天使の涙 ― 境界要石
静まり返った断層の底で、百年の守護者が語る真実は、世界の理そのものに触れていた。
積もる雪の奥で、まだ見ぬ脅威が静かに息を潜め、
境界の地は、次なる選択を待ち続けていた。
粉塵と雪埃が静かに落ち着き、ギャオの断層深部へと降り積もっていく。
色を変えながら輝くオーロラは沈黙した粒子に反射し、光は徐々に小さく収束していった。
雷と閃光が弾け、嵐と振動が交錯した戦場は――
今、息を潜めたように静まり返っている。
セシルたちは、横たわるトロルを見守っていた。
その巨体は全身が傷だらけで、流れる血が激闘のすべてを物語っている。
「……お、お前たち……」
うっすらと目を開けたトロルの一つ目が、驚いたように見開かれた。
「我らはオメガ・ライン。人間とリバースの隔たりなく、封印を守護する者です。」
セシルが静かに告げる。
「封印を……守る……あれは、真実だったのだな……」
トロルは一同を見渡しながら呟いた。
「俺はヨハンス・ギーツ。ここで《天使の涙》の守護を百年続けている。」
ヨハンスはゆっくりと上体を起こし、断層に背を預けて座り込んだ。
「動いて大丈夫なのか?」
ルクジムが心配そうに声を掛ける。
「ふ、ふふ……体中痛くて仕方がないが、まだ死なんよ。」
ヨハンスは微笑むが、すぐに表情を引き締める。
「ここから二十メートルほど断層沿いに歩くと……せり上がった新しい裂け目がある。赤黒い大きな岩が目印だ。」
その方向をまっすぐに見つめながらヨハンスは続けた。
「その断層は……俺の角で出来ている。岩に擬態させて封じてある。」
自らの折れた角の痕を指し示す。
エド、ミラ、ジョーが互いに顔を見合わせる。
「その擬態した角を引けば、地面の扉が開く。奥に進むと……氷河に封じられ、永久凍土に覆われた《天使の涙》がある。」
ヨハンスは全員の目を一つずつ見て言った。
「だが、目視はできぬ。」
差し込む星々とオーロラの光が、彼らの吐息を揺らめかせる。
「《天使の涙》は現世の象徴。現世と霊界・冥界を分ける境界の要石であり、世界の均衡を支える存在だ。」
ヨハンスの眼が鋭く細められる。
「決して動かしてはならぬ……!」
「あれは、現世と死者の国を隔てる楔なのだ……!」
怒りとも悲しみともつかぬ表情で、ヨハンスは絞り出す。
あまりに突拍子もない話に、エドが息を呑みながら問う。
「……動かすと、どうなるんだ?」
ヨハンスはエドを静かに見据えた。
「死と生の境界が……消失する。」
「死という概念は無くなる――だが、生きるという存在もまた、無くなる。……熱を失った魂が、朽ちることのない肉体に閉じ込められ、永遠に虚空を彷徨うだけの『現象』と化すのだ。」
ルクジム、ミラ、ジョーが息を呑む。
「元来トロルは、物質世界と霊界の狭間に生きる存在。だからこそ、封印の番人を任された。」
その声には百年分の苦悩が滲んでいた。
アルマンナギャオは、大陸が交差する地だけでなく――
生と死の境界が固定された場所でもあった。
「なるほど……龍の心臓と同質の役割を持つ封印なのですね。」
セシルが深く呟く。
エドが眉を寄せる。
「なぁ……神界、現世、魔界の三つがあるのは聞いてたが、霊界・冥界ってのはどう繋がるんだ?」
通信が割り込む。
「元々一つの世界だった神界・現世・魔界は“物質のある世界”。対して霊界・冥界は“物質の無い世界”、いわば死者の国だ。」
スーマの冷静な声が響く。
「三つの封印――
《聖者の刻》は空間の彷徨、
《龍の心臓》は大地の鎮魂、
《天使の涙》は生死の境界。
そもそも……集めてはいけないロジックで出来ている。」
セシルは眉間に皺を寄せる。
「元々は三つとも彷徨う封印だったが……偶然か、人為的なものかは分からない。しかし、それぞれの性質ゆえに“収まった場所”で意味を持ち始め、いつしか《理》を司りだした……。」
セシルが仮説を立てる。
ヨハンスが静かに語る。
「遥か昔――このアイスランドに死者が溢れ、生者も倒れ続けた混沌の時代があった。その時、何者かが“水晶”を持って封じたという伝承が残っている。」
「……そう考えると、我らがオルド・アークより先に封印を集めるより守る方向へ舵を切ったのは必然か。」
セシルの声には、長い時を見てきた重みがあった。
だが、通信機から冷たい声が響く。
「……オルド・アークがそんなこといちいち考えてると思うか?問題は“ここから”なんだよ。」
スーマの声に場の空気が張り詰める。
その背後で――
地面に倒れていたカリースの身体が、泥を啜るような嫌な音を立てて微かに痙攣した。
吸い取ったはずの黒い雷が逆流し始めていることに、まだ誰も気づいていない。
吹き抜ける風が、冷たさを増す。
いつしか、小さな雪が舞い始めていた。
境界が、再び静かに閉じようとしているかのように。
「暗躍より表舞台へ ― 天使の降臨」へ続く。




