第2章 解体の作法
冬の朝特有の、剃刀のような鋭い光がカーテンの隙間から差し込んでいた。
その光は情け容赦なく、廊下の壁に鋭角な影を作る。夏の光は丸みを持ち、曖昧に物事の輪郭を溶かすが、冬の光は切断する。影と光の境界線を、くっきりと、残酷に引く。繭はずっと前から、冬の光のその正直さが好きだった。誤魔化さない光。嘘をつかない影。
午前六時十五分。
夜勤の交代時間が近づく。施設の廊下はまだ眠りの中にある。どこかの部屋から、老人の浅い咳が聞こえてくる。規則的な咳だ。何年もかけて身体に刻み込まれた、慢性的な炎症の産物。繭はその音を、もう区別できるようになっていた。二〇七号室の石原の咳だ。石原は毎朝、六時ごろから三十回前後咳き込み、それから加湿器を強にして、また眠る。繭は石原の担当ではないが、夜勤の間に廊下を歩くたびに、無意識にそういうことを覚えていた。
人の消えゆく様子を、繭はずっと観察してきた。
それは職業的な習慣であると同時に、もっと根源的な何かでもあった。子供のころから繭は、人が何かを失っていくときの顔を見ていた。父が酒に溺れていくときの、少しずつ何かが剥落していく顔。母が出ていく前夜の、決意と後悔が入り混じった、どこか遠くを見る目。そういうものを見ていた。見ることをやめられなかった。
繭は、二〇三号室の前で一度立ち止まった。
深く、肺の底まで冷たい空気を吸い込む。冷気が気管を下り、肺の奥まで広がる感覚を、繭は丁寧に追った。冷たい。清潔に冷たい。体の内側が、外の空気と同じ温度になっていくような、奇妙な落ち着きがある。
(さあ、始めよう)
自分がいつからこれほど落ち着いていられるのか、繭にはわからなかった。昨夜の時点では、まだ手の震えがあった。ポケットの中でアンプルを握りしめていた指先が、じっとりと湿っていた。しかし今、繭の体は奇妙なほど安定している。まるで何か余計なものが抜け落ちて、機械になったようだ。
感情というものが、こんなにも疲れるものだとは思っていなかった。感情がなくなると、こんなにも軽い。
ドアを静かに開ける。
部屋の中は、驚くほど静まり返っていた。
静寂にも種類がある。眠っている人間がいる静寂は、どこかに揺らぎがある。呼吸の微かな気配、体が発する熱、存在しているものが持つ、見えない振動。昨日まで二〇三号室にはそれがあった。藤堂が眠っているときでも、部屋には密度があった。
今はそれがない。
ただ、物だけが、物として置かれている。チェストの上のクリスタルの灰皿。テーブルの上の万年筆と洋書。加湿器が吐き出す蒸気だけが、生き物のように動いている。
繭はベッドに歩み寄り、藤堂勲の顔を覗き込んだ。
死後硬直が始まっている。その端正な輪郭は、石膏像のように固まっていた。生きているときとの差異が、不思議なほど小さい。もともと動きの少ない人だったから、というだけではない。藤堂という人間は、生前から、どこか彫像に近かったのかもしれない。完成されすぎていて、変化する余地がなかった。
そして、その表情。
繭は二度、瞬きをした。
藤堂は、死の間際まであの「完璧な紳士」の微笑を崩していなかった。
生き物が死ぬとき、顔の筋肉は弛緩する。それが通常の死の顔だ。苦しんで死んだ場合は、苦悶の表情が残ることもある。しかし藤堂の顔は、どちらでもなかった。あの穏やかな微笑の曲線が、そのまま固定されている。まるで、自分の死すらも、周囲を困らせないためのマナーの一つとして遂行した人間の顔だ。
繭は、じっとその顔を見た。
不快だった。それは昨夜感じた不快感の余韻ではなく、新しい不快感だ。死んでもなお、藤堂は品位を守っている。繭が奪えなかったものがある。繭はそのことに、今更気づいた。
