第五回 初夜
閨を訪れた風演は、牀に腰を下ろし大きく息を吐いた。
「今夜は楽しかった。酔った酔った」
「雪瑜も陛下をお迎え出来て嬉しゅうございます」
媚態を作り深々と揖礼する雪瑜を見て、風演は言った。
「なあ雪瑜、閨でそれは止めにしないか」
雪瑜は意味が分からない、という顔をした。
「堅苦しいのはという意味だ。臣の見ている前でなら仕方ないが、誰も見ていないところで鯱張るのは煩わしいだけだ」
「そう申されましても、困りまする」
「お前がそうやって下手に出る姿は、できれば見たくない。今夜の舞も、初めて会った時の口上も、お前は実に堂々としてたじゃないか。あの姿が私を射止めたのだ」
そう言われて雪瑜は風演の顔をまじまじと見た。
皇帝という仮面を取った風演は、年相応の、どこにでもいる普通の男に見えた。
都にいる垢ぬけた少壮の男といった風情だ。
玉座の上で君臨している絶対者の威厳はそこにはない。
もしかしたらそんなものは幻想で、ただ彼は人に望まれている姿を演じている役者にすぎないのかも知れないと、雪瑜はこのとき初めて思った。
だが、例えそうであっても、雪瑜にとって風演は特別な存在だった。
「そう言われても、私こそ陛下に心底惚れこんでいます。あのような無礼な態度は二度とは……」
「無礼な態度を取れと言っているんじゃない。ありのままのお前を見せてくれと言っているのだ」
「しかし……」
「頼む」
「……分かりました」
雪瑜はやや狎れた口調で言った。
「陛下がそう仰るなら、なるべくそうしましょうか。では、陛下……」
「なんだ?」
「許されるのなら大家(旦那様の意)とお呼びしてもよろしいか?」
「ふ、私は構わぬよ」
「ありがとう、大家」
雪瑜は風演の隣に座り、一枚着物を脱いだ。
「ありのままの私が見たいと言われたな。それではお見せましょう」
そして二人は男と女となり愛を交わした。
交歓が終わり、雪瑜の横顔を見た風演は、雪瑜の頬に雫が垂れているのを見た。
「なぜ泣く? 雪瑜?」
「えっ」
風演に言われて、雪瑜は自分が涙していることに気が付いた。
「あっ。こ、これは……」
「どうした?」
「これは私が泣いているのではなく、玲が泣いているのです」
「欧陽玲が? なぜだ」
「それを言えば大家が不快に思う。だから言えませぬ」
「構わん。言えよ」
「やっ。しかし……」
風演は無言で雪瑜に口を開くよう促した。
やむを得ず、雪瑜は胸にしまい込んでいた欧陽玲の秘密を明かした。
「……玲には好いた男がいるので、その男のことが引っかかっているのでしょう」
「そうか……」
意外にも風演は妬心ではなく、玲への同情を見せた。
「それは悪いことをした」
「なんにも悪いことはありません。私は大家一筋だと言ったはず」
「……一つの体に二つの心か。難儀なことだ。そして実に不思議だ。念のために聞くが、お前たちの実父が猿神というのは本当なのか」
「本当です。実父に会ったことはありませんが、そう聞いています」
「お前たちのことをもっと知りたいな。教えてくれないか」
「では寝物語に一つ、私たちの生い立ちを話しましょうか」
風演の胸に埋まって、雪瑜は語り始めた。
「私が生まれる少し前、義父の欧陽乙は、任地で起こっていた乱の鎮圧に奔走していました……」
州刺史が率いる官軍は、三度の戦いの末に反乱軍を打ち砕いた。
その後、敗走した賊徒が逃げ散ると、州刺史は諸将に兵を割いて、これを追わせた。
欧陽乙もそうした将の一人で、山間に逃げ込んだ賊を追い、彼もまた険阻な山々へと足を踏み入れた。
山に潜む賊の残党狩りは官軍の精根を試すような困難さだったが、欧陽乙と彼の部下は従軍によく耐え、賊を踏みつぶしていった。
追討戦は半月以上にも及び、夫の身を案じた欧陽乙の妻、楊氏は陣中の夫を見舞うことにした。
楊氏の顔を見た欧陽乙は、荒んだ従軍生活の中に思いがけず現れた花に顔をほころばせた。
だが、部下の一人が欧陽乙に警告した。
「将軍、某はこの近くの生まれですが、昔からこの辺りの山には美しい女を攫う魔物が潜んでいると伝えられています。お気を付けなされ」
「おう。その話は私も聞いた。だがあれはもう薹が立っているし、魔に魅入られるほど美しくはあるまい」
欧陽乙はそのように、半ば冗談めかして言ったが、魔物はいなくても軍事行動中ではあったので、婦人は早々に帰らせることにし、その晩は楊氏の泊まる陣屋に見張りの者五名を配した。
しかし、悲劇は起こった。
明朝、欧陽乙が楊氏の元を訪れると、楊氏は忽然と姿を消していた。
