第九回 心の痛み
玲はハッとした。
すっかり話し込んでしまって、いつの間にか日は完全に落ちている。
「あの、陛下。お時間の方は大丈夫でしょうか?」
聞き入っていた風演も、玲の言葉で辺りが暗くなっていたことに気が付いた。
「おお、時が溶けたわ。もうこんな時間か」
椅子から立ち上がった風演は、背伸びして筋を伸ばす。
「今日は面白い話が聞けた。また話を聞かせて欲しい」
「もったいないお言葉です。」
「しかしそこまで熱中するとは雪瑜は闘蟋が好きなのかな? 後宮にもたまにコオロギを戦わせる者がいるが、とても雪瑜の熱意には及ばん」
「恐らくは……」
風演を見送ろうとして、玲が立ち上がった時だった。
ぐにゃりと玲の視界が歪む。
初めは立ち眩みかと思ったが、違った。手足から力が抜け、次第に意識が遠のいていく。
「大家、お待ちを!」
呼び止められた風演が驚いて振り返ると、そこにいたのは雪瑜であった。
「おお、雪瑜」
「玲とばかり話されてお帰りになられるのですか。雪瑜は寂しく思います」
「ああ……うん」
風演は喉から呻くような声を出した。雪瑜の誘いに乗るか迷っているのである。
ここぞとばかりに、雪瑜は畳みかけた。
「子明!」
若い侍女の名を呼ぶと、素早く命令を出す。
「今晩、大家がお休みになられる。誰かに言って料理を運ばせなさい!」
「はっはい!」
緊張した面持ちで侍女が駆けていくと、雪瑜は風演の腕に抱き着いた。
「さあ大家、腰を下ろしになって」
「う、うむ」
まだ少し風演は迷っていたが、頭を一掻きすると破顔した。
「全く、雪瑜には敵わん」
仲睦まじく食卓を囲む二人は、まるで新婚の夫婦のようだった。
そして談笑が終わると、二人は閨の中へ消えていく。
風演の腕に抱かれて雪瑜は囁いた。
「玲は私が闘蟋をするのが好きなどと言っていましたが、そうではありませんよ」
「そうなのか? しかし随分な入れ込みようだったと聞いているぞ」
「私は戦う場を用意してやっただけのこと。自分でやろうとは思いませぬ」
「では、お前の望みは何だったんだ? 金が欲しかっただけか?」
「そうです。しかし、それも自分の為に欲しかったわけではありません」
「では何ゆえに?」
「信じられぬかもしれませぬが……」
一瞬雪瑜は口ごもった。
風演はさらに先を続けるよう、雪瑜の白い髪を撫でた。
「私は信じよう」
「全て、夫となるはずだった宗靖の為にやったことでございます」
白猴の開く大会が大成功を収めた、さらに翌年。
このとき欧陽玲は十四歳、宗靖や周泰は十六歳である。
そろそろ男女が一緒になってつるむのは憚られる年齢だが、白猴は構わず周泰らを従えていた。
一方その頃宗靖は、農作業をしながら父、宗仁から州都・青安への留学が決まったと告げられていた。
「古人曰く、十五にして学に志す、という。お前も今年で十六だ。ちと遅れてしまったが、予てから申していた通り、そろそろ州都、青安にて学んでもらう」
「はい」
父の言葉に、宗靖は厳かに頷いた。
まるでいまから勉学を始めると言わんばかりだが、宗靖は既に講師を招いて学習を始めている。
それでもあえて都会に行かせるのは、州都・青安には官立の高等教育機関である官学が置かれているからだ。
官学は優秀な官僚の養成を目的としており、令外官を除く正規の官僚の子弟だけがそこで学ぶことを許されている。
そのような場所で優秀と認められれば、出世も早い。
「今年の収穫は手伝ってもらうつもりだが、その後、雪が降る前に発て」
「はっ。今から楽しみです」
「おいおい、物見遊山に遣るのではないぞ」
「やっ、そういうつもりでは……」
「分かっている。冗談だ」
この親子のやり取りを、白猴はそば耳を立てて聞いていた。
「靖ちゃん……私も頑張るわ」
再び闘蟋の季節がやって来ると、白猴は張り切って大会の準備を進めた。
既に白猴らが開く闘蟋大会は子供たちの間で知れ渡っていたため、この年は初めから前年に増して参加者が多かった。
「ふん! なんだ、金を取るのか」
受付のところでそう叫ぶ者がいた。曹某とかいう貴族の子弟である。
供の者を連れて、偉そうに周囲を威嚇しながら歩く曹某は、いかにもわがまま放題で育ったドラ息子であった。