ただし繭には、この死体の前で感傷に浸っている時間はない。
繭は、震える手を作った。
これが今朝の最初の仕事だ。
指先から、意識的に力を抜く。腕の筋肉を弛緩させ、わずかに震えているように見せる。これは、鏡の前で練習したわけではない。繭には長い経験がある。感情の演技ではなく、感情の残響を体に宿らせる技術が。感情そのものを持たなくても、かつてそれを持っていたときの体の記憶を呼び起こせば、人間の体は正直に反応する。
繭の父が、初めて繭の前で泥酔して倒れた夜。繭は十一歳だった。あのとき繭は、本当に手が震えた。父を助けようとして、しかし父の体は重くて動かなくて、繭は結局廊下に座り込んで、手だけが震えていた。誰も助けに来なかった。朝になると父は自分で起き上がり、何も覚えていなかった。
その夜の震えを、繭は今でも呼び出せる。
体は正直だ。記憶の震えは、本物の震えと見分けがつかない。
繭は、藤堂の頸動脈に指先を当て、わざとらしく数秒待った。脈はない。当然ない。それをわかった上で、数秒待つ。待つことが演技の精度を上げる。「確認しようとした」という事実を、後から語るための実績として積み重ねる。
それから、大きく目を見開き、口元を両手で覆った。
「……藤堂様? 藤堂様!」
廊下にまで響くような、しかし悲鳴の一歩手前の、絶妙に抑制された声を出す。施設の規律が体に染み込んだ職員として、パニックになりながらも叫ばない。叫びたいのに叫べない。その「抑制」こそが、繭の演技の核心だった。感情を完全に爆発させる人間は、かえって信用されない。感情と理性の間で引き裂かれているように見える人間が、最も疑われない。
すぐに同僚の足音が聞こえてきた。
佐藤道子が血相を変えて飛び込んでくる。
佐藤は五十二歳で、この施設に十三年勤めている。夫と二人の息子がいて、上の息子はもうすぐ結婚するらしく、最近は式場の話ばかりしている。髪は短く、眉は濃く、ふっくらとした体型で、常に周囲への気配りを失わない。いい人間だ、と繭は思っている。本当の意味でいい人間だ。佐藤の善意は、藤堂のそれと違い、生活の中から生まれた善意だ。苦労を知っている人間の、泥臭い、しかし確かな温度を持った善意。
だからこそ、繭には佐藤が都合よかった。
佐藤は信じる。繭が何かを演じているとき、佐藤はそれを現実として受け取る。疑う習慣を持たない人間は、騙すのが最も容易だ。
「野上さん、どうしたの!」
「あ、あの……藤堂様が、お声をかけても……」
繭は力なく膝をつき、床に視線を落とした。肩を小刻みに震わせる。震えは本物の残響だ。足の膝頭が、カーペットに沈む感触がある。硬い。
佐藤が藤堂の体に触れ、瞳孔を確認し、静かに首を振るのが視界の端に見えた。
その動作の意味を、繭はすでに知っていた。それでも、知らないふりをして、視線を逸らし続ける。
「……往診の先生を呼んで。それから事務局にも連絡して」
「はい……すみません、私、動揺してしまって……」
繭は顔を上げなかった。声を掠れさせた。掠れは本物だ。一晩中眠らなかった喉は、実際に少し痛んでいる。体の本物の状態を演技の素材として使う。そうすれば、演技と現実の境界線が溶ける。溶けた境界線は、他人には判別できない。
佐藤は、繭の肩に手を置いた。
温かかった。掌の厚みがある。子供を育てた手の感触だ、と繭は思った。根拠はないが、そう感じた。
「無理もないわ。あなた、本当に藤堂さんに尽くしていたものね」
佐藤の声が、低く、柔らかい。十三年の経験が声に宿っている。何度も死を見てきた人間の声だ。慣れているが、慣れ切っていない。その微妙な質感を、繭は正確に聞き取った。
「彼も、あなたの手の中で旅立てて幸せだったはずよ」
(幸せ?)
