東京は綺麗だ
東京は綺麗だ。
綺麗だから、汚れが目立つ。
目立つ汚れは、丁寧に隠される。
結城修吾は、現場の前で無言だった。無言が長い。長い時ほど、腹の底で怒っている。
「事故が続いてる」
結城が言う。
「被害者」
誠司くんが短い。
「松岡誠一。現場責任者。堅実で責任感が強い。自分を追い込みやすい。……もう一人、岡野達也。豪胆で雑。だが優しさが裏目に出る」
「死人は」
結城が聞く。
「まだだ。だが、寸前だ」
直斗が小さく息を吸う。
「工事現場で、事故って…」
「事故って言えば済むからね」
俺が言うと、結城が睨む。
「黙れ」
誠司くんが言った。
「現場へ」
再開発工事現場は、囲いの中にもう一つの街を作っていた。
クレーン。照明。安全標語。ヘルメット。
全部が正しく見える。正しく見えることが、怖い。
松岡誠一は、ヘルメットを握り潰しそうな手で持っていた。責任感で自分を削る人間の手だ。
「すみません。俺が悪いんです」
第一声がそれ。
追い込みやすい人の謝り方。
岡野達也は、その横で腕を組んでいる。豪胆で雑。だが目が優しい。優しいのが裏目に出る顔だ。
「松岡さんのせいじゃないっすよ。現場は現場で——」
「黙ってろ、岡野」
松岡が遮る。自分のせいにしたい人間の遮り方。
誠司くんが言う。
「事故の内容」
松岡は硬い声で説明した。
「足場のボルトが二度外れた。安全帯の金具が一度破損した。重機の誘導灯が一度消えた。全部、偶然ってことにされてる」
「偶然が揃いすぎてるね」
俺が言うと、誠司くんが俺を見る。
「久世」
「はいはい」
結城が吐き捨てる。
「上は“事故処理”で終わらせたい。ここも財団案件だ」
誠司くんが言った。
「終わらせない」
容疑者は二人。
小田切亮。攻撃的で口が強い。追い詰められると黙る。
柏木修一。冷静で丁寧。罪悪感を理屈で消す。
参考人は桐谷和真。目端が利く。現場の勘。恩に弱い。
小田切は、最初から喧嘩腰だった。
「事故だろ? 工事なんて危ねえに決まってんだよ。何が悪いんだよ」
「声、でかいね」
俺が言うと、小田切が睨む。
「うるせえ」
柏木は穏やかに言った。
「安全基準は満たしています。書類もあります。記録もあります。事故は、確率的に起きうる」
丁寧。理屈。逃げ道。
俺は柏木を見る。
「柏木さん、説明が綺麗だね」
「当然です。現場は数字で語るべきですから」
誠司くんが言った。
「数字は嘘をつく。選ぶ数字は、人が決める」
柏木の眉がわずかに動く。
⸻
桐谷和真は、最初は口が重かった。
でも“恩”の話になると、目が揺れる。
「俺、松岡に世話になってる。だから——」
「だから、守りたい?」
俺が言うと、桐谷は黙る。
結城が言った。
「桐谷。見たことを言え」
桐谷は吐き出すみたいに言った。
「……ボルト、外されてた。最初から誰かが、締めたふりしてた」
松岡が顔色を失う。
「そんな…」
岡野が言った。
「俺、見回りしてたのに…」
優しさが裏目に出る人間の声。
見回りしてた自分を責める声。
誠司くんが言う。
「誰が締めたふりをした」
桐谷が首を振る。
「分からねえ。でも……雑なやつじゃない。“丁寧な手”だ」
丁寧な手。
この街でいちばん嫌な言葉だ。
誠司くんは契約書と工程表を開いた。
変更履歴。委託範囲。責任分界点。
合法の壁を積む。逃げ道を潰すために。
結城が言う。
「令状、通すのに時間がかかる。上が渋ってる」
「渋ってるなら、渋った記録を残せ」
誠司くんの声は硬い。
