第四十五回 血風
「まだ曲者どもは玲様が陛下と別れたと気付いておりません。いまなら間に合います!」
「しかし、私が敵を引きつけなくては!」
「一人でどうやって時間を稼ぐおつもりですか! それに、夜が明ければ、異変に気付いた者たちが陛下の元に馳せ参じましょう。そうすればすぐに形勢は逆転します! さあ、戻りましょう、陛下がお待ちです!」
「しかし!」
ぎしっ、ぎしっ、ぎしっ……。
玲と護景が言い合っていると楼閣の階段が軋んだ。
ハッとして護景は剣を抜く。
四人の手勢を引き連れて現れたのは翠色の眼をした男だった。玲は玉のような瞳の輝きに覚えがある。
翠色の眼、まるでカラブランのようだ──。
玲はクリシュと初対面だったが直感的にクリシュとカラブランの間に血縁を感じた。
「臭う、臭う。どこに隠れていても、獣の臭いは誤魔化せんぞ。君を惑わす猿め」
クリシュが吐き捨てるように言うと、玲も負けじと言い返した。
強がらねば恐怖に圧し潰されてしまいそうだった。
「な、なにを! あなたたちこそ陛下に刃を向けた賊でしょうが! こんな真似をしてただでは済みませんよ!」
「どう済まぬというのだ、妖怪!」
「恐れ多くも月巧妃様に向って何たる言い草だ、無礼者め! 控えろ!」
護景が玲を守るように立ち塞がり、自分たちを取り囲む刺客を威嚇するがクリシュは護景ごと玲をせせら笑った。
「汚らしい宦官にしては立派な忠誠心だな」
「黙れ!」
護景は吠えたが五対一である。
もっともクリシュは戦いに参加する気はないらしく、少し離れて立っていたが、それでも四対一だ。
己に向けられる刃に神経を研ぎ澄まし、護景は出来うる限り四人を牽制し続けた。
右の敵が飛び出すそぶりを見せればそちらに刃を向け、左の敵の足音を聞けばぎろりと睨み、正面の敵に向けてはいつでも叩き斬るぞという気迫をぶつける。それでもなお、数の差はいかんともしがたい。
ジリジリと護景と玲は壁際に追い詰められていった。
右の敵が刃を振るう。護景は剣をぶつけて打ち払った。だが同時に左の敵も動いている。護景は返す刀で受けようとしたものの、振るわれた斬撃を受け損なって、右手の甲を刃が掠める。
「ぐっ」
僅かに怯んだ瞬間、冷たいものが護景の腹を刺し貫いた。
足元に血がとめどなく流れ落ちる。一瞬冷たいと感じた傷口は、あっという間に火のように熱くなった。
「玲様、逃げ……」
護景は口をパクパクと動かし、腹に刺さった剣を抱え込むようにして血だまりの中に膝を付いた。
「護景、護景!」
玲も血だまりの中に膝を付いて呼びかけたが、答えはない。代わりに見る見るうちに護景の顔から血の気が引いて、蒼白となっていく。
「さて、もう一度聞くか。どう済まぬというのだ、白猴?」
四人の兵が玲に迫る。
ただし、クリシュだけは嘲笑をしつつも踏み込むそぶりを見せない。
玲の中に眠るもう一つの人格を警戒したのである。時に雪瑜が異常な力を発揮することは何度も報告を受けていた。
結果的にその判断は正しかった。
炎が燃え上がるように、玲の眼が赤く染まる。
「貴様ら……よくも……!」
その声は玲よりも低く、違った人格の声色を見せている。
月巧妃の変身。
そのとき誰もが玲に注目していた……それゆえ更なる不測の事態が起こったとき、誰も咄嗟に動くことができなった。
玲から雪瑜への変身が始まったそのとき、黒く大きな生き物が窓から飛び込んできた。
楼閣は四階建てだ。その窓から侵入する大型の生物と言えばまず鳥類以外考えられない。だがそれは鳥ではなかった。
人である。
突如として侵入した黒衣の男は、獲物を襲う猛禽のように素早く獰猛だった。
直剣を振るい、あっという間に四人のうち三人を斬り伏せた。
不意を突いたこともあるだろうが、そもそもとして剣の技量が凄まじい。
残る一人の兵も一合、二合と黒衣の男と刃を合わせたものの、三合目は受けきれずばっさりと太刀を浴び、剣の露と消えた。
クリシュは目を見張った。
なんだこいつは!
