜明けが、繭の全身に降り注いだ。

冷たく、白く、何の容赦もない光だった。

それは裁きに似ていた。そして洗礼にも、少し似ていた。

繭は、光の中に一歩踏み出した。

踏み出した先に何があるかは、知らなかった。知る必要も、もはやなかった。野上繭という女の物語は、藤堂勲という男の死体に深く根を張った瞬間に、すでに終わっていたのかもしれないのだから。

今、繭が歩いているのは、その後日譚にすぎない。

東京の朝が、無数の窓に反射して、眩しく、汚く、美しく輝いていた。

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