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第六回 童養媳

 明くる日、風演は陽がまだ落ち切らぬうちから鳳巣館を訪れた。

 先導するのはやはり昨日と同じく焦螟である。この老宦官は皇帝の影といってよく、いつもぴったりと風演と行動を共にしている。


「皇帝陛下……!」

 上ずった声を上げたのは玲である。

 一晩とはいえ雪瑜は皇帝と男女の仲となったが、玲の感覚としては相変わらず風演は遥か高い雲の上の人である。

 そもそも自分が身を重ねたとも思っていない。それを行ったのは雪瑜である、というのが玲の認識だ。

「やあ、玲」

 と、風演は親し気に話した。

「昨日は突然押しかけて迷惑だっただろう。詫びに茶菓子を持ってきたぞ」

「……と、とんでもございません。陛下に対してめ、迷惑だなんて……」

 玲は声を震わせながら、伏目がちに風演の挙動を見守った。風演が一歩自分に近づく度に、玲の体が強張る。


 至尊の座にある者が、我が元を訪れる。これほどの慶事が他にあるだろうか。

 これは世界中の女が望んでも得られぬ幸運。

 玲は自分にそう言い聞かせた。だが頭で分かっていても、心と体は拒絶する反応を示した。

 心が冷えると、体も冷えた。まるで体を巡る血が凍り付いたかのようだった。その寒さで玲の唇も震えた。

「へ、陛下にお越しいただき、あ、あ、ありがたき幸せ……」


「欧陽玲。()は野に咲く花を(いたずら)に手折ることはしないぞ」

 と風演は少し硬い口調でそういう言うと、再び砕けた口調に戻った

「そう緊張するな。そなたを抱きに来たわけではない。雪瑜が引き伸ばした話の続きを聞きに来たんだ。茶請け話に聞かせてくれないか」

「は、はい」

 欧陽玲はまだ少し緊張しながら、皇帝とひざを突き合わせて小さな机案(テーブル)についた。

 ただ、湯気の立つお茶の良い香りほんの少し玲の緊張をほぐた。そして、乾いた口中を湿らせると玲は話し始めた。

「雪瑜が話したのは、私が生まれるまでのいきさつでございましたね。その後、私は劫州橘門(きっと)県の欧陽家に生まれました」



 欧陽家は地方の豪族であり、生活に苦労する家柄ではなかったが、白猿の種から生まれた欧陽玲は、一族から冷顔を向けられた。

 親族の集まりで、玲の存在自体が家門の恥、人知れず始末すべきだという声は、幾度となく挙がった。

「ならん。それはならん」

 玲の義父である欧陽乙は、そういった意見を頑として受け付けず、必死に血の繋がっていない娘を庇った。

 欧陽乙の心情を言えば、これは玲に対する愛でなく、妻・楊氏に対する愛から出た行為だった。

 白猿から救い出された後の楊氏は精神的に不安定になっており、しばしば自傷行為に走った。

 だが、そのような思考の混乱の中にあってさえ、楊氏は玲を愛していた。

 毎夜、夜泣きする玲を宥め、愛おしそうに抱いて乳を与える楊氏を見て、玲を殺せば妻も首を括って死ぬだろう、と欧陽乙は考えた。

 それに、玲になんの罪があるというのか……。

 殺すには忍びない、と欧陽乙は母子を見守った。


 玲にはまた兄と姉が一人づつおり、欧陽乙は兄妹を分け隔てなく育てたつもりだった。

 しかし一族の大人たちの態度を感じ取っていた玲は、どこか寂しげで、控え目な子供に育った。

 兄や姉、その他の欧陽家の子供と遊ぶより、田畑の横で下男や下女の子供と遊ぶ方が多かった。


 そして玲が五歳の頃、欧陽乙が命を賭して白猿から取り戻した楊氏は、病に倒れ呆気なくこの世を去った。

 妻の喪に服していた欧陽乙に耳元に、またあの言葉が囁かれた。

「もうよいだろう。玲を殺せ」

 妻を亡くして意気消沈している欧陽乙は、この言葉を撥ね退けるのが難しくなっていた。

