第四十七回 遁走
「おおっ! 雪瑜!!」
風演は愛妃の姿を見掛けた途端、声を上げて立ちがあった。
さらに護衛の制止すら振り払って、雪瑜のもとに駆け出していく。
「ち、血塗れではないか! どこか怪我をしたのか!? すぐに手当てをしてやる。待っていろ、いま医者も薬師も呼んでやるからな! おい何をしている! 早く月巧妃の手当てをせい!」
「大家、この血は私の物ではございませぬ。雪瑜はどこにも怪我などしておりません」
「ほ、本当か!?」
「はい」
「よ、よかった……」
相手に怪我のないことを確認すると、風演はいつも以上に強く、雪瑜を抱きしめた
「玲が突然方向を変えたときは肝が潰れたぞ……」
「心配をかけて申し訳ありませぬ。しかし、これも大家の為にしたこと。どうか玲を責めないでください」
「よいよい。それはもうよい。だが、お前たちがいなくなってしまえば、私も生きている甲斐がない。二度としてくれるな」
「よく聞かせておきます」
そのまま風演はしばらく雪瑜を抱きしめていた。
やがて愛妃が幻などではないとようやく納得すると名残惜しそうに体を離す。
「本当によく無事だったな。だがお前ならきっと玲を助けてくれると信じていたぞ」
「大家……」
そのとき、皇帝は愛妃の顔がやつれているように見えた。
無論死地を越えてきたのだから、血の気が失せていてもおかしくはないが、どうやらそれが理由ではないらしい。
そのわけは涙ながら雪瑜が語った。
「玲を助けたのは私ではありません……護景が、私に仕える宦官がやりました。自らの命と引き換えに……う、う、う……」
「護、景? お、おう、あの若者か。私も何度か見掛けたぞ」
「見事な、見事な最期でございました。あの者がいなければ私も今頃どうなっていたか分かりません。どうか厚く弔ってやってください。どうか……」
「そうか。そうか。分かった。分かったぞ、雪瑜。その者を大いに称してやろうぞ!」
「大家」
涙を拭うと、雪瑜の眼はいつも以上に燃えていた。
「この騒ぎを引き起こした者は誰なのか、分かっておりますか?」
「まだ、はっきりとは分からぬ。かなりの数の者が関わっているようだ。だが風閲の傅である王紹が企ての中心にいたことは確からしい。そして王紹をさらに操る者がいるとしたら、恐らく潘国公・伊玄曹だ……!」
「このようなこと、二度とあってはなりませぬ。誰であろうと、決して、決して、決して許してはなりません!」
「無論だ。もしも潘国公が関わっているのならば……皇帝の威信をもって伊家を叩き潰す」
宵闇の内に全ては片が付く。
夜の帳が起きている間は状況の把握が難しい。
大半が皇城の外にいる金吾衛の兵が皇帝の加勢に回り参戦するのは夜が明けてからだろう。
猶予は十分にある。
このために数か月も準備を進めていたのだ。
暁の光が差す頃には月巧妃は死に、皇帝は再び自分の手の中にいることだろう。
そのような伊宰相の目論見は崩れ去った。
不意を突いた襲撃は当初成功したと思われたが、皇帝は死地から脱出し、新生した羽林軍が皇帝の玉体を保護した。
雪瑜が作り替えた羽林軍は突然の奇襲に対しても、機能的かつ頑強に抵抗したと言える。
羽林軍はもはやお飾りの兵隊ではなく、本物の近衛兵となっていた。
だが、それだけなら数で勝る反乱軍は、いずれ羽林軍ごと皇帝を包囲し、殲滅して目的を遂げることもできただろう。
伊宰相が読み損ねた第二の、そしてもっとも重要な誤算は、皇城外部に存在する官兵の動きの早さである。
つまり神都内の治安を守る兵が奇襲に素早く反応し、逆に反乱軍を包囲したのである。
この電撃的な動きの背後には石豹将軍の存在があった。
