第3章 泥の聖餐
繭が藤堂の遺体に最初にしたことは、彼の手を見ることだった。
正確には、手を見ずにはいられなかった、というべきかもしれない。遺体確認の手続きを終えた後、往診医も佐藤も部屋を出ていき、繭だけが残った数分間。繭は藤堂の左手の傍に立ち、その指先を見つめた。
死後硬直が進んでいる。指は、わずかに曲がった姿勢で固まっている。生前、万年筆を持つときの自然な形に似ていた。長く、細く、手入れの行き届いた指だ。爪は短く整えられ、磨き上げられた真珠のような、乳白色の鈍い光を放っている。
繭は、自分の手を見た。
右手の親指の付け根に、ささくれが二本ある。人差し指の第二関節は、長年の手洗いと消毒液で皮膚が薄くなり、冬になると必ず切れる。去年の冬も、一昨年の冬も、そこから血が滲んだ。洗剤と消毒液に繰り返し晒された手は、三十歳にもなっていないのに、もっと年嵩の女の手に見える。
これは、同じ種類の生き物の、同じ種類のパーツではない。
繭は、藤堂の手のそばに、自分の手を置いた。並べた。並べることに、何か意味があるとは思わなかった。ただ、並べずにいられなかった。
「……汚らわしい」
言葉が出た。どちらに向けた言葉か、繭自身にもわからなかった。藤堂の清潔な手に向けたのか。それとも、自分の荒れた手に向けたのか。
おそらく、両方だ。
彼が清廉であればあるほど、繭の人生の汚さが強調される。彼が穏やかに微笑んだとき、繭は自分が足元の泥の中でのたうち回っているように感じた。それは彼のせいではない。繭にもわかっている。しかし、わかっていることと、感じないことは、別のことだ。繭はずっと、その区別に苦しんできた。
頭では理解している。感情は止まらない。
繭は、藤堂の手から視線を外し、窓の外を見た。冬の朝の光が、目黒の街を白く染めている。どこかで鳩が鳴いている。穏やかな朝だ。何も知らない朝だ。
佐久間洋子からの返信は、繭が送信してから十八分後に来た。
『ナースステーションのワゴンの上に置いておいたわよ。一緒にいた小川さんも見てたから、ちゃんと処理してもらわないとって言ってたの。よろしくね。』
繭は、その文章を三回読んだ。
小川。
小川幸恵、四十八歳。介護補助のパートで、三年前からこの施設にいる。繭と直接のシフトが重なることは少ないが、夕方の時間帯に廊下ですれ違うことがある。
繭は小川のことを、観察していた。
施設の中で、繭は全員を観察している。それは意識的な行為というよりも、呼吸に近い習慣だ。幼いころから、周囲の人間の状態を正確に把握しておくことが、繭の生存戦略だった。父の機嫌がいつ変わるか。母の声のトーンがどのポイントで下がるか。教師の目がどこを向いているか。施設に来てからも、繭はその習慣をやめていない。
小川は、欲しがる人間だ。
何かを欲しがっている、という状態が彼女の基本形だ。金を欲しがり、関心を欲しがり、情報を欲しがり、他人の不幸を欲しがる。欲しがること自体は、繭には理解できる。欲しがることのない人間など存在しない。しかし小川の欲しがり方は、節操がない。欲求に形がない。手に入れた後のことを考えていない。ただ、欲しい、という衝動だけがある。
その衝動が、今繭に向かっている。
繭はナースステーションへ歩いた。廊下は、まだ施設の日常が再開されていない、宙吊りの時間の中にある。二〇三号室の前を通るとき、繭は一度だけドアを見た。すでに「施錠中」の表示が出ている。
ワゴンの上に、クリアファイルがあった。
中に、アンプルの欠片が入っている。細かく割れている。ガラスの透明な破片が、五つか六つ。繭の視界が、一瞬だけ白くなった。
アンプルを確認する。刻印を読む。
繭の指先が、静止した。
これは、昨夜使用した薬剤のアンプルではない。
薬剤名が違う。繭が使ったものとは、別の薬剤だ。