「決まりですのでね」
「ちっ。おい!」
と曹某が叫ぶと、供の男が代わりに金を出す。
受付に立っていた周泰は思わず
「おや、坊ちゃんではなくこっちのお兄さんの参加ですか?」と嫌味の一つでも言いたくなるのを、何とか堪えた。
ところが曹某の出したコオロギを見て、周泰は軽く驚きの声を上げた。
「おっこれは……」
そのコオロギは中々見事なものだった。
でっぷりと太っていて、爪が厚く、後ろ脚の蹴りも力強い。
曹某はどうだ、と言わんばかりに周泰を睨みつけた。
「銭が欲しいなら俺のコオロギに賭けるんだな。そうすれば儲かるぞ!」
「大会運営は賭けられねえ決まりなんで、ね」
「ふん、決まり決まりと七面倒くさい奴らだ。後で賭ければ良かったと後悔しても遅いぞ、わはははは!」
傲慢に笑いながら、曹某は周泰を一瞥して、受付を離れた。
曹某が去ると周泰は唾を吐いて毒づく。
「ぺっ。死ね、ボケが」
「おっと。ムカつくのは分かるが、組み合わせは公平にだぞ」
「分ってますよ玲さん」
その場はそれで済んだが、この曹某が後に騒動を引き起こす。
曹某の対戦相手となったのは、張某という子供であった。
張某は昨年入賞を果たし、そのコオロギは『左将軍』という称号を獲得した、中々の名伯楽である。
今年は王位を狙う張某が出してきたのは、やや小ぶりのコオロギであった。
重量的には中量級だが、コイツは重量級にも引けを取らないと言い張り、一つ上の階級に挑戦してきた入魂のコオロギである。
そのコオロギは試合前に交尾もすませ、闘志に溢れていた。
張某のコオロギを見て、曹某は初めから相手を呑みこんで掛かった。
見届け人をやっている周泰の方を振り向いて声を上げる。
「おい、受付に居たデブ! 組み合わせ間違えてるぞ! これは重量級の試合だろ!」
突然、デブ呼ばわりされた周泰はムッとして顔をしかめた。
「間違えてない。相手はそれであってる」
「へへっ。そうかよ。こりゃ運がいいぜ」
そう言っている間に闘盆にコオロギが落とされ、両者は茜草で自分のコオロギを撫でる。
準備が終わると、闘盆の仕切りが外され、試合が開始した。
初め、張某のコオロギは圧倒されているように見えた。
曹某のコオロギはのしのしと悠然と近づき、張某のコオロギはジリジリと後ろへ下がっていく。
やがて張某のコオロギは壁際まで追い詰められた。
「潰せ!」
曹某が勝利を確信して叫ぶ。
だが、曹某のコオロギが後ろ脚に力を込めるより一瞬早く、張某のコオロギが飛び出した。
張某のコオロギは素早く相手の背中を取ると、がっぷりと牙を相手のうなじに突き立てる。
わっと見物人が湧いた。
「背挟殺だ!」
武術に技があるように、戦うコオロギにもいくつもの技があるとされる。
張某のコオロギが見せた動きはその内の一つだった。
首筋に噛みつかれた曹某のコオロギは激しく暴れたが、深く食い込んだ牙は、逆にますますめり込んでいく。
やがて、曹某のコオロギは痙攣すると、抵抗をやめた。
生きてはいるが、完全に戦意を喪失し、それ以上戦おうとしない。
張某のコオロギは、勝鬨を上げる様に動かなくなった相手の周りを回る。勝負ありだ。
「張某の勝ち」
「アイツやりやがった!」
「嘘だろ……」
大番狂わせに、曹某に賭けた者は溜め息をつき、張某に賭けた者は手を打って喜んだ。
張某も拳を突き上げて、会心の勝利を噛み締めた。
だが負けた曹某は、結果を受け入れることができなかった。
「ちょっと待て!」
曹某は声を荒げて、張某に食って掛かる。
「こんなのは絶対おかしい! やり直しだ!」
チッと舌を打った周泰が割って入り、曹某を止めた。
「あっダメダメ。後から文句付けるのはナシだ」
「あああん!?」
騒ぎを見て白猴も駆け寄り、曹某を宥めた。
「まあまあ、お兄さん。悔しいのは分かるけど、今回は張の方が上手だったってことで、次に生かしな。茜草の撫で方に工夫があるんだよ。よく見てるといい」
だがその白猴の言い方が、曹某の癇に障ったらしい。
「なんだと」
曹某が白猴の白い髪を認めると、その口から決して言ってはいけない言葉が飛び出した。
「白い猴が偉そうに!」
欧陽玲に白猴と言ってはいけない。