 そもそも、玲をこれまで生かしていた大きな理由は、楊氏の為である。その楊氏がいなくなったとあっては……。

 妻を拐かした白猿への憎しみ、一族の面子、しかし同時に玲こそが妻の忘れ形見という事実。

 様々な感情の板挟みとなり、懊悩する欧陽乙の前に爽やかな声を上げる者が現れた。

「不憫な……幼子の玲になんの罪があるというのですか」

「おお、宗仁(そうじん)か」

 顔を上げた欧陽乙の前に居たのは、宗仁という男だった。戦場で轡を並べ、共に山野を駆けて白猿を討ち取った配下の一人である。

 宗仁の顔には、戦場で負った生々しい向こう傷があるが、厳つさより清廉さが勝る雰囲気を持った男だった。

 まさにこのような思い悩むとき、声が聞きたくなるような男だった。

 思わず、欧陽乙は宗仁に弱音を吐露した。


「さて、そこよ。玲には何の罪もない。しかし……」

「しかし?」

 欧陽乙は二の句を告げる代わりに目を伏せて視線を外した。

「……わしはどうしたらよいか、もう分からなくなってきた」

「将軍」と宗仁は澄んだ声で言った。

 この時点の欧陽乙はすでに将軍職を解かれ、州刺史の属官になっていたが、いまだに宗仁は欧陽乙を将軍と呼ぶ。

「差し出がましいかも知れませんが、提案があります」

「なんだ? 聞かせてくれ」

「……もし、お手元に玲を置くのが難しいというのなら、私に預けるというのはどうでしょう?」

「お前が玲を引き取るというのか」

「はい」

「……養子か。それは……悪くない。いや、玲の為にはそれが最も良い選択かも知れん」

 玲の今後を考えるなら、冷淡な対応を取る一族の中に置くよりも、いっそ養子に出してしまう方が幸せ、ということは十分考えられる。

 だが、宗仁の考えは欧陽乙よりさらに踏み込んでいた。

「いえ、将軍さえよろしければ、玲を我が息子の妻としたい」

「なにっ」

 欧陽乙もこの発言には不意を突かれた。

「さて、お前の子は幾つだったかな」

「七歳です。玲とはそう違いはない」

「……なるほど。そこまで考えていたか」

 欧陽乙は顎髭を撫でた。

 一見両者は婚姻関係を結ぶには若すぎるが、これは童養媳(トンヤンシー)などと呼ばれる婚姻形態である。

 娘はごく若い内から婚家に入り、そこで育てられながら成人した後に、正式に婚姻を結ぶ、というものだ。

 嫁入りの際は結納金が支払われるため、相手の許嫁にする名目で娘を売り飛ばすという面があることは否定できない。

 だが欧陽家と宗家に限っては、そのような金銭的なことが目的ではなかった。

 欧陽家は金に困っていないし、宗家の当主、宗仁は信頼できる男である。

 家に入れた玲を奴婢の如く扱うような真似はしないだろう。

「わしとしては異存はない。だが、お前は本当に良いのか?」

 欧陽乙は念を押した。

「奇貨居くべし、ですよ。それに私は玲に大福の相を見ました」

「大福の相か。確かにあの妖怪も死に際にそんなことを言っていたな……。よし。では、決まりだ」

 こうして、欧陽玲は齢五歳にして宗氏に嫁ぐこととになった。


 宗氏の家にやってきた玲は、宗仁の息子である宗靖(そうせい)と兄妹のように育てられた。

 この養子縁組は玲にとって良い結果をもたらした。

 実家よりも大人たちの眼差しが柔らかいことに気が付いた玲は、やっと心が休まることができたし、何より玲と宗靖は馬が合った。

 玲は暇さえあれば宗靖という疑似的な兄の後ろに付いて歩いた。欧陽家では見られなかった光景である。


 宗氏は欧陽氏ほどの富家ではなかったため、当主の宗仁自ら田畑に出、野良仕事をすることがあった。

 その息子である宗靖も父に従い、玲も宗靖に従って泥にまみれた。

 時々、何をするにしても宗靖のあとを追うようにしている玲を見て、近所に住む子供らが二人をからかった。

「またあの二人べったりしてる」

「お前らはまるで夫婦だな!」

「宗靖は助平だ!」

