兄貴役の限界
誠司くんが怒る時は、声が上がらない。
上がらないまま、空気だけが硬くなる。
結城修吾が事務所に来た。今日はノックが控えめだった。控えめな時ほど嫌な話だ。
「襲撃だ」
結城が言う。
「誰が」
誠司くんの声が短い。
「稲葉航。お前の知り合いだろ、橘」
誠司くんは一拍だけ止まって頷いた。
「場所」
「病院。意識はある。だが資料が奪われた」
「資料?」
俺が聞くと、結城が俺を見る。
「余計なこと言うな」
「聞いただけだよね」
誠司くんが言った。
「行く」
病院の個室。稲葉航はベッドの上で、強がる顔をしていた。仕事熱心で、弱みを見せたくない顔。強がりの下が、薄く震えている。
「悪いな。呼んで」
「呼んだのは結城だ」
誠司くんが言う。声音は硬いが、目は柔らかい。棘がない。
稲葉は笑いかけて、途中でやめた。
「来ると思ったよ。お前、そういうやつだろ」
「状況を言え」
誠司くんは短い。
稲葉が息を吐く。
「事務所の前でやられた。二人。手際がいい。顔は見てない。狙いは俺じゃない。鞄だ」
「中身」
「古い資料。事故の記録。委託先の一覧。……あと、写真」
結城の眉が動く。
「写真?」
稲葉は視線を逸らした。
「見せたくないやつもある」
誠司くんが言う。
「見せろ」
「……今は無理だ。盗られた」
誠司くんは頷いた。
「現場」
襲撃現場は、稲葉の事務所ビル前だった。人通りはある。だからこそ、見えない。
監視カメラはあるが、角度が悪い。いつも通りだ。
直斗が前に出る。
「映像、僕が確認します」
「篠宮。触るな」
誠司くんの声が刺さる。
「はいっ」
直斗は止まる。止まるのは偉い。でも目が焦っている。
結城が言う。
「この件、上が嫌がってる。財団の匂いがするからだとよ」
「嫌がる理由が増えたね」
俺が言うと、結城が睨む。
「黙れ」
誠司くんが言った。
「まず物証を押さえる。証拠保全が先だ」
誠司くんは地面を見た。小さな擦過痕。靴底の泥。手袋の繊維。
拾うものは少ない。少ないけど、足りる。
「犯人は慣れている。だが、急いだ」
誠司くんが言う。
「急いだ?」
結城が聞く。
「鞄だけ抜いて、財布は触っていない。暴力も最小。目的は資料だ」
俺は言った。
「人じゃなくて紙を殴ってる感じだよね」
「例えが雑だ」
結城が言う。
容疑者の瀬戸俊也は、呼び出しに素直に来た。親切で協力的。
だが、嘘をつくと目が泳ぐ。泳いだあと、戻すのが速い。
瀬戸はやけに丁寧に頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしているなら申し訳ありません。僕、ただ…お力になりたくて」
結城が言う。
「昨夜、どこにいた」
「家です。ずっと。証明は…難しいですけど」
「稲葉の事務所前で、お前に似た背格好が見られてる」
「え? いや、それは…」
瀬戸の目が泳いだ。速い。戻しが速い。
俺は軽く言った。
「瀬戸さん、今、謝るの早いよね」
「え?」
「質問の前から謝ってる。準備してる感じ」
誠司くんが俺を見て言う。
「久世。余計なことはするな」
「してないよ。観察」
「観察は俺がやる」
硬い。けど、止め方が優しい。棘がない。
俺は頷く。
「はいはい。俺は黙る。誠司くんが詰めて」
参考人の大西修平は、現場気質だった。荒っぽいが筋を通す。
稲葉の事務所の近くで働く配送の男だ。
「夜中に見た。二人組。手袋。手際がいい。逃げ方も慣れてた」
「瀬戸を見たか」
結城が聞く。
「似た背格好はいた。だが顔は分からん」
誠司くんが言う。
「逃げた方向」
「裏の路地。監視カメラの死角だ」
結城が舌打ちする。
「死角だらけだな」
「死角を作っている」
誠司くんが言った。
「自然にできた死角ではない。配置だ」
結城が眉を寄せる。
