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探偵・久世朔  作者: 九重有
東京開発事件簿

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9/17

兄貴役の限界



 誠司くんが怒る時は、声が上がらない。

 上がらないまま、空気だけが硬くなる。


 結城修吾が事務所に来た。今日はノックが控えめだった。控えめな時ほど嫌な話だ。


「襲撃だ」


 結城が言う。


「誰が」


 誠司くんの声が短い。


「稲葉航。お前の知り合いだろ、橘」


 誠司くんは一拍だけ止まって頷いた。


「場所」


「病院。意識はある。だが資料が奪われた」


「資料?」


 俺が聞くと、結城が俺を見る。


「余計なこと言うな」


「聞いただけだよね」


 誠司くんが言った。


「行く」




 病院の個室。稲葉航はベッドの上で、強がる顔をしていた。仕事熱心で、弱みを見せたくない顔。強がりの下が、薄く震えている。


「悪いな。呼んで」


「呼んだのは結城だ」


 誠司くんが言う。声音は硬いが、目は柔らかい。棘がない。


 稲葉は笑いかけて、途中でやめた。


「来ると思ったよ。お前、そういうやつだろ」


「状況を言え」


 誠司くんは短い。


 稲葉が息を吐く。


「事務所の前でやられた。二人。手際がいい。顔は見てない。狙いは俺じゃない。鞄だ」


「中身」


「古い資料。事故の記録。委託先の一覧。……あと、写真」


 結城の眉が動く。


「写真?」


 稲葉は視線を逸らした。


「見せたくないやつもある」


 誠司くんが言う。


「見せろ」


「……今は無理だ。盗られた」


 誠司くんは頷いた。


「現場」




 襲撃現場は、稲葉の事務所ビル前だった。人通りはある。だからこそ、見えない。

 監視カメラはあるが、角度が悪い。いつも通りだ。


 直斗が前に出る。


「映像、僕が確認します」


「篠宮。触るな」


 誠司くんの声が刺さる。


「はいっ」


 直斗は止まる。止まるのは偉い。でも目が焦っている。


 結城が言う。


「この件、上が嫌がってる。財団の匂いがするからだとよ」


「嫌がる理由が増えたね」


 俺が言うと、結城が睨む。


「黙れ」


 誠司くんが言った。


「まず物証を押さえる。証拠保全が先だ」


 誠司くんは地面を見た。小さな擦過痕。靴底の泥。手袋の繊維。

 拾うものは少ない。少ないけど、足りる。


「犯人は慣れている。だが、急いだ」


 誠司くんが言う。


「急いだ?」


 結城が聞く。


「鞄だけ抜いて、財布は触っていない。暴力も最小。目的は資料だ」


 俺は言った。


「人じゃなくて紙を殴ってる感じだよね」


「例えが雑だ」


 結城が言う。




 容疑者の瀬戸俊也は、呼び出しに素直に来た。親切で協力的。

 だが、嘘をつくと目が泳ぐ。泳いだあと、戻すのが速い。


 瀬戸はやけに丁寧に頭を下げた。


「ご迷惑をおかけしているなら申し訳ありません。僕、ただ…お力になりたくて」


 結城が言う。


「昨夜、どこにいた」


「家です。ずっと。証明は…難しいですけど」


「稲葉の事務所前で、お前に似た背格好が見られてる」


「え? いや、それは…」


 瀬戸の目が泳いだ。速い。戻しが速い。


 俺は軽く言った。


「瀬戸さん、今、謝るの早いよね」


「え?」


「質問の前から謝ってる。準備してる感じ」


 誠司くんが俺を見て言う。


「久世。余計なことはするな」


「してないよ。観察」


「観察は俺がやる」


 硬い。けど、止め方が優しい。棘がない。

 俺は頷く。


「はいはい。俺は黙る。誠司くんが詰めて」



 参考人の大西修平は、現場気質だった。荒っぽいが筋を通す。

 稲葉の事務所の近くで働く配送の男だ。


「夜中に見た。二人組。手袋。手際がいい。逃げ方も慣れてた」


「瀬戸を見たか」


 結城が聞く。


「似た背格好はいた。だが顔は分からん」


 誠司くんが言う。


「逃げた方向」


「裏の路地。監視カメラの死角だ」


 結城が舌打ちする。


「死角だらけだな」


「死角を作っている」


 誠司くんが言った。


