第五十二回 喧嘩宰相
伊宰相の謀叛の衝撃がまだ完全に収まらぬ中、月巧妃・玲の前に一人の少年が召し出された。
「あなたが護景の弟さんね?」
「はっ、はい月巧妃様。宇文 亮と申します」
玲に深々と叩頭した少年には、まだあどけなさが残る。年は十六、七といったところだろうか。
正直に言って、玲が宇文 亮に抱いた第一印象は頼りないというものだった。
宦官は男性的逞しさに欠ける者が多いが、それを差し引いても文弱の気性が見え隠れする。
「一々そんなに畏まらなくていいのよ」
玲がそう言っても少年はとても緊張した様子で、体を強張らせていた。
「楽にして。一々そんなんじゃ疲れちゃうわよ。仕事は一つ一つ覚えていけばいいから」
「は、はい。月巧妃様」
「ああ、それじゃまず一つ教えます。公の場所以外では私のことを玲と呼んで。月巧妃だと、もう一人の私と分かりづらいからね。みんなそうしてるわ」
「はぁ……玲様ですか」
「そうそう。知ってるかもしれないけど、もう一人は雪瑜っていうの」
玲は自嘲気味に鼻を鳴らした。
「おかしいでしょ? 一つの体に二つの心なんて」
「そんなことはありません! 玲様と雪瑜様のような例は五国雑俎や述荘記など複数の書に記録されています。これもまた乾坤の内、自然の一部なのです」
「ふふふ、物知りね。本が好きなの?」
「はい。僕にとって書を通じて古人の知識を得ることは何よりも変えがたい喜びです」
「玲様、玲様」
そのとき、玉蘭が面白そうに囁いた。
「雪瑜様がお呼びになるまで亮は翰林院に居たそうですよ」
「えっ? それは凄い」
翰林院とは正史や書物の編纂、詔勅の起草などを行う皇帝の秘書室のようなものであり、生まれの身分ではなく科挙の合格者によって構成される。
風演が私的に召し抱えていた庵室の学士の、言わば公的なバージョンである。つまり帝国屈指のエリートが集う機関だ。
下働きの宦官とはいえそこにいたということは、学識豊かであることは想像に難しくない。
「もしかして呼んだのは迷惑だったかな。もしそうなら遠慮なく言って元の部署に戻してあげる。雪瑜も反対はしないでしょう」
「いいえ。兄は常々学んだ知識は生かさねば意味がないと申しておりました。こうして玲様と雪瑜様に声を掛けられたのであれば、僕の持てるものを活かそうと思います」
「……」
そう語る亮の瞳の中に、第一印象を払拭する意外な力強さが見えた。
一見文弱に見える亮だが、両親を亡くし宦官となり……ここまで生き抜くまで相当の苦労を重ねている。その経験が亮に粘り強さを与えたらしい。
玲は護景も年の割には冷静沈着で老成していたことを思いだした。
「期待しているわ、亮。色々お願いすると思うからよろしくね。ここで何か分からないことがあったら玉蘭に尋ねなさい」
「はい」
同じ時期、雪瑜の関心は何よりも政治に集中していた。
玲が仙遊宮や後宮から離れなかったのに対し、雪瑜は体の主導権を握っている間は活発に外出した。
多くの場合、雪瑜の一日は次のようなものだ。
朝起きて身なりを整えると、まず亡母の廟に参拝する。その後は風演と共に朝議に参加した。
玉座の後ろに据えられたもう一つの玉座に座り、廷臣たちの議論に耳を傾けるのだ。雪瑜があえて言葉を投げかける機会は稀だが、何も反応しないわけではない。
議論が好ましくない方向に進むと、雪瑜は苛立ちを示すように扇子をパチパチと鳴らした。それで廷臣たちはいまの議論が月巧妃の意に沿っていないことを知るのである。御簾の向こうから扇子を弾く音が聞こえて来ると、議論の潮目は変化を強いられた。
朝議を終えた後は風演と向かい合って昼食を取るが、親愛を育む時間は意外にも少ない。
