探偵という箱
合法って言葉は、綺麗だ。
綺麗だから、人を黙らせる。
黙らせたあとで、誰が泣くかは書いてない。
橘誠司からの連絡は短かった。
〈今夜、来い〉
場所は、古い法律事務所でもコンサル会社でもない。
小さな喫茶店。駅前の二階。窓の外に線路が見える。
こういう場所を選ぶあたり、誠司くんは“追われる側”の経験がある。
俺が先に座っていると、誠司くんが来た。
入ってくる音が小さい。椅子を引く音も小さい。
でも、空気だけは硬くなる。
「久世」
「呼んだよね」
「呼んだ」
短い。硬い。棘はない。
「何。名刺の裏の次は、何が裏返ったの」
「人が一人、潰されかけている」
誠司くんが言った。
「誰」
「稲葉航」
その名前で、俺の背中が少しだけ冷える。
後になって何度も聞くことになる名前の匂いがした。
「知り合い?」
「……知り合いだ」
誠司くんの“知り合い”は、軽くない。
守るつもりで言ってる。
「何があったの」
「合法で追い込まれている」
誠司くんは紙を一枚出した。
解約通知。違約金。守秘義務。
文字が全部綺麗だ。綺麗すぎて気持ち悪い。
「会社が、稲葉を切る。理由は“規定違反”だ」
「規定違反ってさ、守ってる顔できる言葉だよね」
俺が言うと、誠司くんが俺を見る。
「評価するな」
「はいはい」
誠司くんは続ける。
「稲葉は内部の不正を見た。だが告発すれば、守秘義務で潰される。黙れば、契約と違約金で潰される。——行き先が二つしかない」
二つ。
また二つ。
「誰が作ったの、その二つ」
「“調整役”だ」
誠司くんは次の紙を出した。
丁寧な文面。丁寧な謝罪。丁寧な圧。
『ご負担をおかけしていることは重々承知しております。ですが規定に基づく対応であり——』
丁寧は武器だ。
誠司くんが嫌いなタイプの丁寧。
「会いに行く?」
俺が聞くと、誠司くんは頷いた。
「行く。ただし、警察には持ち込まない」
「なんで」
「止められる」
短い言い方。経験の言い方。
⸻
稲葉航は、夜の路地で待っていた。
仕事熱心で強がり。弱みを見せたくない顔。
でも今日は、目が疲れている。疲れているのに、無理に笑う。
「悪いな。橘」
「悪くない。状況を言え」
誠司くんは硬い。
稲葉は俺を見る。
「……誰だ」
「探偵」
俺が言うと、稲葉が眉を寄せた。
「探偵?」
「まだね」
俺は笑った。
「今は、ただの久世」
稲葉は息を吐いた。
「俺、ミスった。中を見ちまった。委託先の名簿。番号。あと…事故の写真」
誠司くんの目が、ほんの少しだけ動く。
「どこにある」
「もうない。奪われた」
「誰に」
稲葉は、言いにくそうに言った。
「調整役。会社の危機管理担当だ。名前は——柏木修一」
柏木。
丁寧で冷静で、罪悪感を理屈で消す名前だ。
「会おう」
誠司くんが言った。
「会うって、交渉?」
稲葉が言う。
「交渉ではない。確認だ」
誠司くんの言い方は、いつもそうだ。
喧嘩じゃないふりをして、逃げ道だけを消していく。
⸻
柏木修一は、ホテルのラウンジにいた。
丁寧な場所。丁寧な椅子。丁寧な笑顔。
丁寧に人を切るのに、似合いすぎる場所だ。
「お忙しいところ恐れ入ります」
柏木は棘のない声で言った。
「稲葉さん。ご負担は理解しています。ですが、規定は規定です」
誠司くんが言った。
「稲葉の解約通知。条項の適用が不自然だ」
「不自然?」
柏木は微笑む。
「合理的です。稲葉さんは情報を持ち出した」
「持ち出していない」
誠司くんが言う。
「持ち出したことにした」
柏木の笑顔が少し固定になる。
誠司くんは続ける。
「違約金の算定も不自然だ。短期で最大額。——潰すための数字だ」
「会社の損失を補填するだけです」
柏木は丁寧に言った。
俺は柏木の手元を見る。
カップの持ち方が綺麗。ソーサーの置き方が綺麗。
綺麗すぎる人は、綺麗に嘘をつく。
誠司くんが紙を一枚出した。
稲葉の契約書の写し。
条項のページだけ、紙質が違う。
「差し替えたな」
誠司くんが言った。
「証拠は?」
柏木が問う。丁寧に。
誠司くんは淡々と答えた。