「自然にできた死角ではない。配置だ」


 結城が眉を寄せる。


「またその話か」


「まただ」


 誠司くんは短く返す。



 誠司くんは、奪われた資料の“代わり”を揃え始めた。

 同じ事故の記録。委託先の過去資料。契約の写し。

 手続きを積む。合法の壁を積む。逃げ道を塞ぐために。


 結城が言った。


「上が令状を渋ってる」


「渋るなら、渋った記録を残せ」


 誠司くんの声は硬い。


 直斗が言った。


「僕、上に掛け合います」


「篠宮」


「はいっ」


「やめろ」


「……はい」


 直斗は引く。引けるのは偉い。悔しさが残る顔だ。


 俺は直斗に言った。


「焦ると転ぶよね」


「転びません」


 言い切るのが早い。転ぶやつだ。


 結城が俺を睨む。


「お前は煽るな」


「煽ってないよ。心配」


 誠司くんが言う。


「久世。今は黙れ」


「はいはい」




 瀬戸は最後まで親切だった。


「僕、稲葉さんのために動いただけなんです。資料が危ないって聞いて。だから守ろうと——」


「守る」


 結城が低く言う。


 誠司くんが言った。


「誰に聞いた」


「……相談員です」


 結城が舌打ちする。


「またか」


 誠司くんは淡々と続ける。


「あなたは襲撃していない。だが、襲撃を“必要”だと思った。資料を守るために奪う。矛盾している」


 瀬戸は笑った。苦い笑い。


「正しいことって、難しいですね」


 誠司くんが言う。


「正しいかどうかは問わない。事実を言え」


 瀬戸が目を逸らした。逸らした先が“机の端”。そこに置かれていたのは、稲葉の事務所前の監視カメラの静止画。


 誠司くんは、その視線を見逃さない。


「瀬戸。あなたは今、その画像を“知っている者”の見方をした」


「は?」


 瀬戸の声が高くなる。高くなるのが早い。


 誠司くんが静止画を裏返す。そこには時間と、カメラ番号。


「この静止画は、先ほど俺が出力した。外には出していない。なのにあなたは、映っている“白い車”を見て、目だけ動かした。説明する必要がない者の目だ」


 瀬戸が笑いかけて、失敗した。


「……たまたま、似てると思って」


「似ていると言っていない。言ってもいないのに反応した」


 誠司くんが言い切る。


 結城が机を叩く。


「瀬戸。お前、現場にいたな」


「いたっていうか……通っただけです。通っただけ」


「通ったなら、何時だ」


 誠司くんが詰める。


「……深夜」


「何時」


「……一時、くらい」


 誠司くんが言った。


「ログと合わない」


 誠司くんはスマホを置いた。通話記録。位置情報。——瀬戸が“相談員”に電話した時刻。


「あなたが相談員に電話したのは一時四十二分。現場から徒歩三分の公衆電話の基地局だ。通っただけの人間が、なぜそこで“相談”をする」


 瀬戸の目が泳ぐ。戻しが遅くなる。崩れる。


「……僕は、怖くて」


「怖いのはあなたではない。襲われたのは稲葉だ」


 誠司くんの声は硬い。


 瀬戸が震えた。


「……資料のこと、聞いたんです。危ないって。だから、相談員に——」


「連絡役か」


 結城が言う。


 誠司くんが続ける。


「連絡先を出せ」


「出したら、僕が——」


「あなたの心配は後だ」


 誠司くんの声は硬い。だけど、目は柔らかい。

 兄貴役の限界は、こういう時に出る。守りたいものが増える。



 夜。結城が電話を切って吐き捨てた。


「上が止めた。動くな、だとよ」


 誠司くんが言った。


「止められるなら、止めた署名を残せ」


「署名なんて残さねえ」


「残させる」


 誠司くんの声が少しだけ強い。


 俺は誠司くんを見て言った。


「誠司くん、今、息が浅いね」


「久世」


「ごめん」


 誠司くんは机の上に、古い事故写真のコピーを置いた。

 端に写っているのは、若い頃の朝倉晃。


 結城が固まる。


「……本人かよ」


 誠司くんが短く言った。


「逃げ道が減った」


 俺は息を吐く。


「丁寧に追い込むね」


 誠司くんは答えない。

 答えないまま、資料だけが増えていった。

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