「またその話か」
「まただ」
誠司くんは短く返す。
⸻
誠司くんは、奪われた資料の“代わり”を揃え始めた。
同じ事故の記録。委託先の過去資料。契約の写し。
手続きを積む。合法の壁を積む。逃げ道を塞ぐために。
結城が言った。
「上が令状を渋ってる」
「渋るなら、渋った記録を残せ」
誠司くんの声は硬い。
直斗が言った。
「僕、上に掛け合います」
「篠宮」
「はいっ」
「やめろ」
「……はい」
直斗は引く。引けるのは偉い。悔しさが残る顔だ。
俺は直斗に言った。
「焦ると転ぶよね」
「転びません」
言い切るのが早い。転ぶやつだ。
結城が俺を睨む。
「お前は煽るな」
「煽ってないよ。心配」
誠司くんが言う。
「久世。今は黙れ」
「はいはい」
瀬戸は最後まで親切だった。
「僕、稲葉さんのために動いただけなんです。資料が危ないって聞いて。だから守ろうと——」
「守る」
結城が低く言う。
誠司くんが言った。
「誰に聞いた」
「……相談員です」
結城が舌打ちする。
「またか」
誠司くんは淡々と続ける。
「あなたは襲撃していない。だが、襲撃を“必要”だと思った。資料を守るために奪う。矛盾している」
瀬戸は笑った。苦い笑い。
「正しいことって、難しいですね」
誠司くんが言う。
「正しいかどうかは問わない。事実を言え」
瀬戸が目を逸らした。逸らした先が“机の端”。そこに置かれていたのは、稲葉の事務所前の監視カメラの静止画。
誠司くんは、その視線を見逃さない。
「瀬戸。あなたは今、その画像を“知っている者”の見方をした」
「は?」
瀬戸の声が高くなる。高くなるのが早い。
誠司くんが静止画を裏返す。そこには時間と、カメラ番号。
「この静止画は、先ほど俺が出力した。外には出していない。なのにあなたは、映っている“白い車”を見て、目だけ動かした。説明する必要がない者の目だ」
瀬戸が笑いかけて、失敗した。
「……たまたま、似てると思って」
「似ていると言っていない。言ってもいないのに反応した」
誠司くんが言い切る。
結城が机を叩く。
「瀬戸。お前、現場にいたな」
「いたっていうか……通っただけです。通っただけ」
「通ったなら、何時だ」
誠司くんが詰める。
「……深夜」
「何時」
「……一時、くらい」
誠司くんが言った。
「ログと合わない」
誠司くんはスマホを置いた。通話記録。位置情報。——瀬戸が“相談員”に電話した時刻。
「あなたが相談員に電話したのは一時四十二分。現場から徒歩三分の公衆電話の基地局だ。通っただけの人間が、なぜそこで“相談”をする」
瀬戸の目が泳ぐ。戻しが遅くなる。崩れる。
「……僕は、怖くて」
「怖いのはあなたではない。襲われたのは稲葉だ」
誠司くんの声は硬い。
瀬戸が震えた。
「……資料のこと、聞いたんです。危ないって。だから、相談員に——」
「連絡役か」
結城が言う。
誠司くんが続ける。
「連絡先を出せ」
「出したら、僕が——」
「あなたの心配は後だ」
誠司くんの声は硬い。だけど、目は柔らかい。
兄貴役の限界は、こういう時に出る。守りたいものが増える。
⸻
夜。結城が電話を切って吐き捨てた。
「上が止めた。動くな、だとよ」
誠司くんが言った。
「止められるなら、止めた署名を残せ」
「署名なんて残さねえ」
「残させる」
誠司くんの声が少しだけ強い。
俺は誠司くんを見て言った。
「誠司くん、今、息が浅いね」
「久世」
「ごめん」
誠司くんは机の上に、古い事故写真のコピーを置いた。
端に写っているのは、若い頃の朝倉晃。
結城が固まる。
「……本人かよ」
誠司くんが短く言った。
「逃げ道が減った」
俺は息を吐く。
「丁寧に追い込むね」
誠司くんは答えない。
答えないまま、資料だけが増えていった。