数秒間、繭はその事実を処理した。別の薬剤。つまり、これは別のアンプルだ。誰かが別の処置で使い、廃棄し忘れたか、あるいは誤って混入したものだ。藤堂の部屋のゴミ箱に入っていた理由は、いくつか考えられる。
繭のアンプルではない。
安堵が来るはずだった。しかし、安堵は来なかった。
なぜなら繭は今、自分のアンプルがどこにあるかを、完全には確認できていないからだ。ポケットに入れた。施設の外で捨てた。そう記憶している。しかし昨夜の記憶の一部は、靄の中にある。
小川幸恵は、夕方のシフトで繭の前に現れた。
午後四時過ぎ、繭が記録用紙をまとめていた廊下の端で、足音が止まった。
繭は顔を上げる前に、臭いで気づいた。煙草と、ドラッグストアの安い香水と、それから何か別の、粘り気のある臭いが混じっている。長い時間を節制なく生きてきた体の臭いだ、と繭は思った。不摂生と、積み重なった不満と、代謝しきれなかった感情が、体臭として滲み出ている。
小川の肌は、黄みがかった疲れた色をしている。目の下の隈が深く、目尻の皺は年齢より多い。しかし目だけは、奇妙なほど生き生きとしている。何かを見つけたときの、獲物の気配を嗅ぎつけた動物の目だ。
「ねえ、野上さん」
小川は、繭の隣に並ぶように立った。
距離が近かった。繭が一歩引くと、小川は一歩詰めた。それが意識的な行動かどうか、繭にはわからなかった。おそらく無意識だ。小川は、距離感というものを、相手の基準ではなく自分の基準で測る人間だ。
「あんた、やったんでしょ」
声は低く、廊下に響かない音量だった。演じていない声だ、と繭は思った。これが小川の本音の声だ。施設の中でいつも出している、明るく媚びるような声とは、まったく質感が違う。
「何の話ですか」
「とぼけなくていいわよ。藤堂さんのこと。あんた、昨夜、あの部屋から出てくるとき、顔が違ってたもの。私、わかるのよ。そういうの」
繭は、小川の目を見た。
見つけたときの目だ。欲求に形のない人間が、形を与えてくれるものを見つけたときの目。この目が何を求めているかは、言葉より先に繭に伝わってきた。
「隠したって無駄よ。私、見てたんだもの。あんたがあの部屋のゴミ箱に何か押し込むの」
嘘かもしれない、と繭は思った。見ていないのに見たと言っている可能性がある。ブラフだ。しかし繭には、今それを確認する手段がない。
「……それで?」
繭は、感情を抜いた声で言った。
小川が、少しだけ顔の表情を変えた。驚きが一瞬走った。おそらく、繭が否定すると思っていたのだ。しかし繭は否定しなかった。肯定もしなかった。ただ、次の言葉を促した。
その選択が正しかったかどうか、繭にはまだわからなかった。
「私らみたいな女はね、こういう『お土産』がないと生きていけないのよ」
小川は、口の端を歪めて言った。欠けた歯が見えた。奥歯の一本が、半分ほど失われている。歯科に行く金がないのか、行く気がないのか、あるいはその両方か。繭には判断できなかったが、その欠けた歯が、妙にリアルなものとして繭の視界に残った。
「藤堂さん、いい時計してたわよね。ああいうの、ひとつくらいあっても、誰も気づかないんじゃないかしら」
小川は、下から繭を見上げた。
繭は、その視線を受けながら、自分のポケットの中の重みを感じていた。腕時計の重みを。冷たい金属の重みを。
(この女は、知っている)
知っているのか、あるいは知っていると思っているだけなのか。どちらにしても、結果は同じだ。小川はこの情報を持ったまま、繭の傍にいる。
「……考えておきます」
繭は言った。
それが今、繭に言える唯一の言葉だった。
小川は満足したように笑った。その笑い声が廊下に小さく響き、すぐに消えた。
繭は、藤堂の遺品整理の補助に入った翌日、日記を手にした。