万里を隔てた西域に居ながらにして神都の不穏を察した石豹は、早馬を用いて都の劉幹将軍に書状を送り、自らが感じた違和感を警告した。
この書状は反乱の数日前に劉幹の手に渡っていた。
劉幹自身は何かが起こるとなど半信半疑であったが、念の為に金吾衛と連携し夜間の警戒を強化させていたところ、反乱が起こったのである。
その為、通常よりも遥かに増員され、統率も強化されていた人員が反乱の鎮圧に向かうことができたのだ。
驚いたのは劉幹である。
騒ぎが本当に起きたとき、彼は石豹の神謀に舌を巻いた。
「ぐぐうっ……」
狂騒は鎮静化に傾いていた。
もはや奇襲の効果は途切れ、皇帝の周囲はがっちりと羽林軍が固めている。その上、皇帝の元に馳せ参じる兵隊は刻一刻と増えている。
伊宰相は恐怖を紛らわせるように周囲に怒鳴り散らした。
「クリシュはまだか! 一体どこで何をしているのだ!? あの胡人の兄妹めが、肝心な時に役に立たん!」
共に謀に参加した貴族官僚の一人が恐る恐る口を開く。
「宰相殿……もう限界だ、ここは一旦退いた方がよいのではないか」
「たわけがぁぁぁぁ! 退いてどうするというのだ! どこに逃げるというのだ!」
伊宰相は弱気を発した貴族の胸倉を掴み地面に引き倒した。
「恥を知れ、恥を! よいか、我らは陛下を惑わす佞臣を除き、政道を正す為に立ったのだ! 己の身命などもとより考えてはおらぬわ!」
「う、う、しかし……」
「我らはこれより死地に入る! 逃げたい者は逃げろ! 正義を為したいものだけがここに残れ! だが、わしは決して逃げぬぞ!」
伊宰相は墨を持ってこさせ、貴族たちの前で壁に遺書とも檄文とも取れる言葉を書きつけた。
『昭の腸を食い荒らし、肥え太っている佞臣がいる。君の目を惑わし耳を塞ぐ姦婦がいる。焉んぞ立たざるはなし。昭の天徳、尽きること勿れ』
伊宰相はさらに矢の届く範囲まで出張って、兵たちを激励して回った。
「昭の命運はここに在り! あと少しだ、皆の者奮戦せよ!」
実に勝手なものである。
伊宰相たちは傀儡の皇帝が自我を持ちだしたから思い知らせてやろう、場合によっては天子の首を挿げ替えてやる、というのが目的だったはずだ。
戦う兵たちにしても同じこと。華やかな羽林軍を首になり、さらに罪を得て辱めを受けた怨みが彼らを戦いに駆り立てたはずだ。
しかし戦況が悪化し追い詰められたここに来て、彼らは自分たちを高潔な義士と思い込もうとしているのである。
もっともこのような苦境に立たされて、なお自らの非を認めぬ場合、人間がこのような反応を示すのは珍しくない。
自分が戦っているのは私事の為ではない、国家の為である。そう認識を歪め自己を正義の側に、敵を悪の側に立たせるのだ。
実際のところ、この認識の歪みによって多少なりとも戦意が盛り返すという効果はあった。
失敗に終わりつつある反乱の、最後の熱狂である。
幸か不幸か、乱の首謀者である伊宰相はそんな認識を持てるほどには愚かではなかった。
彼は前線で檄を飛ばしながらも、勇壮と思われた十五人の兵を引き抜いて後方に戻ると王紹を呼んだ。
「風閲様をここで死なせるわけには行かぬ。脱出させる故、厩へ連れてきてくれ。私は先に行って準備する」
「わ、分かった」
王紹が風閲を連れてくる僅かな間に、伊宰相は馬を用意し、引き抜いた十五人に与え、自身もそのうちの一頭に跨った。
風閲を連れて王紹がやって来ると、既に強壮な騎馬武者の一隊が出来上がっていた。王紹はあまりの手際の良さ思わず吹き出した。
「流石伊宰相だ! 用意が良いな!」
「……」