直斗が言った。
「僕、書類運びます。絶対、落としません」
「落とすな」
結城が言う。
「落としません!」
言い切りが早い。危ない。
俺は小田切と柏木を並べて見た。
声が強いのは小田切。
言葉が丁寧なのは柏木。
でも現場を“動かしてる”のは、どっちだ。
俺は柏木に言った。
「柏木さん、現場って怖いよね。誰かが死ぬ寸前でも、書類が綺麗だと“安全”に見える」
柏木は微笑んだ。
「必要な手続きです。感情で動けば、もっと危険になる」
「感情じゃないよね。計算だよね」
柏木の微笑みが少し薄くなる。
俺は続けた。
「事故が“起きうる”なら、事故が“起きる”ようにした人がいるよね。確率を、選んだ人」
柏木の目が動く。すぐ戻す。戻しが速い。
誠司くんが言った。
「柏木。あなたは現場の変更履歴を管理している。ボルトの締結確認の記録が、二度だけ不自然に空白だ」
「空白は、記入漏れです」
「漏れが、都合のいいところだけ起きる」
誠司くんの声が硬い。
小田切が噛みつく。
「柏木がやったって言いてえのか!」
誠司くんが小田切を見る。
「小田切。あなたは声が大きい。だが手が雑だ。ボルトを“締めたふり”はできない」
小田切は一瞬黙る。追い詰められると黙るタイプだ。
黙ったまま、目だけが怒る。
俺は小田切に言った。
「小田切さん、今、黙ったね」
結城が睨む。
「余計なこと言うな」
「はいはい」
その時、直斗が走ってきた。
両手に書類の束。封筒。ファイル。
走るなって言われたのに走ってる。
「結城さん! 令状、通りました!」
言った瞬間、直斗の足が段差に引っかかった。
「うわっ」
転ぶ。
でも、転び方が違う。
直斗は自分の体を投げるみたいに、書類を抱えたまま倒れた。
肘と膝が擦れる音。紙が散らばりそうで散らばらない。
「……守った」
直斗が息を吐く。
結城が舌打ちしながら、直斗を起こした。
「バカ。偉い」
誠司くんは直斗の膝を見る。視線だけで、叱ってる。
「手当てしろ」
「はい…」
直斗は痛そうに笑った。憧れの人の前で、弱音を言えない笑い。
令状が通ると、現場は急に静かになった。
静かになるのは、逃げ道が消える時だ。
誠司くんが契約書を叩いた。
「柏木。あなたは工程を“安全”に見せた。だが、その結果、事故が続いた。目的は何だ」
柏木は丁寧に言った。
「街のためです。工期が遅れれば、損失が出る。損失は、市民の負担になる」
丁寧な言葉。逃げ道。
そして、選ばせる形。
俺は柏木に言った。
「“街のため”って言い方、通りがいいと思ってるよね」
柏木の口が止まる。
誠司くんが言った。
「あなたが消した記録は二度。どちらも“重大事故になりかけた日”だ。あなたは確率を、都合のいい方に寄せた」
柏木の微笑みが落ちた。
「……私は、ただ」
結城が低く言う。
「誰の指示だ」
柏木は目を伏せた。
「指示じゃない。選んだんです」
その言葉が、嫌なほど綺麗だった。
最後に、俺は松岡に言った。
「松岡さん、ひとつ聞いていい? “自分のせい”って言うと、少し楽になる?」
松岡が震える。
「……楽になる。責任を背負ってる感じがするから」
「背負わせる仕組みがあるよね」
俺が言うと、誠司くんが短く頷いた。
「仕組みは壊せる」
結城が言う。
「壊す」
直斗が膝を押さえながら言った。
「僕も…」
「無茶するな」
誠司くんが言う。硬い。でも、棘がない。
新しい再開発計画書。
綺麗な紙。綺麗な署名。
朝倉晃。
次の街区名が、静かに映った。