見張りの者たちは、間違いなく誰も訪れていないと口を揃えて言う。
──もしや、この五人が共謀し、楊氏を隠したのか。
欧陽乙そういう思いがないでもなかったが、これまで苦楽を共にし、自分によく仕えてくれた者たちばかりである。
すぐに欧陽乙はその考えを打ち消し、部下を信じることにした。
だが、五人の仕業でないとなると、まさしく怪事件であった。
欧陽乙は地を叩いて嘆いた。
その後、欧陽乙は部下たちの前で追討戦の完了を宣言した。
もとより反乱の主だった幹部はすでに捕らえるか斬っているので、それ自体は妥当な判断であった。
「だが、このまま帰る事は出来ん」
欧陽乙は、この地に留まり妻を探すことにした。
部下たちは解散させたが、三十余名の者が将軍の妻君を探すため自らの意思で残り、欧陽乙に随従した。
一月後、人跡絶無の深山に乗り込んだ欧陽乙と部下たちは、ついに魔物とその塒を発見した。
欧陽乙はすぐにでも突入したかったが、心胆から溢れ出すような、逸る心をグっと押さえこんだ。
ここでしくじっては、九仞の功を一簣に虧く。(積み重ねた努力も、最後の僅かな失敗で台無しになる、の意)
そう考え、魔物が塒に入っていくのを確認し、十分に周囲の様子見をした上で、機を待った。
将としての欧陽乙は戦いの最中にあっても冷静さを保ち、極めて堅実な戦いをする男だった。その資質を物語る逸話である。
欧陽乙は魔物の塒となっていた洞窟の入り口の周辺に兵を伏せ、一晩待った。
雪瑜がそこまで語ると、風演が呻くように喉を鳴らした。
「欧陽乙がそこまで辛抱強い男だとは知らなかった」
「義父は不屈の心を持っています」
と、風演の前で雪瑜は義理の父を持ち上げた。
雪瑜はただ昔話をしているのではない。
風演を楽しませながらも、他に目的があることは明白だった。
そして雪瑜は再び語り始めた。
欧陽乙が辛抱していた時間に比べれば、戦いは一瞬で決まった。
明くる日、魔物が洞窟から姿を瞬間、弾かれたように矢が放たれた。
数十本の矢が放たれたが、見事に魔物に矢を当てたのは五名。
欧陽乙の腹心である孝廉の人、宗仁。
戦場で常に先陣を切る豪傑、馬炎。
馬を巧みに操り、騎馬、御者の技に長ずる、霍高佐。
崑崙奴(南方地方出身の黒い肌をした奴隷)あがりの、怪力無双の勇士、令蛮。
欧陽乙の大叔父であり老練の武人、欧陽周。
以上の五人だ。
矢を浴びた魔物が驚いて怯んだ瞬間、欧陽乙が怒号と共に躍り出て、白刃を振るった。
魔物の正体、それは白い毛並みを持つ、巨大な猴であった。
「うぎゃああああああああああ!」
猴の王は耳をつんざく声で絶叫しつつ、欧陽乙に覆いかぶさるように飛び掛かった。だが、手負った猴の爪よりも、欧陽乙の剣の方が僅かに速く、本懐を遂げた。
「妖怪! 討ち取ったり!」
自分の腹に深々と刺さった剣を見て、猴の王は愕然と目を見開いた。
しかし、やがて観念したように深く息を吐くと、王らしい尊大さを取り戻し、自分を手に掛けた人間に向って言った。
「なにゆえにわしを殺す、人間よ?」
「なにゆえだと! 人の妻を奪っておいて言う言葉がそれか、化け物!!」
「なるほど、楊氏の夫か。ならばこれは天譴(天の咎め、天罰)というわけだ。きっとそうに違いない。そうでなければ、どうして人間が険阻にして虎狼の跋扈する我が洞まで来れようか。天がわしを殺したのだ。決して人間ではなく……」
「この期に及んで言う事がそれか。傲慢な猴め!」
「左様。わしは傲慢であった。だから、こうして死ぬのだ。わしの死を戒めとするがいい……お前の妻はわしの子を孕んでいる」
「なんだと!」
欧陽乙はかっと目を怒らせた。
「その子を殺すな! 齢千年にして、初めて生まれたわしの子だ。その子の為にわしは死ぬ。生かしておけばお前の家は興るだろう。だが殺せば、貴様にも天譴が下ろうぞ! 必ずや、天の咎めが……」
猴の王はそこまで言うと、血を一斗も吐いて死んだ。
語り終えた雪瑜はふーっと息を吐いた。
「これが私の生まれたいきさつです。お楽しみいただけたかな、大家」
「ああ。しかし、これは正しくはお前のことではなく、お前が生まれる以前のことだ。私はお前の話が聞きたい」
「ふふ」
雪瑜は蠱惑的な笑みを浮かべた。
「一度に全部話してしまっては、大家は私の元に来てくれなくなるのではないか? 続きはまた明日……玲に話させましょう」
「そうか……それも、そうだ……」
やがて皇帝は目を閉じて、すやすやと寝息を立てた。
雪瑜はその唇にそっと口づけをした。
「おやすみ大家。その掌に世界を載せる人……」