遺族からの依頼で、書斎の整理を任された。甥たちは、遺品の中に「問題になりそうなもの」がないかを確認したかったのだろうが、実際には遺品整理の作業を他人に任せることに、後ろめたさを感じていなかった。彼らにとって、藤堂の私物は、相続の計算が終わった後の残り物だった。
日記は、書斎の引き出しの底にあった。
革装の、厚みのある手帳だ。インクの染みがあちこちについている。年代物の万年筆で書かれた文字は、流麗で、しかし整いすぎていない。書き手の思考の速度が、筆致に残っている。
繭はページを繰った。
最初の数ページを読んで、繭は動きを止めた。
フランスのクラシック音楽についての記述がある。コンサートの感想が、丁寧な言葉で記されている。亡き妻への言及が、何度も出てくる。「彼女が好きだったラヴェルを、今日また聴いた。彼女の横顔を思い出した」。そういう文章だ。大仰でない。過剰でない。ただ、事実として、その人のことを思った、と記されている。
繭は、その文章を、しばらく見た。
この男は、死ぬまで誰かを思い続けていた。思い続けられる人間がいた。そういう人生だったのだ。
(なぜ)
繭の中で、何かが動いた。
怒りではなかった。悲しみでもなかった。それよりももっと根底にある、名前のついていない感情だ。繭が子供のころから持っていた、しかし一度も表に出せなかった、腐りかけた何かだ。
繭は、万年筆を取った。
藤堂が使っていた万年筆だ。インク瓶が傍にある。繭はインクをつけ、日記の余白にペン先を当てた。
模倣することは、難しくない。文字の癖を真似ることは、繭には昔からできた。子供のころ、成績表の親のサインを偽造した。一度も疑われなかった。技術的な問題ではなく、筆致の中に宿る感情の問題だ。書き手が何を感じていたかを想像し、その感情を自分の手に乗せる。
繭は、書いた。
『あの娘の幼い肌に触れるとき、私は外交官という仮面を脱ぎ捨て、獣になる』
書きながら、繭は藤堂の文字を完全に模倣していた。傾き、払い、句読点の位置。すべてが藤堂の筆致だった。
しかし繭の内側では、奇妙な分裂が起きていた。
手は書いている。しかし繭の思考は、別のところにあった。先ほど読んだ「彼女が好きだったラヴェルを、今日また聴いた」という一文が、繭の頭の中で繰り返されていた。消えなかった。消そうとするのに、消えなかった。
ページを足す。
『公金をパリの高級娼婦に注ぎ込んだ日々こそが、私の真実だった』
インクが、黒い染みのように広がる。
実際にはそこに書かれていたものは、クラシック音楽の感想と、妻への慎ましい思慕だけだった。憎悪も、欲望も、醜聞も、何もなかった。彼は最後まで、誰も憎まず、誰も貶めず、自分の感情を丁寧に言葉にして、革装の手帳に残した。
完璧な人格者だったのだ。本当に。
(なぜ、あなただけが)
繭は、万年筆を止めた。
手の中の万年筆が、重く感じた。いつから重くなったのか、繭にはわからなかった。
(なぜ、あなただけが綺麗なままで死ねるの)
問いは、怒りの形をしているが、その核心にあるのは別の何かだ。羨望でもない。嫉妬でもない。それよりもっと、人間の原初的な場所にある感情だ。繭には、まだそれに名前をつけられない。
繭は、万年筆の先を日記帳に突き立てた。
インクが、黒い血のように広がった。元のページを、元の文字を、取り返しのつかない仕方で汚した。
繭が捏造したスキャンダルは、翌週、藤堂の親族の間に伝わった。
遺品整理の報告として、「日記の中に気になる記述があった」と、繭は甥の一人に伝えた。声のトーンを慎重に調整した。伝えるべきか迷っている、しかし黙っていることもできない、という葛藤を声に乗せた。その葛藤は、七割方、演技だった。
甥たちが日記を確認した。
読んだ。
それから、しばらく沈黙があった。
繭は、廊下で待ちながら、部屋の中の沈黙を聞いていた。物音がしない沈黙だ。人間が言葉を失ったときの沈黙だ。