それはこの大会の、最も重要な規則である。
「ばっ……!」
曹某が白猴を面罵した瞬間、白猴を知る者たち、特に周泰は顔に青筋を立てて、白猴を止めようとしたが、遅かった。
激怒した者でも初めは威嚇や罵倒するものだが、白猴はそうではない。
怒った婦女子の攻撃手段といえば、平手打ちや噛みつきが多いが、白猴はそうではない。
いつか周泰をのしたように、握り込んだ拳が、何の予告もなしに曹某の顔面に飛んだ。
メキッと曹某の顔が潰れた瞬間、白猴は転んだ曹某に馬乗りになり、さらに何度か拳を振り下ろす。
「誰が猴だと。誰がだ!?」
「玲さん、やりすぎです!」
「止めろ止めろ!」
周泰と宋傑がそれぞれ片腕を抑え、さらに曹某の従者を含めた五人がかりで白猴は曹某から引き離された。
それでも白猴の腕力は女子とは思えぬほどで、引き離された後も五、六人で押さえつけねばならなかった。
一方の曹某は泡を吹いて意識を失っていた。
後で分かったことだが、鼻骨と頬骨が砕けていたらしい。
従者は曹某を背負うと、這う這うの体で去っていった。
曹某はそのまま熱を上げて、一週間も寝込んでしまったという。
このことが、後日問題となった。
というのも曹某は県令(県の長官)の息子で、欧陽玲が身を寄せている宗家の当主、宗仁の上司だったからだ。
しかも宗仁が謝罪に行こうにも、当事者の白猴がへそを曲げて出てこない。
仕方なく顔を引きつつらせた玲を連れて行ったものの、それでも先方の怒りは収まっていなかった
最終的には曹家よりさらに上の地位にあった欧陽乙が、謝罪と見舞いの金子を贈り、なんとか『子供の喧嘩』ということで事態は落着した。
当然ながら、闘蟋大会はこのときからぷっつりと途絶えた。
欧陽玲は周囲に迷惑をかけたことを気に病んで、終始俯いてしくしくと泣いていた。
一度、あまりの申し訳なさに、玲は着物の帯を掴んで梁の下に立った。
この上は、死んで詫びるしかないと思っての行動である。
しかし、帯を梁に掛けようとすると、腕が麻痺し動かなくなった。
この期に及んで、自分は我が身が可愛さに死ぬこともできないのか!
と、一瞬思ったが、そうではない。
「うっ」
右腕が勝手に動き、爪を立てて柱に文字を刻む。
『やめろバカ』
「こ、これは……」
白猴の仕業であった。彼女がいる限り、自死すらできないことを悟ると、茫然としてその場にへたり込んだ。
母の月命日。玲は手作りの小さな祠の前で香を焚き、合掌する。
「母上、玲はどうすればいいのです? 白猴の呪いを解く方法があるなら、道を指し示して下さい。でなければ玲は、玲は……」
「玲」
名前を呼ばれて振り向く。
そこにいたのは宗靖であった。
三年前はやや頼りなかった少年は、成長期と日々の鍛錬が重なり、がっしりとした大人の男の体つきになりつつある。
「靖ちゃん……」
「少し歩こうか」
「それは……謹慎の身の上なので無理です」
「謹慎を受けたのは白猴だ。お前ではない」
宗靖はそう言って、少々強引に玲を外に連れ出した。
そのとき、玲は握られた手の力強さに驚いた。剣や弓の鍛錬によって宗靖の手の皮は分厚くなり、タコができている。
宗靖の地道な努力を思い知った気がした。そう言えば闘蟋大会にも、宗靖は一度も顔を出していない。
留学も決まり、勉学に剣の修行に、ますます忙しくなっている。
ここまで努力するのは将来、家を守るという自覚があるのだろう。
もう一人の自分は、そうした宗靖の努力を破壊するところだった。
そうとも。ここで県令と揉めていたら留学の話は流れていたかも知れない。
それだけでなく家の浮き沈みに関わる問題になっていたかも……そう思うと背筋が冷たくなった。
「旬日後、発つ予定だ。これから少し忙しなくなると思うと、もう話す機会がなくなる気がしてな」
「はい……」
玲は震える声で頷いた。
「なあ、玲。いつか、二人で元宵祭に出かけたことを覚えているか?」
「はい。提灯の明かりで町が色めいて、とても奇麗でした」
「ではあの時、お前が白い歩揺を欲しがったことも覚えているかな」
「ええ。あの時の歩揺は、今でも時々白猴が身に着けておりますよ」