「印刷会社のロット。ページだけ異なる。ホチキスの癖も違う。——内部調査の手順で確認済みだ」
柏木の目がわずかに動く。戻しが速い。
「あなたが内部調査? もう外部でしょう」
「外部だ。だからなおさら記録に残す」
誠司くんが言う。
「稲葉は不正を見た。だから潰した。違約金と守秘義務で口を塞ぐ。——だが、そのやり方は脅迫に近い」
柏木は微笑んだまま言った。
「脅迫ではありません。本人の判断です」
その言い方が、綺麗すぎた。
俺はつい言う。
「判断って言い方、優しい顔できるよね」
誠司くんが俺の袖を軽く引いた。硬い手。止める手。
「久世」
「はいはい」
⸻
帰り道、稲葉が言った。
「橘、どうすんだよ。相手は会社だ。勝てねえ」
誠司くんは歩きながら言った。
「勝つ負けるではない。逃げ道を塞ぐ」
「塞いだら、何が残る」
稲葉が言う。
誠司くんは一拍置いて言った。
「残す」
残す。
誠司くんがいつも言うやつ。
俺は笑った。
「残すの、好きだよね」
「好きではない。必要だ」
「必要が増えてるよね」
誠司くんは答えない。答えないのが答えだ。
⸻
翌日。
稲葉の件は“穏便に”片付けられかけた。
会社は合意書を用意し、稲葉に署名を迫った。
合意書の文面は丁寧だった。
『双方円満に解決することを望みます。以後、本件に関する発言を控えることに同意してください』
円満。
円満ほど怖い。
「結城を呼ぶ」
誠司くんが言った。
「警察呼ぶの?」
俺が言うと、誠司くんは首を振った。
「警察を呼ぶんじゃない。結城を呼ぶ」
区別が、硬い。
⸻
結城修吾は、事務所じゃなく路上に現れた。
制服じゃない。私服。眉間に皺。
「……お前ら、何してんだ」
同級生。疎ましい顔。
でも目は、助けに来てる目だ。
誠司くんが言う。
「稲葉が潰されかけている」
「聞いた。だがこれ、民事だ。手出ししづらい」
「手は出さない」
誠司くんが言う。
「記録を残して、動かす」
結城が俺を見る。
「お前は」
「今は、久世だよね」
俺が言うと、結城が眉を寄せた。
「うざい」
「知ってるよね」
稲葉が苦笑する。
結城は小さく息を吐いて言った。
「上が嫌がる匂いがする。だが、死なれるよりマシだ」
頼ってる言い方だ。
頼ってるのに、疎ましい顔。
⸻
誠司くんは合法の壁を積み上げた。
合意書の不備。説明義務の欠落。録音の同意。
社内規定の適用の矛盾。
“正しい手続き”で、相手の“正しさ”を壊していく。
柏木修一の丁寧は、少しずつ崩れた。
「あなた方、何者ですか」
柏木が言う。
誠司くんが言った。
「外部の者だ」
結城が言った。
「警察だ」
俺は笑って言った。
「久世だよね」
誠司くんが俺を見る。
「久世」
「はいはい」
柏木は最後まで丁寧に言った。
「あなた方は、正しいことをしているつもりでしょう。しかし、組織は——」
「組織は、個人を守らないことがある」
誠司くんが言い切った。
「だから箱が要る」
「箱?」
柏木が聞く。
誠司くんは答えなかった。
⸻
夜。
小さな部屋。古い机。安い椅子。
綺麗じゃない。だから、嘘が目立つ場所。
誠司くんが言った。
「久世。探偵業の届出を通す」
「え」
「君が速い。俺は残す。——合わせれば、止められにくい」
「止められにくいって、誰に」
俺が聞くと、誠司くんは少しだけ間を置いた。
「上に」
結城の顔が浮かぶ。
代理人の笑顔が浮かぶ。
委託番号が浮かぶ。
俺は笑った。
「探偵ってさ、かっこよく言うと“どこにも属さない”だよね」
「格好つけるな」
誠司くんは硬い声で言う。
でも止め方に棘がない。
名刺が置かれた。
白い紙。丁寧な字。まだ印刷したての匂い。
橘誠司。
久世朔。
俺は名刺を見て言った。
「箱、できたじゃん」
誠司くんが言った。
「仕事だ」
⸻
翌朝。
事務所のポストに、封筒が入っていた。
無地。差出人なし。丁寧な字。
俺は息を吐く。
「……また、丁寧だね」
誠司くんが封を切る。中身は紙が一枚。文字は二行だけ。
『残すか、捨てるか。君が決めろ』
誠司くんが言った。
「始まった」