伊宰相はにこりともせず、無言のまま風閲の手を引いて、自分の前に座らせた。
風閲は不安そうにしながらも、されるがまま馬の背に跨る
王紹がキョロキョロと周囲を見渡した。
「私の馬はどこだ?」
「そんなものはない」
「何っ!?」
そのとき王紹は伊宰相の冷たい目に気付いてぞっとした。
「その方は風閲様の傅であろう。これより身をもって皇子を守るのだ」
「伊宰相殿! 冗談が過ぎまずぞ!」
「冗談などではない。そら皇子が見ているぞ。見苦しい真似はやめよ」
「き、貴様、自分だけ逃げるつもりかあ!」
「違うな。風閲様を逃がすのだ。さらば」
「伊……伊玄曹、貴様ァァァァ!」
王紹の恨み言を尻目に、十六騎がそっと皇城から離脱した。
深夜に始まった皇城での攻防は、正午までに完全に決着がついた。
一時は皇帝の生死もあわやという場面があったものの、異変に気が付いた羽林軍の一部が血路を開いて皇帝を確保救出に成功。
その後は廟堂を本陣としてがっちりと守備を固めた。
反乱軍はなんとか羽林軍の防備の突破を試みたものの、完全に突き崩すには至らず戦場の動きは硬直。
両者ともどう転ぶか分からない危うい均衡の中、流れを変えたのは金吾衛が率いる衛士たちの参戦だった。
衛士たちが反乱軍の背後を襲い、期せずして挟み撃ちの形になった反乱軍は動揺し、一気に瓦解を始めたのである。
こうして皇城を騒がせた反乱は鎮圧された。
乱の首謀者は当初幼帝を担いで皇帝を害そうとした王紹と見なされたが、彼の姿は死体となって発見され、共にいるはずの皇帝の息子風閲の姿はいずこかへと消えていた。
反乱が鎮圧されてから数日後、乱の本当の首謀者である伊宰相……否、宰相職を解かれた伊玄曹は、神都から遠く離れた場所を馬で駆けていた。
まだ巻き返せる。まだ……。
このような事態になっても伊玄曹は生きる術を模索していた。彼に諦めるなどという発想はない。
古来より続く名門、細嶺の伊家の本貫地である細嶺に戻り兵力をかき集め、さらに特別に下賜された食邑・潘国とその周辺の勢力を糾合すれば、皇帝の軍勢とて恐るるに足らん!
そうとも。色と酒と音楽に耽るだけのあの愚図が、わし以上の兵力を集められるはずがない!
手配が出回るよりも早く細嶺にたどり着くことができれば……。
抑えがたいほどの焦りを感じつつも、伊玄曹は涿泉という町で騎馬に停止を命じた。
彼らの乗る馬は皇帝の厩から盗んだ名馬たちだったものの、数日に渡る強行軍によって既に限界を迎えつつあったのである。
細嶺まであと二十里はある。今の状態では馬を代えることは難しい。ならばここで馬を潰すわけにはいかなかった。
一晩、馬たちを休ませねばならないという判断である。
馬から降りた伊玄曹は堂々と自分が昭国の宰相、伊玄曹であると名乗り涿泉で宿を取った。
傲慢とも思える行動だが、伊玄曹にはまだここまでは手配書が出回っているはずがないという自信があった。
尚書令として長く巨大な帝国を運営をしていた伊玄曹にとっては、帝国が動くスピードの限界を知り抜いていた。
国の首脳が緊急事態だといくら騒いだところで、都から離れれば離れるほど、身分が下れば下るほど、その反応は鈍くなる。
大抵の兵はやる気などないのが普通。遠く離れた都で雲上人どもが何か騒いでも、知ったことではない。
末端の彼らが最も強く望むことは、面倒が何も起きないことだ。
そんな彼らを可能な限り素早く動かすには、一種のコツがいる。
命令とは一度下したらあとは何もせずとも実行されるものではないのだ。
いま都にいるボンクラどもにそれが分かるはずがない!
逸る気持ちを抱えながらも、あくまで伊玄曹は大胆不敵であった。




