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第四十八回 闇夜に飛ぶ鴉

 伊玄曹は宿を貸し切り、馬にはたっぷりと飼葉と水を、自分についてきた兵には酒を振る舞い英気を養わせた。

 そして風閲にも安心させるように食事と菓子を与えながら言い聞かせる。

「風閲様あと少しの辛抱ですぞ。細嶺に着いたらもう安心でございます。その細嶺はあと一息のところゆえ」

「は、母上は無事だろうか?」

「孝淑妃様もきっとご無事でございます。再び巡り合うためにも風閲様も決して諦めぬよう」

「うん」

「ははは、その意気ですぞ」

 言いながら伊玄曹自身も酒を煽る。

 皇帝を襲撃した後でこれだけの豪胆さを見せるのは、彼が握っていた権力がいかに大きなものだったかを物語っている。

 そして実際伊玄曹が予想した通り、各関所への早馬と伊玄曹を追う追跡隊は都からようやく出発したばかりであった。

 巨大な帝国の動きはその巨体ゆえに鈍い。

 が、昭国を知り尽くした伊玄曹にも想像しえない動きが、伊玄曹が知らぬ間に起こっていた。


 伊玄曹たちがしたたかに酔い、ついに寝静まった頃。無数の黒い影が宿屋を取り囲んでいた。

 印象的な黒衣の装束。その姿から彼らは鴉兵と呼ばれている。

 彼らは西域二州に跨って節度使を務める石豹将軍の配下。帝国最強と名高い精兵である。

「抜かるなよ、蟻一匹逃がすな」

「はっ! 裏口も完全に塞いでいます! もはや謀反人どもは袋のネズミですぜ!」

「よし」

 鴉兵を率いる宗靖は、突入の準備ができたことを確認すると、鍾馗の仮面を被った。

 鬼を食らう喫邪(シーシェイ)となった宗靖はよく通る澄んだ声で命令を下した。

「行くぞ……伊玄曹と風閲様だけは生かして捕らえろ。残りは、殺せ」


 ドカァ!