午後になると風演は仙遊宮で楽士、詩人、画家たちと芸術についての思索にふけるようになったからである。
一方、雪瑜は娘子将軍の衙に座り、官僚たちと今後の政策についてさらに深い話し合いを交わし、国家百年の計と言えるような長期政策から取るに足らないような人事まで、雪瑜は様々なことに首を突っ込んだ。
いうなれば風演は美の極致を知りたがり、雪瑜を巨大な帝国を支配するためその構造を知りたがったといえる。
お互いの欲望を存分に満たした後、二人は再建された嫦娥宮で相見え、互いの最後の欲望を満たした。
そのような日々がしばらく続いた後、一人の男が宮廷に召し出された。
名は、魏 高輔。伊 玄曹の前任の宰相である。背は低く、既に老境に差し掛かり、顔は皺でくしゃくしゃになっている。ただし動きは矍鑠としていた。
その魏 高輔が伺候に現れたとき、風演は少々気まずくなり、微妙な表情を浮かべる。だが、その隣にいた雪瑜はぱっと明るい笑顔を浮かべた。
小さな老人は叩頭し口を開く。
「陛下、お久しゅうございますな。この老骨、戻って参りました」
「ああ魏高輔。伊玄曹は聞いているな?」
「町人が巷で話す程度のことは聞いております」
「大方それで間違いない……伊玄曹はやってくれたわ。奴をお前の後釜につけたのは誤りであったよ。いや尚書令を変えたこと自体が誤りだった。許せ」
「なんと過分なお言葉……」
「またここで腕を振るってくれ。頼めるか?」
「我が君、私は老いました。もはや宰相の重圧は背負うことはできませぬ」
「ならん! ならんぞ魏高輔! まだ隠居することはならん!」
「しかしですな……」
「そうですよ、魏高輔殿」
二人のやりとりに雪瑜が割って入った。
「この危機に宰相を務められるのは、魏高輔殿をおいて他に居りません」
「これは、お初にお目にかかる、月巧妃殿」
頭を下げようとする魏高輔を手振りで制し、雪瑜はさらに続ける。
「前回、魏高輔殿が宰相に在られた時の働きぶりは音に聞こえております」
さらに雪瑜は一呼吸置いて声のトーンを上げた。周囲の高官にも聞かせる様にである。
「魏高輔殿がやろうとしていた農政、財政の改革は陛下も私も理解しているつもりです。今度は伊玄曹の如き不届き者に邪魔はさせませぬ。魏高輔殿、いまこそ実行のときでございます」
居並ぶ者たちに、無言のどよめきが走った。
高官たちは息を呑み、額を拭う音や衣擦れの音が発せられる。
この雪瑜の発言によって、一度は立ち消えになった魏高輔の新法が蘇ったのである。ざっくり言えば、それは既得利権に切り込み、名門貴族、そして各地の富豪・豪族たちを厳しい立場に追いやる法だった。
しかも今度は反対派の首領格であった伊玄曹は居らず、声高に反対を唱えれば伊玄曹の同類……反乱者と見做すことをほのめかしている。
もし、魏高輔がここでやると言えば、それを止める手立てはない。
周囲の視線は一斉に魏高輔に注がれた。
「我が君……」
魏高輔はそれだけ言って厳粛に頭を下げる。
「……死ぬ前の最後の奉公、仕る」
受けた……!
高官たちは内心苦い表情を浮かべ、逆に風演は安堵の表情を浮かべた。
「その言葉を聞いて安心したぞ、喧嘩宰相。あまりに殊勝な態度をとるものだからヘソを曲げているのかと思った」
魏高輔は歯を剥くようにして笑みを浮かべる。
「へへへ。それは少し脅かしてみただけですよ。しかし、皇帝陛下、やれと言えば、わしゃあ徹底的にやりますよ、いいのですか?」
「……構わん」
「よしきた!」
そこで魏高輔は振り返り、青い顔をした大臣たちに宣言した。
「聞いたかお前ら! 陛下のお許しが出たぞ! 振り落とされないようしっかり掴まってろよ、わしの船はいつだって荒っぽい航海になるからな!」