変化しつつあった玲も、雪瑜を押しのけて目を見張った。
──靖ちゃん。
やはり近くに居た。
こうして顔を見るのは何年振りか。
再会したかつての許嫁は、思い出の中にある顔よりも凛々しく精悍になっていた。
ただし宗靖は玲を一瞥しただけで、それ以外はクリシュから視線を外さない。
声をかけることもしなかった。
「何者だ!?」
一方クリシュは警戒しつつ後ずさる。逃げようとしているのではない、時間稼ぎである。
自分が戦って負けるとは思えないが、雪瑜という不安要素も考えれば、万が一の事態もあり得る。ならば無理する必要はない。時が経てば味方がここに殺到するとの読みだ。
それを証明するかのように、近くで鬨の声が上がった。戦場がこちらに移動しつつある証拠だ。
「貴様がどこの誰かは知らんが、どの道、月巧妃はここで死ぬ。残念だったな」
宗靖はクリシュの考えを見透かしたように言った。
「いまのはお前の仲間ではない。都にいた金吾衛が駆けつけたのだ。伊玄曹の考えなど先刻お見通しよ。包囲されるのはお前らだ」
「大したハッタリだな」
「ハッタリなどではない」
「……」
「……」
二人は円を描くように動き始めた。そうしながらも、僅かな動きと体移動だけで互いを牽制する。
バチッ。
玲の目の前で、突如火花が散った。
眼前には自分に向かうクリシュの剣と、それを防ぐ宗靖の剣が出現している。
宗靖はクリシュの剣を跳ね上げると、地を這うように下段、すなわち相手の脛から足首を狙う。
クリシュは剣の軌道を見極めて、届かぬギリギリの間合いまで下がる。
クリシュが引いた分、宗靖は追いすがり、再び剣と剣が火花を散らす。
鍔迫りから押し込もうと宗靖が力を込めると、クリシュの新手。懐から取り出した匕首で、刀を握る宗靖の手先を狙う。
宗靖はさっと身を翻し匕首を躱した。
クリシュは苛立ったように剣と匕首を斜交いに構えると、吼えるように叫ぶ。
「斬魔降伏! 白猴ともども冥府へ落ちろ!」
宗靖は返答せず、醒めた目でクリシュの剣を受け止めた。
白刃が火を散らし、音楽を奏でる様に剣撃の音が鳴る。
二刀流によるクリシュの連続攻撃は嵐のような激しく宗靖を攻め立てた。
反撃の隙を見いだせず、宗靖には防戦一方であった。
だが、十合、二十合と打ち合う内に徐々にクリシュに苛立ちが募る。
仕留めきれぬ。ここまでやるとは想定外だ、と。
クリシュの剣術の基礎となっているのは斬魔の剣。
巫女が魑魅魍魎と向き合う際に、巫女の身を守る為に発達した、怪物を斬り伏せる剣である。
それに比べたら人を斬る為だけの剣など物の数ではない、と自負していた。
しかし、今日相対した宗靖という男は、白猴という妖怪を斬るために腕を磨き続けた男だった。
人外の敏捷さ、人知を超えた膂力に対抗する為に工夫を凝らした剣である。
それは図らずしてクリシュの剣と相似したものに進化を遂げていた。
戦いは双方の想像以上に長引いた。
「月巧……玲様、玲様?」
青白い顔をした護景がか細い声で囁いた。
「護景、喋らなくていい、傷に響く!」
「これまで私をお引立て下さり、感謝の次第もござ、ゴホッ……」
護景の顔はいよいよ血の気が失せ、青白くなっていた。
ただ今際の言葉を必死に玲に伝えようと、眼にはまだ微かな意志が宿っている。
「これ以上はお仕えできそうもないが、私に代わって弟がきっと役に立ちましょう……御目に掛けていたゴホッゴホッ……雪瑜様にもよろしく……」
「な、何を……護景、やめなさい!」
護景は閉じかけていた目をカッと見開くと、最期の力を振り絞り強引に玲を振り払って立ち上がった。
「ぐはあああああああああっ!」
大量の血を口から吐き出しながら、雄たけびを上げつつ、護景は二人の剣鬼が戦い合っている中へ飛び出した。
その形相は尋常の物ではない。跳ね回って動く死者だという僵尸さながら。
突然の乱入者に一瞬だけクリシュの注意が逸れる。
しかし決死の気迫も、クリシュを怯ませるには至らなかった。くぐった修羅場の数が違う。
内心、クリシュは護景を嗤笑した。
素手か!
宦官の浅知恵よ! 気迫だけでなんとかなるわけあるまい!
ばっさりと止めの一撃を見舞おうとした刹那、護景は自らの腹に刺さっていた剣を引き抜いた。
剣……剣!?
寸前まで護景を宦官風情と嘲っていたクリシュが、ぞっと身を震わせる。
血しぶきと臓物が舞う凄惨な光景に怯んだのではない。
咄嗟に相打ち覚悟の相手を止める手立てがないことを悟ったのである。
ザクリと、巨大な果実を切断するような音。
護景の首はクリシュによって半ば切断されていた。そのクリシュの胸にも護景が突き立てた剣が深々と突き刺さっていた。
二人は彫像の様に静止し……ほどなく二体の死体はもつれるように倒れた。