 宿屋の扉を蹴破って鴉兵たちは宿屋に殺到した。

 伊玄曹を守っていた兵のうち多くの者は床から起きることもできずに斬られた。

 疲労と酒で眠りが深くなっていたこともあるだろうが無様な結果である。

 物音に気付いた数名は戦おうとしたものの、結果は殆ど変わらず、抵抗らしい抵抗をする前に斬られた。

 逃げようとした者もいたが、やはり斬られた。

 宗靖は迅速に死を振りまきながら、奥の間へと進んでいく。

 乱暴に最後の戸を開けると、風閲を抱きかかえた伊玄曹がいた。

 その手には匕首が握られている。

「来るな、太子が死ぬぞ!」

「風閲様は確かに陛下の息子だ。しかし太子であるとは初耳だぞ」

 宗靖は構わず歩を進めた。伊玄曹は匕首を風閲の首筋に突き立てた。

「寄るなと言っておろうに!」

「人質か。位人臣を極めた男にしては見苦しいことだ。こんなことをして何になる? 貴様はもう終わりだ。せめて最期は貴人に相応しい振る舞いをしようとは思わんのか」

「黙れ! わしは諦めんぞ!」

「無理だ、潘国公。長く高みにあったせいだろうが、この期に及んで貴様は自分を無敵だと勘違いしている。それでは何度やっても石将軍には及ばん」

「胡人の狗がぬけぬけと!」

「ふっ。知っているか潘国公。お前が胡人と侮るその方はな、お前の考えなど全てお見通しだ。俺の声に聞き覚えはないか?」

「なに?」

「九つの命得る者、即ち天命を得たり」

「それは……貴様あの時の……!?」

「こうしてつついてやれば、潘国公は必ず何かを仕出かすだろうと石将軍は仰っていたぞ。実際その通りになったな」

「な、な……」

 伊玄曹は愕然とした。

 知らぬ間に自分が石豹に操られていたことを思い知ったからである。

 確かにあの時の曲者の言葉がきっかけで、自分は皇帝をすげ代えることを決断した。

 そしていま、捜索隊は自分に追いつけぬはずが、予想より遥かに素早く動いていた石豹の鴉兵に囲まれている。

「まだまだあるぞ。貴様が後宮から逃がした娘……天香妃の居場所は既に把握してる。いや今頃はもう捕えられているかもな」

「なっ……そんなはずは──」

 伊玄曹が我を忘れた瞬間、宗靖は小さな飛刀を投げつけていた。

 飛刀は伊玄曹の脇を掠めただけだったものの、一瞬伊玄曹の注意が逸れる。そして宗靖にはその一瞬で十分だった。

 瞬く間に間合いを詰め、伊玄曹が風閲に凶刃を突き立てる前に、匕首を握る腕を掴む。

 そうして二人が揉み合いになっている間に、風閲は突き飛ばされた。

「うぐっ」

 風閲が床に突っ伏したのとほぼ同時に、ドンッという音がして、伊玄曹が床に押さえつけられていた。

 さらに何かが砕けるような千切れるような嫌な音がした。

 宗靖が伊玄曹の右肘と右肩の関節に負荷をかけ破壊したのである。

「あがぁぁぁっ」

「伊玄曹、捕えたり」

「く、く、く、お、おのれ……!」

「自業自得だ。そんな目で睨むな、潘国公。だが、お前は死を免れないだろうが、その血筋はいましばらく生き永らえるだろう……少しは感謝しろ」


 伊玄曹が捕らえられたのと同じ頃。

 宗靖の言葉通り、姿をくらませていた天香妃と彼女を守るカラブランも襲撃を受けていた。しかし、それは石豹の手勢ではなかった。

「おのれ、貴様ら何者だ!」

 カラブランは男たちと対峙しながらも気丈に振る舞った。その両手には剣が握られている。

 兄のクリシュほどではないにしろ、彼女もまた十分に剣の鍛錬を積んでいた。

 そしてその背後では腹を膨らませた天香妃がブルブルと震えながら相手を罵る。

「こ、この、私を誰だと思っている無礼者どもが!」

 殺気立つ女たちと対照的に、謎の襲撃者たちは不気味なほど冷静に振る舞う。

「勘違いしないで欲しい、と言っても無理な相談だが、我々はあなた方を殺しに来たわけではない。むしろ助けに来たのだ」

「無理やり押し入っておきながら助けに来ただと!? ふざけおって、貴様らの飼い主は誰だ! 石豹か! 月巧妃か! それとも焦螟か!」

「どれでもない。押し入ったのは時間がなかったからだ。潘国公が謀反を起こして失敗したのは知っているな? お前が言った石豹の手勢がもうすぐここにやってくるぞ。急いで逃げなければならん。我々についてこい」

「なっ!」

「殺すなら二人ともとっくに殺している。疑うのはもっともだが、いまは信じてほしい」

「き、貴様ら本当に何者だ!?」

「それもおいおい話す。さて、どうする? 自分の意志で付いてくるか、抵抗して無理やり連れ出されたいか……後者はお勧めしない。妊娠している天香妃様のお体に障るだろう。御子が流れるかも知れないぞ」

 カラブランは分が悪いことを悟り、剣を収めた。

「ちっ……」

「カラブラン、騙されるでないぞ! こ奴ら我らを消すつもりだ!」

「お嬢様、この場では戦えませぬ。しばしご辛抱を」

「カラブラン!」

「……申し訳ございませぬ」

 カラブランは静かに主人に対して頭を下げた。

 だが、顔を上げると男たちに対して鋭い目を向ける。

「どこへ行くつもりだ」

「ひとまずは我々の拠点に。その後のことは状況次第だ」

「安全な場所なのだろうな」

「無論だ。さあ急げ、鴉兵の足は速いぞ!」

 それから半日と経たぬうちに、鴉兵が天香妃の隠れ家に踏み入ったが、既にそのそこはもぬけの殻だった。


 部下から報告を受け取った石豹は、西域より遥か彼方にある神都の方を向いて嘆息する。

 天香妃は取り逃がしたか……。

 わしが張り巡らした網にも引っかからぬとは、大した娘だよ。

 いや、それとも別の理由が……?

 まあ、伊家はこれから相当叩かれて弱体化するはずだ。娘一人放っておいても害はあるまい。

「ふー」

「どうなされました、将軍? 溜息などして」

 石豹の愛妾が腰をくねらせながら、石豹に抱き着く。

「首の皮が繋がったことに安堵しているのだ。わしを殺そうとしていた毒蛇が一匹死んでくれたのでのう」

「まあ。それはおめでとうございます」

 都では神謀と称えられ、謀反の一件を全てを見通しているように思われている石豹だが、本人にしてみればそれほど安泰ではなかった。

 伊玄曹が勝ち、幼帝を立ててさらに権力を握り、自分を誅殺する可能性も十分にあったのだ。

 終わってみれば圧勝だが、危うい場面は何度もあった。全く逆の結果になってもおかしくはなかったのである。

「ふふ、運よ運。人の力ではどうしようもないこともある。人事を尽くせばあとは運で決まる。そして、わしは運が良いのだ!」

 そういって笑いながら、石豹は愛妾を腕に抱き、優しく女を組み敷いた。

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