名刺の裏
名簿ってやつは、紙のくせに人を動かす。
人を動かすくせに、責任だけは机の下に落ちる。
橘誠司と別れた翌週、俺のスマホが鳴った。
登録されてない番号。こういうのは大抵、面倒だ。
「久世さん、ですよね」
昨日泣いてた受付の女性だった。声が早い。焦ってる。
「そう。どうしたの」
「また…来たんです。今度は“名簿”で」
「名簿?」
「相談窓口の名簿が、外に出たみたいで。脅迫が来てます。社員が…倒れかけてて」
倒れかける、って言い方は丁寧だ。
倒れかけるのは、ほぼ倒れてる。
「分かった。場所どこ」
電話を切った瞬間、もう一つ通知が入った。
橘誠司から、短いメッセージ。
〈行くな。待て〉
待てって言葉、硬い。
俺は返した。
〈もう向かってるよね〉
⸻
場所は、小さなコンサル会社だった。
ビルは新しい。受付も綺麗。掲示物もまっすぐ。
“相談窓口”って、こういう空気が好きだ。
被害者は、若い社員だった。顔色が白い。温厚そうなのに、目だけが怯えてる。
「すみません…僕のせいで…」
「君のせいじゃないよね」
俺が言うと、社員は泣きそうに頷いた。
机の上には封筒。無地。丁寧な字。
中身は、短い文章。
『あなたのためを思ってお伝えします。正しい判断をしてください。拒否されるなら、あなたの責任です』
責任。
押し付け方が丁寧だ。
そこへ橘が来た。
ノックは一回。入室は静か。視線は机に落ちる。
「久世」
硬い声。棘はない。
「来たじゃん」
「来た。……だから勝手に動くな」
「動くよ。止まらないじゃん」
橘が俺を見る。少しだけ息を吐く。諦めの息。
「名簿は」
「これ」
俺が封筒を差し出すと、橘は手袋をつけて受け取った。
折り目を見る。紙質を見る。インクを見る。癖を見る。
「文章が謝り方として完璧すぎる」
俺が言うと、橘が頷いた。
「同意する。——だが、文体だけでは足りない」
「足りないなら、足すよね」
俺が言うと、橘は言い返さない。
代わりに、机にノートPCを置いた。
「印刷ログ」
会社の総務担当が震える声で言う。
「印刷は…制限してます。名簿は触れないように…」
「触れない、ではない。触れるようになっている」
橘の声は平らだ。平らなのに圧がある。
⸻
容疑者は二人。
一人は内部。矢部光平。弱みがあり崩れやすい。
もう一人は外部。相談員の園田悠人。丁寧で棘がない。笑顔が固定される人間だ。
矢部は最初から汗をかいていた。
「僕じゃないです。僕、怖いこと嫌いで…」
「怖いこと嫌いなのに、名簿は触れた?」
俺が聞くと、矢部の喉が鳴った。
「触れてないです」
「否定、早いね」
矢部の目が泳いだ。泳ぎ方が、素直すぎる。
崩れやすいのは、こういうタイプだ。
園田悠人は、入ってきた瞬間に場を柔らかくした。
柔らかくしたのに、空気が逃げない。
「皆さん、落ち着いてください。こういう時ほど、丁寧に」
「丁寧、好きだね」
俺が言うと、園田は笑う。
「必要ですから」
橘が言った。
「園田。あなたの所属は」
「自治体と連携している相談員です。企業の窓口も支援しています」
言い方が滑らか。
滑らかすぎると、どこにも引っかからない。引っかからないのが怖い。
⸻
橘はログを積んだ。
印刷履歴。アクセス権。USBの接続記録。
名簿は「持ち出せない」仕組みだった。
でも、仕組みって穴がある。穴は“作れる”。
「印刷はしていない」
総務が言った。
橘が言う。
「印刷していないのに、紙がある。なら撮影だ。持ち出しではなく“写し”」