 そういうとき、宗靖は必ず前に立って玲を庇い、

「やめろやめろ!」

 と、宗靖は子供たちに向って声を張り上げた。

 子供の戯言である。

 近所の子らにしろ玲にしろ、玲と宗靖の関係を知っているわけではない。

 ただし、玲は夫婦と言われると顔を赤くして、俯いた。微笑ましい恋心があった。


 玲が宗氏の家に来てしばらくすると、それまで主体性に欠けていた玲も、明確な意志を示すようになった。

 十歳を過ぎた頃、神妙な顔で玲が言い出したのは、苦難にあっても自分を生み育ててくれた亡き母を追慕するため、月に一度、近所の山に祀られている泰山府君の廟に参拝することを許して欲しい、というものであった。

「おお、見上げた孝心だ。構わんぞ」

 と、宗仁は笑いながら承認した。泰山府君とは、地下に眠る死者たちの処遇を司る冥府の神である。

 子供の足ではやや遠いとあって、初めのうちは宗家の下男と宗靖が玲に連れ添ったが、陽が長くなり、また道にも慣れてくると、玲と宗靖だけで参拝するようになった。


「私のワガママにいつも付き合わせてごめんなさい」

 ある時、いつものように二人で参拝している途中で不意に玲が言った。

「何を馬鹿な。俺はちっとも気にしていない。堂々と半日は家の手伝いから解放されるしな」

 と、宗靖は照れを隠して言った。本当は二人で出歩けて楽しくてしょうがないのだ。

 この頃の玲は、顎が細く腰も細い、将来の美貌を予感させる少女となっていた。

「ありがとう」

「今日はいい天気を通り越して、暑い。帰りに茶でも飲んで行こう」

 玲のありがとうを聞こえなかった振りをして、やはり照れ隠しに宗靖は言った。

「はい」と、玲は小さく頷いた。


 二人は泰山府君の廟に上がり、香を焚いて祖先と冥府神を拝んだ。

 その帰り、廟門の辺りで、今度は宗靖が切り出した。

「玲の方こそ嫌でないか?」

「何がですか?」

「結婚のことだ。聞いているだろ」

「あっそのことですか。承知しております」

「お前が嫌なら承知しなくていいぞ。父上がなんというか分からんが、玲が添い遂げる相手は玲自身に決めさせてやりたいと俺は思っている」

 玲は周囲を見てして、見知った顔がないことを確認してから口を開いた。

「勿論、勝手に相手を決められるのは嫌です」

「……」

 宗靖は表情を顔に出さないように努めていたが、傍から見れば面白いくらい動揺して、シュンと肩が下がった。

「けど靖ちゃんなら嫌じゃないです」

「本当か」

 宗靖は食い気味に声を上げた。

「はい」

「そうか……」

 宗靖がホッと息を吐くと、玲は寄りかかるようにわざと肩をぶつけた。

「安心した?」

「ん……」

 顔を赤くした宗靖はまともに玲の顔を見れなかった。

 この日は二人にとって、忘れ難い日になった。

 ただし、それはお互いの気持ちを告白したから、という理由だけではない。

 より大きな事件がこの後に起こったからである。



 風演は馥郁たる香りのするお茶を口につけ、僅かにざわついた胸の鼓動を鎮めようと努めた。

 ふっと息を吐き、なるべく玲が圧を感じないよう、冗談めかして言う。

「そなた結婚していたのか。私は一言も聞いていないぞ。皇帝だというのに、いつもこうだ! どいつもこいつも都合の悪いことは報告せん! 正直なのは玲だけだ! 老爺(じいさま)よ、お前は知っていたか?」

 風演の陰で気配を殺していた焦螟は、主の一言で突如実体を得たかのように、すっと顔を出た。

「拙めもそれは存じ上げておりませぬ」

「陛下、お待ちを。確かに私は宗氏の家で育ちましたが、結局、宗靖と結婚には至りませんでした」

「……なぜだ?」

「それは……雪瑜が現れたからでございます」

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