繭の胃の奥で、黒い笑いが形を持った。
幸せな死。誰もがそう信じ込む。老人が穏やかな顔で死んでいれば、それは「幸せな死」だ。苦しまなかったのだろう。安らかだったのだろう。長生きしたのだから悔いはないだろう。そういう結論を、人間は好む。なぜなら、その結論が一番、残された側が楽だからだ。
繭は、幸せな死を作り出すことが、どれほど簡単かを知っている。微笑んだまま死ねる薬剤の調整は、難しくない。問題は、微笑んだまま死ねるかどうかではなく、死に際まで微笑める人間がどれほどいるか、だ。藤堂は、薬剤なしでそれをやった。それだけが、今朝の繭の中に残った、小さな、しかし消えない引っかかりだった。
点滴のクレンメは、佐藤が来る数分前に、何事もなかったかのように元の位置へ戻してある。
施設の処置記録には、昨夜の点滴投与量が正確に記されている。繭の筆跡で。数字に乱れはない。感情の波が記録の正確さを損なわないよう、繭は昨夜、手を動かす前に三回、深呼吸をした。
藤堂の心臓は、彼自身の老いによって止まったのだ。少なくとも、この清潔な「ル・シエル目黒」という世界においては。
一時間後、施設内は静かな、しかし慌ただしい騒ぎに包まれた。
往診医が来て、死亡確認をした。七十代の男性医師で、この施設とは長い付き合いがある。聴診器を当て、瞳孔を確認し、時計を見て、用紙に時刻を書き込んだ。その一連の動作には、感情の入り込む隙間がなかった。繭には、その淡々とした手続き的な死の確認が、清潔に見えた。彼は疑わなかった。疑う理由がなかった。
事務局が連絡を入れ、藤堂の親族がやってきた。
疎遠だったはずの、品格だけを重んじる甥たちが二人。一人は五十代前半で、グレーの高級スーツを着ていた。もう一人は四十代で、ダウンコートの下に細身のジャケットを着ていたが、ネクタイの結び目が少しずれていた。早朝に慌てて来たのだろう。それでも、その乱れは最小限だ。乱れすら品良く収める家系だ、と繭は思った。
彼らは、藤堂の遺体を見るなり、ハンカチを顔に当てた。
涙が出ているかどうか、繭には確認できなかった。確認する気もなかった。本物の涙であれ、そうでなくても、それは同じことだ。人間の悲しみなど、多くの場合、習慣と儀礼の混合物に過ぎない。繭はずっとそう思ってきた。
甥の一人が、繭に歩み寄った。スーツの男だ。眉が太く、顎が角張っている。藤堂には似ていない。同じ血が流れているとは思えないほど、この男の顔には、藤堂が持っていた「透明さ」がなかった。
「野上さん。伯父が最後にお世話になりました。これは、伯父からの感謝だと思って受け取ってください」
封筒を差し出す手は、爪がきれいに整えられていた。
繭は、一度だけ首を振って断る仕草を見せた。それから、数秒の間を置いて、「藤堂様のお供えに使わせていただきます」と、殊勝な声で言った。
間の長さが重要だ。すぐに受け取れば卑しく見える。断りすぎれば不自然になる。適切な間の後に、適切な言葉を添えて受け取る。その塩梅を、繭は自然にできるようになっていた。いつから身につけたのかわからない技術だが、たぶん子供のころからだ。父の機嫌を読み、母の感情を先読みし、どうすれば今この瞬間をやり過ごせるかを計算し続けた、あの長い練習の産物だ。
甥は満足したように頷いた。
彼らは、藤堂が大切にしていた腕時計が、今繭の制服のポケットの中で冷たく沈んでいることなど、夢にも思っていない。
繭は、職員用の休憩室に入り、内側から鍵をかけた。
四畳半ほどの部屋だ。ロッカーが六台並び、折り畳みの椅子と、傷だらけのテーブルと、電気ケトルと、誰かが置いていったインスタントコーヒーの瓶がある。冷蔵庫は年季が入っていて、扉の磁石が弱くなっている。施設の他の部分と比べると、ここだけ別の場所にいるようだ。入居者が目にする空間との落差が、職員に自分たちの立場を常に意識させる装置として、意図的に設計されているのではないかと繭はときどき思う。
封筒を開ける。
一万円札が、丁寧に向きをそろえて入っていた。数えると五枚だ。
繭は、その紙幣の束を鼻に近づけた。
藤堂の部屋の匂いとは違う。あの部屋には、上質な石鹸と古い紙の匂いがあった。しかしこの紙幣の匂いは、もっと生々しく、卑俗で、複数の手を経由してきたものの匂いがした。しかし確かな「力」の匂いでもある。これは力だ。抽象的な力ではなく、具体的に、明日の食事を選ぶ自由になり、来月の返済の猶予になり、次の選択肢を増やす、物質的な力だ。