「それは赤いやつだろう。白猴はそれでいいが……お前には買ってやれなかった。それがずっと心残りでなぁ」
宗靖は気恥ずかしそうに頭を掻くと、懐から白塗りの歩揺を取り出した。
「先日父上の使いで街を歩いていたら、これが目に入ってな。あの時お前が欲しがった物に似ていて、つい買ってしまったわ。受け取って欲しい」
手渡された白歩揺は、確かにあの時の露店で見たものと似ている気がした。
だが、見せられたのは、百合の花を模した精微な細工に玉を埋め込んだ歩揺である。子供の小遣いで買えるような代物ではない。
「こ、これは受け取れません。留学するなら何かとお金がかかります。そっちに使ってください」
しかし、宗靖は強引に白百合の歩揺を玲の手に握らせた。
「受け取ってくれ。しばらく会えなくなるしな。二年……いや三年か……」
「しばらく、ですか」
玲は涙を見せまいとして、宗靖とは逆の方を向き、素早く目を拭った。
しかしそれでも、あとからあとから涙が溢れてくる。
「しばらく……」
「お、おい。泣くな。三年などあっという間だ。それに、留学と言っても青安までは精々三百里(約135㎞)。正月など折を見て帰ってくることもできる」
「ち、違う。そうじゃない。そうじゃないの」
もう玲は完全に泣き出してしまって、手で顔を覆っていた。
「では、どういうことだ? 教えてくれ、玲」
宗靖は肩を抱き寄せ、玲に優しく問いかけた。
「……せ、ち……の?」
消え去りそうな小さな声で玲が何事か囁いた。
「もう一度、ゆっくり言ってくれないか?」
囁き声は小さく、また泣いているため、聞き取りづらいが、宗靖は辛抱強く耳を傾けた。
「靖ちゃんは、まだ私と一緒になるつもりなの?」
「当たり前だ」
宗靖の力強い言葉に、玲はしばらく言葉が出なかった。
声を掛けられたとき、玲は反射的に別れ話だろう、と思った。
将来、白猴が似たようなことをしでかした場合、今度こそ大事になるかも知れない。
その危険を考えれば、自分を家に置いておけないのは当然だ。
しかし、宗靖は違うらしい。
まだ私と一緒になる気でいる。
なんという深い優しさだろう。それを想ったとき、胸が鉄の鎖で絞めつけられるように痛んだ。
やはり自分は身を引くべきだ。
私が背負うべき不幸を、このような人に遷してはいけない。
そうとも。宗靖は白猴などという化け物と一緒になるべきではない!
暫く、喉を引くつかせ、洟をすする音だけが流れる。
そして、玲はなんとか上ずった声を絞り出した。
「そっそれは、やめた方がいい……やめて。靖ちゃん、きっと私はあなたの禍になる。だっ、だから──」
言葉が出てこない。
ずっと靖ちゃんと一緒に居たい。
離れたくない。
このままずっと、靖ちゃんに抱かれていたい。
「──別れましょう」
「そのようなことを申すな! 俺の妻となる女はお前以外にこの世にいない!」
「でも、でも……無理だよ。私の中には白猴が……」
「そんなことは気にするな! 俺が必ずなんとかしてやる! 青安に行くのだって勉学ばかりが目的ではない。白猴を消しさる手掛かりが掴めるかも知れぬと思って行くんだ」
「え、それはどういうこと?」
「都に行けば、腕利きの道士や陰陽師の一人や二人はいよう。仮に居なくとも、都は情報は集まるところだ。なにか方途を見つけてくる。だから、それまで待っていてくれ、玲!」
宗靖の真っ直ぐな瞳でそう言われると、玲は感極まって身を震わせた。
愛情という波が悲哀を呑みこみ、その流れに身を任せ、玲は愛の言葉を紡ぐ。
「靖ちゃん、ありがとう。愛してる」
二人の距離は縮まり、玲は自然と目を閉じた。
宗靖の息遣いや心臓の音が聞こえる。自分の鼓動も宗靖に聞こえているだろう。
身も心も蕩けるような刻──唇同士が触れ合う。
だが甘い暗黒の中にいた玲は、自分の意識がその暗黒の中に沈み込んでいくのを感じた。
体が動かない。
そんな、待って。やめて。ダメ……白、猴……。
直後、宗靖はドンと胸に強い衝撃を受けて、玲の体から引き離された。
至福の瞬間から一転、宗靖が目を開けると、既に欧陽玲の姿はなく、白い髪の火眼金睛をした妖女が、そこに立っていた。
「聞き捨てならないな、靖ちゃん。私を消すとはどういうことだ?」