第六十一回 韜晦
……このままでよいのか?
雪瑜は自問する。彼女は誰にも頼らない。
彼女は玲の守護者として生まれ、化け物として育った。
誰にも頼れるはずがない。血を分けた者はこの世に居らず、幼少のみぎり親戚たちには殺されそうになった。そんな者たちなど信用できない。「存在理由」であった守るべき自身の半身ですら彼女は頼れない。
玲に恨まれていることは知っている。
……これで十分なのか?
誰にも頼れない雪瑜は、自問するしかない。書を読み知識を広げて、彼女はただ一人で考える。
彼女が愛する者は世界の頂点に立つ者だが、決断することが苦手だ。彼女は一人で決断するしかない。
玲に体を預けた雪瑜は精神の奥底で思考する。
権力の頂に登ったつもりだったが、それがこんなに面倒なことだとは思わなかった。
外敵を防ぐ武である節度使と、内を固める文である宰相の争い。どちらにも言い分と理があり、どちらにも非がある。どちらが勝とうとも遺恨は残るだろう。
相手を排除して自分が勝てばいいとはまた違う問題だ。双方を上手く言い含めなければならない。
……くそ。
この私は月巧妃だぞ。皇帝の愛を一心に受ける者。皇后にすらもうすぐ手が届く。それがなぜこんな下らんことで悩まねばならないんだ。
権力の絶頂にあるこの私が……。
……皇后、皇后か。
皇帝の、后。
ふん。まるで付属品のようだな。
こんなものではない、私が目指した頂は……。
雪瑜の中で満たされたはずの野心が 再び渇きを覚えていた。
皇帝直々の招きにより、昭国を守護する十節度使(石豹が二州の節度使を兼ねている為に正確には九人)が一堂に会する酒宴がいよいよ始まった。
錚々たる顔ぶれに城内の空気はいつも以上に張りつめていた。
このような場では、普段であれば雪瑜が表に出て対応する。しかしこの日に限り、雪瑜はなぜか沈黙し、代わって玲が酒宴に参加することになった。
ピリピリとした空気に、玲も自然と緊張する。
だが、そんな空気などどこ吹く風。
節度使筆頭ともいえる石豹は、膨れ上がった腹をポンポンと叩きながら、風演に向かって冗談を言っていた。
「いやはや、大変な顔ぶれ。それがしも緊張してしまいますなあ!」
「とてもそうは見えぬな、石将軍よ。さっきからポンポンと叩いているお前の腹には何が入っているのだ?」
「これは我らがここに集っている間に辺境で悪い奴らがよからぬことを企まぬよう、邪気を封じてきたのでこれほどに膨れ上がっているのです!」
「くっくっく。よく言うわ! まあよい、今日は燕喜の会だ。たんと楽しんでくれ」
「ははーっ! ありがたき幸せ!」
もって生まれた雰囲気というべきか。石豹が話すと自然と場が和む。
皇帝が相好を崩すと、場の空気も一緒に弛んだ。
玲も和やかになった空気にホッとして立ち上がり、自ら酒瓶を手にして、節度使たちに酌をして回る。
「これは月巧妃様自ら……」などと節度使たちは笑顔を見せた。
石豹もますます気分を良くした様子で、玲が酌をするとニカリと笑う。
「おお、これは玲殿、お久しゅうござる!」
「は、ご無沙汰しております。石将軍にはいつもお気を回していただいているのに会えず終いで申し訳なく思っておりました。今日はもてなさせてくださいまし」
「なんのなんの、こちらこそ雪瑜殿には世話になっておる! 今日はどうしました? 姿を見せぬということは何か仰天の仕掛けでも企んでおるのかな?」
「ははは、どうでしょうか」
「……某にはございますぞ」
「え?」
「グハハハ。楽しみに見ておられよ!」
と、石豹は上機嫌で酒杯を飲み干した。
次第に酒宴の参加者たちに酔いが回り、所作にも乱れが見えてきた頃、風演が石豹を近くへ呼び寄せた。
「おっと来たか、石将軍。今日は楽しめたか?」
「ははっ! このような宴にお呼び頂けたのは末代までの語り草でございます」
石豹が気分を良くしているのを好機と見た風演は、近頃宮廷を二分している問題について触れ、石豹の理解を求めようとした。
「それは何よりだ。近頃、石将軍を悪し様に言う者がいたと聞いたが、孤は将軍がどれほど昭国に尽くしてきたか分かっているつもりだ。何も心配することはないぞ」
「何よりもありがたきお言葉。荒野にもたらされた慈雨の如く某の心に染み入ります」
「なればこそ石将軍。ここは孤の顔を立てて例の件は魏宰相に一歩譲って貰えぬか? この埋め合わせは必ずする」
「……」
石豹は一瞬言葉に詰まったかのように見えたが、すぐにいつもの調子に戻り、張りつめそうになった空気を笑い飛ばした。
「うはははは! 陛下、なにを仰せられる! 宰相殿を始めとするお偉方が朝議で論じ合い、正式に上奏され陛下の勅をもって認められた新法を、どうして某が蔑ろにいたしましょうや? 我は陛下の御心に従うばかりにございます」
石豹の殊勝な態度を見て、風演は肩の荷が下りたとばかりにすっかり気分を良くした。