(これでいい)
繭は、思った。
繭にはそれが必要だった。力が。選択肢が。自分の人生を、少しずつ、少しずつ、自分のものにしていく手段が。それ以上のものを、繭はもう望んでいない。かつては望んでいたかもしれない。誰かに認められたいとか、誰かに愛されたいとか、そういう子供のような渇望が繭にもあった。
しかし今は、ない。
あるいは、あることに気づかないようにしている。
休憩室の壁に、姿見代わりになる小さな鏡が掛けられている。
繭は、その鏡の中の自分を見た。
泣き腫らしたように見える赤い目は、実は一睡もしなかった疲労と、長時間の興奮による充血だ。涙は出ていない。出せなかったのではなく、必要がなかった。目が赤ければ、泣いたように見える。人間は、証拠を欲しがる生き物だ。証拠があれば、それ以上調べない。
鏡の中の繭は、泣いた後の女に見える。
繭は、その顔を、しばらく観察した。
知らない人間の顔だ、と毎回思う。鏡の中に映る人間が、自分だという実感が、子供のころからずっと薄い。鏡に映る女は、繭が演じているキャラクターのように見える。献身的な介護士の野上繭。涙で目を赤くした、藤堂の死に動揺した若い女。
その女の奥に、本当の繭がいる。
いや、本当の繭が「いる」のか、それすらも繭には確信が持てなかった。もしかしたら、もうどこにもいないのかもしれない。すべてが演技になってしまっていて、演技の核心にあるはずの「本物」が、いつのまにか消えてしまっているのかもしれない。
それを考えると、繭は少し怖くなった。
怖い、という感情が出てきたことに、繭は気づいた。感情は、まだある。
その発見は、奇妙なほど繭を安堵させた。
そのとき。
繭のスマートフォンが、ポケットの中で振動した。
通知音は、施設内では常にマナーモードにしている。画面を見る。発信者の名前を見た瞬間、繭の指先が静止した。
佐久間洋子。清掃担当のパート女性だ。
五十代で、茶髪にパーマをかけていて、休憩室でいつも昼ドラの話をしている。口が軽い、と同僚の間では言われているが、悪意のある人間ではない。ただ、情報を持っていることを、誰かに話さずにいられない性質の人間だ。
メッセージを開く。
『野上さん、お疲れ様。さっき、藤堂さんの部屋のゴミ箱から、見慣れないアンプルの破片を見つけたんだけど……これって、看護師さんに渡しておいたほうがいいかしら?』
繭の指先から、体温が急速に失われていった。
心臓が、一拍だけ大きく収縮した。次の拍動が、わずかに遅れた。その遅れの間に、繭の思考は、複数の方向に向かって同時に走り出した。
ゴミ箱。アンプルの破片。見慣れない。
繭は昨夜、使用済みのアンプルをポケットに入れ、施設を出た後で施設外のゴミ箱に捨てた。そのつもりだった。そのつもり、だった。
(いつ、どこで)
記憶を遡る。昨夜の藤堂の部屋。アンプルを取り出した。三方活栓に接続した。薬剤を投与した。アンプルを手に持っていた。それからどうした。
繭の思考が、ある一点で止まった。
藤堂が、繭の名を呼んだ瞬間。
あの瞬間、繭は動揺した。計画の外から声をかけられた動揺。そのとき、繭の手は何をしていたか。アンプルを、どこかに置いたか。ポケットに入れたか。
ポケットに入れた。確かにそう記憶している。
しかし、記憶は正確か。動揺の中の記憶は。
繭は、今すぐ二〇三号室に戻って、ゴミ箱の中身を確認したかった。しかし部屋はすでに封鎖に近い状態にある。遺族がいて、施設の事務局が動いていて、往診医の退去処理が進んでいる。
そして佐久間洋子は、今もスマートフォンの向こうで、返信を待っている。
繭は、画面を見つめた。
文字を打つ。指が、わずかに震えた。本物の震えか、演技の残響か、今の繭には判断できない。
『ありがとうございます。それ、医療廃棄物の処理で使ったものかもしれません。私が確認しますね。どこに置いてありますか?』
送信する。
十一秒後、既読がついた。
返信が来るまでの間、繭は鏡の中の自分を見続けた。
泣き腫らしたように見える赤い目が、今は違う意味で見えた。これは恐怖の顔だ。恐怖を知っている人間の顔だ。演技ではなく、本物の感情が、じわじわと体の表面に滲み出てきている。
怖い、という感情が、まだある。
消えていなかった。