やがて、声が上がった。
最初は低く、それから激しくなった。繭には内容が聞き取れなかったが、感情の温度は伝わってきた。怒りと、嫌悪と、何か別のもの。自分たちが信じていたものが崩れるときの、人間特有の激しい拒絶の感情だ。
葬儀の席で、繭は遠目にそれを見た。
甥の一人が、藤堂の遺体に向かって何かを言っていた。声は聞こえなかった。しかし唇の動きから、それが穏やかな言葉ではないことはわかった。
藤堂の顔は、死後もなお穏やかだった。
あの完璧な微笑が、まだそこにある。何を言われても、何を投げつけられても、動じない。崩れない。
繭は、その顔を、しばらく見た。
それから、清掃用の雑巾を手に取った。
小川から借りた、使い古した、灰色に煤けた雑巾だ。繭はそれで、藤堂の顔を拭った。丁寧に、しかし執拗に。一度では止まらなかった。
止まらなかった、ということに、繭は後から気づいた。
その行為の意味を、繭は考えていなかった。考えることができなかった。ただ手が動いた。止まれ、と思う自分と、止まれない手があった。
小川が傍に来た。
「見て、小川さん。この人、こんなに」
繭は言いかけて、止まった。
残りの言葉が出なかった。「汚されちゃって」と言うはずだった。しかし喉が閉まった。言葉が来なかった。
小川は、それには気づかなかった。
「本当ねえ。立派な格好してても、中身は私たちと同じ、いや、私たちよりずっと腐ってたってわけだ。傑作ね」
小川は笑った。
その笑い声を、繭は遠くで聞いた。実際には傍にいるのに、音が遠かった。小川が欠けた歯を見せて笑う顔が、靄の向こうにあるように見えた。
繭の手の中の雑巾が、やけに重かった。
小川は今、繭が捏造した偽りの罪を「真実」として信じ込んでいる。信じた上で、歓喜している。人の、それも死者の失墜を、こんなにも無邪気に喜べる。その無邪気さが、繭には小川のいちばん恐ろしい部分だと思えた。
繭は、自分の中に、かつて似たものがあったかどうか、考えた。
あったかもしれない。
幼いころ、父が職場のトラブルで落ち込んでいたとき、繭の中に、ほんのわずか、何かが軽くなる感覚があった。父が弱っていると、繭は安全だったからだ。それは喜びではなかったが、安堵だった。他者の不幸を安堵として受け取る、その感覚が、小川の歓喜とどこかで地続きかもしれない、と繭は思った。
思いたくなかった。しかし、思った。
目黒川を、施設の窓から見ていた。
夕方の光が川面に当たっている。水は濁っている。澄んでいない。けれど光は反射する。濁った水も、光を受ければ光る。それが美しいのか醜いのか、繭にはどちらとも言えなかった。
繭の横で、小川が現金を数えている。
藤堂の遺族から、「口止め料」として受け取ったものだ。繭が工作した結果として転がり込んだ金を、小川は当然のように自分のものとして受け取った。数える指先が、何かを期待で震えている。
(次は)
繭の思考が、その言葉を形成しかけた。
(次は、誰を)
しかし、繭の思考はそこで止まった。
完成しなかった。
繭は、川面を見続けた。光が揺れている。濁った水の上で、光だけが揺れている。
藤堂勲の、革装の日記に書かれていた一文が、また繭の頭の中で繰り返されていた。
「彼女が好きだったラヴェルを、今日また聴いた。彼女の横顔を思い出した」
繭には、そういう人間がいたことがない。死んだ後も思い出される人間が。死んだ後も、誰かの日記に名前が出てくるような関係が。
繭が死んだとき、誰かがそういうことを書くだろうか。
答えは、繭にはわかっていた。
その答えが、怒りになるのか、悲しみになるのか、あるいは全く別の何かになるのか、繭には今夜、まだ言葉がなかった。
川面の光が、揺れ続けている。
小川の指が、紙幣を数える音だけが、二人の間で鳴り続けていた。