「流石、石将軍はよく心得ている!」
「まさしく。将軍のようなお方は何物にも代えがた昭国の宝でございますわ」
黙って二人の会話を聞いていた玲も、話がすんなりまとまったことにホッとして石豹を持ち上げた。
このような成り行きは玲にしても意外だった。
これほど石将軍があっさりと新法を受け入れるとは思わなかった。
ならば精々将軍には気持ちよく酔って貰おうと、心の中で玲は腕をまくった。
石豹のいままでの戦功を風演に思い出させるように、過去の戦いの詳細を聞きたがり、戦いの中の苦しみに共感し、勝利の素晴らしさを称賛する。
こうして闘魂を慰めてやれば、石将軍も無謀な戦いなど起こすまい。その一心で玲は一所懸命に将軍を持ち上げた。
風演もうんうんと頷き、荒涼とした西域での生活の苦しさや遊牧騎馬民族の猛威に対する石豹の働きを今一度評価した。
ああ、きっとこれで戦争はないだろう。
玲は安堵した。
そして石豹の話術も流石の物。
人懐っこい石豹は自身の武勇を誇るだけではなく、自分の滑稽さを種にした笑い話や部下の働きなどを織り交ぜて、風演と玲をぐいぐいと話の輪の中に引き込んでいく。
玲が石豹の杯に酒を注ぐと石豹は笑った。
「玲様、この酒を飲んだことがありますかな?」
「いいえ」
と答えると石豹は笑って、一口舐めてみるように言う。
言われるがまま舐めてみると、舌がピリピリと痺れたのに驚いて玲は目を見開いた。
「な、なんですかこのお酒は」
「ははは。これは白酒と申して、酒豪でもたちまち酔う強い酒。しかし、某は好物でございましてなぁ。
と笑いながら、石豹は注がれた白酒を水のように飲み干した。
「くふう。美味い酒だわい」
「流石将軍。お酒もお強い!」
「酒に負けたことはないのが某の自慢でございます。女人には酔いっぱなし負けっぱなしでございますがな! ぬはははは!」
赤く染まった石豹の丸顔は無害な好々爺といった雰囲気がある。
だが。
一人の老将が自分と風演に近づいてくるのを見て、一瞬石豹は素面に戻ったかのように鋭く目を光らせた。
玲は後から知ったのだが、この時に近づいてきた老将の名は朱尉といい、石豹や欧陽乙と同じく節度使の一人であった。
朱尉は風演に叩頭した後、恭しく話し始めた。
「陛下、このような宴にお招き頂き感激の極みにございます」
「うむ、朱将軍ら節度使は昭国の要ゆえな。ますますの活躍を期待しているぞ」
「そのことなのですが……」
朱尉は声を一段低くした。
「寄る年波には勝てず、もはや拙者の手足は萎え、馬に乗るのも人の手を借りる始末。このような有様ではいまでのような戦働きはできぬでしょう。そこで陛下より賜った節度使の印綬を返上しとうございます」
老将が言い放った突然の引退発言に驚いて風演は酒杯を落としそうになった。
「な、なんと! 早まってはいかぬぞ朱将軍!」
「いえ老骨はただ消え去るのみ。役に立たぬ拙者がいつまでも節度使の地位に留まっていては、昭国の威信に関わりましょう」
「しかしだな、節度使の交代は大事ゆえ今すぐというわけにはいかぬ。朱将軍がそこまで言うなら無理強いはできぬが……後釜が決まるまでの間は青州節度使を辞めるのはまかりならぬ。今しばらく沙汰を待て」
「陛下、実は我が後釜にしたい者が居るのです。その者に青州を良く知り拙者も何度も助けられました」
「ほう誰だ、その人物とは?」
「北西州及び玄州節度使を務める驃騎大将軍、石豹殿にござる」
「なんと、その方は石将軍を推薦するのか!」
風演は驚いた。
節度使は世襲ではない。
とはいえその数々の特権を考えれば、普通は息子や親類縁者に継がせたいと推薦するのが普通である。
それがまさか石将軍とは!
驚いた半面、お気に入りの将軍が褒められた気がして風演は気分よく何度も頷いた。
「そうかそうか。うむ、石将軍か……」
石豹も満更でない顔をしているのを見て、風演は尋ねた。
「石将軍、朱将軍はこう申しているが、受ける気はあるか? 一つでも大変な節度使を三つも兼ねるとなればその重責は計り知れまい」
「先ほども申した通り、この胡人は陛下の御心に従うばかりにございます」
「よくぞ申した! それでは……」
と風演がさらに言葉を続けようとしたとき、諫臣である魏澄子が慌てて割って入った。
「お待ち下され、陛下。節度使の任命とは国家にとり重大な決断。口約束と言えど軽々に申されていい事ではありませぬぞ。お二人が申されることは十分に検討するということになさいませ」
しかし。
この時はかえって諫言が仇となった。
石豹の苦労話に共感し、愛する女に長年の節度使としての功績を説かれ、さらに酒で気が強くなっていた皇帝は諫臣の言葉を一蹴したのである。
「孤に口を塞げと申すか! 何を躊躇うことがある! 石豹よ、孤はその方に青州節度使の任を命じる。追って沙汰があるだろうから心構えをしておけ!」
「ははーっ!」
石豹と朱尉は揃って皇帝の前に叩頭した。