俺は封筒の折り目を触らないように見た。
折り目が綺麗すぎる。綺麗に折る癖。丁寧を武器にする癖。
「この折り、手が慣れてる」
俺が言うと、園田が笑う。
「折り方で人を決めるんですか。探偵さんって面白い」
「面白くないよね」
俺が言うと、橘が俺を見る。
「久世」
「はいはい」
園田は笑顔のまま、ほんの少しだけ息が浅い。
焦りじゃない。警戒。
橘が言った。
「園田。あなたは犯人ではない。少なくとも“書いた手”ではない」
園田の笑顔が一瞬だけ止まって、戻った。
「そうでしょうね」
「だが、関わっている」
橘の声が硬くなる。
園田は丁寧に答える。
「私は、困っている人を助けているだけです」
助ける。
守る。
尊重。
正しい言葉は、使い勝手がいい。
俺は園田に近づいて、声を落とした。
「園田さん、名簿ってさ、便利だよね。人を助ける顔して、人を縛れる」
園田の目が少しだけ細くなった。
⸻
矢部光平が崩れたのは、ほんの一言だった。
橘が机の上に、出力したログを置いた。
矢部が使ったPCの画面キャプチャ。
“名簿”のページを開いた時間。
たった二分。
「二分で、何をした」
橘が言う。
「……見ただけです」
矢部が言う。
俺は笑って言った。
「二分って、見る時間じゃないよね。撮る時間だよね」
矢部の肩が落ちる。
「……園田さんに言われたんです。“共有すれば守れる”って」
園田の笑顔が、固定になった。
「誤解です」
橘が言った。
「誤解なら、名刺を出せ」
「名刺?」
園田は一瞬遅れた。
橘が言う。
「あなたがこの会社に入った記録はある。だが所属の裏付けが薄い。名刺の会社名と、委託の番号を見せろ」
園田はゆっくりと名刺を出した。
丁寧に。角を揃えて。
俺は名刺を見て、裏に指を当てた。
薄い。
紙が、二枚貼り合わせみたいに薄い。
裏返した瞬間、俺は言った。
「……これ、裏だけ新しいよね」
園田の目が動いた。
橘が言う。
「委託番号が後貼りだ。番号を“持っている”だけで、所属を偽装できる」
「所属を偽装して、何がしたいの」
俺が言うと、園田は丁寧に言った。
「助けたいだけです」
「助けたいって言い方、通りがいいよね」
俺が言うと、橘が俺を見る。
「久世。評価するな」
「はいはい」
橘は園田から名刺を受け取った。
手袋越しに、裏の紙の段差をなぞる。
「この番号は、どこから」
園田は黙る。
黙り方が丁寧。逃げ道を探す黙り方だ。
橘が言った。
「答えないなら、記録で答えさせる。矢部の端末には、あなたの連絡先が残っている。あなたは“書いた手”ではない。だが“使わせた”」
園田の笑顔が、ようやく崩れた。
「……正しいことを、したかっただけです」
俺は言った。
「正しいって言葉、強いよね」
「久世」
橘が止める。止め方が優しい。棘がない。
「黙れ、じゃないんだ」
「仕事だ」
橘が短く言った。
⸻
外に出ると、風が冷たかった。
綺麗なビルの風は、余計に冷たい。
橘が名刺を封筒に入れて言う。
「久世。これで“道具”の形が分かった」
「道具?」
「委託番号。番号を持っていれば、人を動かせる。——これは、個人の犯罪ではない」
俺は名刺の封筒を見て言った。
「番号ってさ、名前より怖いよね」
橘は頷いた。
「名前は逃げる。番号は残る」
「残すの、好きだね」
「好きではない。必要だ」
橘が言った。
俺は笑った。
「じゃあさ。次も必要になりそうだよね」
橘は答えない。
答えないまま、名刺の角だけが綺麗に揃っていた。




