ギャオ ― 呪縛解放
ひとつの戦いが終わり、別の真実が静かに姿を現そうとしている。
世界の境界は揺らぎ、次に訪れる一歩が、すべてを変える気配を孕んでいた。
地響きと共に耳鳴りが残る。
激しい閃光が瞬き、消え、遅れて低い轟音が大地を震わせた。
数キロ先の戦闘の余波が、肌を刺す冷気となって伝わり、遅れて内臓が揺れた。
友の戦いは終わったのか――。
通信はまだ不安定だ。
ヌエは、魔界印で使役された北極熊と向かい合っていた。
互いの呼吸は荒く、吐く息が白い靄となり、上半身を煙のように包む。
「いくら魔界印で強化されていても、その巨体……もうスタミナは底をつく頃だろう。」
ヌエはゆっくり構えを変える。
幾重にも打ち込まれた攻撃の痕跡が、白い毛を紅く染めていた。
北極熊の口内は紫に変色し、酸欠がその命を蝕んでいる。
だが、ヌエの疲弊も明らかだった。両手の震えを隠せない。
「互いに限界……勝負の幕を引こう。」
ヌエは足音を消し、滑るように熊の周囲を回る。
「残空――八身陣!」
視界でヌエを追えなくなった瞬間、八方から影が襲い掛かる。
背後から首に絡みつくヌエ。
「残空――蛇足蔓。」
両肘と両膝で頸動脈を締め上げる。
「本来なら片腕を顎に回し頸椎を捻る技だが、このサイズでは無理だな。」
呟きながら、残りの力を振り絞る。
北極熊は藻掻くが、骨格の形態ゆえに前足は届かない。
接触した肌を通じ、獣の底知れぬ恐怖と、冷たい魔界に魂を削り取られる悲鳴がヌエの脳内に流れ込む。
(案ずるな、もうじき終わる……)。
ヌエは祈るように力を込めた。」
やがて真紅の瞳から精気が消え――
糸が切れたように、巨体が崩れ落ちた。
力尽きた巨体の影から、ヌエがゆらりと立ち上がる。
「ギリギリだったな……世界はまだまだ広い。」
膝が小刻みに震えていた。
その時、通信が回復する。
「ヌエ、聞こえるか?魔界印解除が一歩進んだ。呪縛は解けるぞ!そいつは生きてるか?」
スーマの声が冷気を裂く。
「ああ……意識を失っているだけだ。」
ヌエの声に、わずかな安堵が滲む。
「今から救急用QRボットを射出する。ワクチン――分離呪魔ナノマシンを魔界印の上から打て。」
「しかし、どうやって解除を?」
ヌエの疑問に、スーマが答える。
「解除じゃねえ。命令を遮断するだけだ。魔界印は外層、中層、深層、基層、核層の五層構造で脊柱神経に絡みついてる。摘出はまだ無理だ。」
「外層は暴走抑止と帰還命令、中層は攻撃・防御・偵察のサブルーチン……そして深層、接続層。魔界エネルギーの供給路だ。そこを遮断するQRボットを生成した。」
リリアンが割って入る。
「完全な解除じゃない。でも呪縛は解ける。いびつな生命になるかもしれないけど、命を奪う必要はないわ。」
ヌエは夜空を見上げる。
星々は瞬き、疲弊した体に癒しを与えるように輝いていた。
ヌエはQRボットを受け取り魔界印へ散布した。
「それでも……自由を、自然を取り戻せるのか。奪われた時間ごと。」
呟きながら、崩れるように座り込む。
「俺は暫らく動けそうもない。もう少しここで休んでから皆と合流する。」
QRボットの光粒子が魔界印の隙間に浸透すると、脈打っていた邪悪な赤光が、冷却される溶岩のように黒く沈黙していった。
完全に消えたわけではない。
しかし、神経を支配していた『毒』が、深い眠りについたことを示していた。
その瞬間、北極熊の荒い息が穏やかな鼓動へと変わった。
吹き抜ける風が運んできた闘気の欠片が、静かに語りかける。
まだ終わりではないと…
…その頃、厄催を撃退したギャオの深層部では、天使の涙の真実が語られようとしていた。
だが、その真実は希望か、それとも新たな厄催か――誰にも分からなかった。
「天使の涙 ― 境界要石」へ続く。




