第四十二回 順風は満帆を超え疾風に至る
「護景よ、以前お前に調べさせた魏高輔という方を覚えているか?」
「は。伊宰相の前任を務められていた方ですね」
「そうだ。周囲に煙たがられ左遷させられたということだが、私はその政策に興味がある。使者を立て丁重にお付き合いしたい旨を伝えるよう、手配して欲しい」
「承知致しました」
護景が部屋から出て行くと、入れ違いに馮嘉が現れた。
大男の顔を見て、雪瑜はフッと笑う。
「兄上たちはどうだった?」
「あの一芝居を打った後は大人しいもんですよ」
欧陽歩たちを屋敷へと送り届けた馮嘉は、その後のことを雪瑜へと報告した。
「ふん。薬が効いたようだな。それでいい。あまりはしゃがれて余計な瑕疵を作りたくないからな」
「しかし、少しやりすぎじゃねえっスか?」
「やりすぎなものか。これでも甘いくらいだ……」
雪瑜は昔を思い出してぼんやりと虚空を眺めた。
母親と自分が邪険にされたことはなんとなく覚えているが、幼い頃の記憶は鮮明ではない。
雪瑜という人格と玲という人格も、その時はまだ分かれていなかった。
ぽつりと雪瑜が言った。
「馮嘉、欧陽玲が雪瑜という女に変化するのは、化け物の種から生まれたからだ、という話を知っているか?」
「……え」
答えづらい質問だったが、馮嘉は正直に話す。
「一応、噂で聞いたことはあります」
「実を言うとな、私自身もそう思っていた。だが案外、欧陽家の者に酷い扱いを受けたことが、私を生む遠因になったのかも知れん」
「それは、どういう……?」
だが雪瑜はそれ以上の話を打ち切り、馮嘉にもう行けということを手のジェスチャーで示した。
馮嘉が出て行くと、雪瑜は椅子に深く座り直し、体を背もたれに預ける。
いまのところはこれでいいだろう。
娘子軍の骨子は完成し、都の治安も収まった。兄上たちにも釘を刺したので、早々に悪さはするまい。
魏高輔という元宰相に税制の話を聞くのも楽しみだ。有能そうならまた腕を振るってもらいたい。
……悪くない。悪くないぞ。万事、抜かりない。
一つ一つ自分の為したことを確認して、雪瑜は自画自賛する。
現状に満足すると緊張の糸が切れたのか、一気に疲労が押し寄せてきた。それに抗うことなく、雪瑜は意識をまどろみの中に沈ませていく。
ああ、大家に一言お褒めの言葉をいただきたかったが……。
これ以上意識を保てなくなった雪瑜はやがて体の支配権を手放した。
「陛下! お帰りなさいませ」
「おや、今朝までは雪瑜であったはずだが、いまは玲か」
その日、政務を終えた風演が嫦娥宮を訪れると、出迎えたのは玲であった。
「落胆させて申し訳ございません……」
「いや構わん構わん。どちらも我が月巧妃だ。それに、そろそろお前の顔も見たいと思っていた」
風演はゆっくり腰を下ろすと侍女の淹れた茶に手を伸ばした。
「雪瑜は何か言っていたか?」
「兄が近々参内するので、何卒よろしくお願いいたします、と」
「うん。私もお前たちの兄に会うのは楽しみだ」
「それと……娘子軍が都を治めつつありますと申しておりました」
「そのことは私も聞いている」
カチャ、と湯呑み茶碗を机に置いた風演は僅かに顔をしかめた。
「どうなさいました? 娘子軍がご不興を買うようなことをしたのですか?」
「いや、そうではない。娘子軍も雪瑜もよくやってくれた。私が問題にしているのは、無道を働く者の中には風氏の者までがいたということだ!」
珍しく風演は怒りを露わにした。
「全く我が一族の恥さらしだ。そもそも、食うに困ってやむを得ず犯罪に手を染めたというのなら致し方ない部分もある。だが、ただの我儘で暴れるとは救いようがない!」
そこまで言うと自分が必要以上に声を荒げていたことに気付いた風演は、声を元のトーンに戻した。
「おっとすまぬな。愚痴になってしまった。妃の前でする話ではないか」
「よいのです、陛下」
気持ちを落ち着かせるように、風演は再び湯飲み茶碗に手を伸ばした。
「だが、本当に情けないのは私だ。この程度のこともどうすればよいか、自信が持てぬ」
「陛下は何も間違っておりません」
「そうかな……雪瑜はよくやってくれている。本当は私より彼女の方が……向いているのだろうな」
何が向いているのか口に出さなかったが、それが帝業を指すのは明らかだった。
これまでずっと黙っていた焦螟がぎょっとして、風演を諫める。
「我が君、それ以上は……」
「分かっている。だが、彼女は進取の気象に富み、何かに挑むことに物怖じせぬ。それに物事を即断する。それが羨ましい」
「陛下には雪瑜にない仁恤があります。羨むことなど何もありません」
「はっはっは、まるで自分の半身を酷薄だと言っているように聞こえるぞ」
「自分自身だからこそ、私には雪瑜の妬心と傲慢がよく分かるのです。陛下……」
玲は立ち上がり風演に向けて身を乗り出した。
「ど、どうした玲?」
唇を皇帝の耳元に近づけて囁く。
「白首相知猶按剣、と詠った詩人もおります。雪瑜を信用しすぎてはなりません。彼女のする提案はよく周囲と諮って下さい」
「あ、ああ……」
風演は玲が王維の詩を引用したことに驚きながら頷いた。
玲も風演ならばこのように言った方が気に留めるだろう、ということを想っての警句だった。
「チチチチチ……」
その時、何かが鳴いた。
ハッとして風演が振り返る。
「ああ。これの紹介をすっかり忘れていた。実はこれを見せるために参ったのだ。老爺よ、ここに置いてくれ」
「ふう、やっと置けますな。重かったですぞ」
珍しく愚痴りながら、焦螟は鳥かごを机の上に置いた。
鳥かごの中には深い藍色をした二羽の鳥が入っている。形は燕に似ているが尾羽がやや長い。
「夜鈴燕だ」
「初めて見る鳥です」
「そうだろうな。南方の島に棲む珍しい鳥だ。私も今朝献上されるまで、実物を見たことはなかった」
「奇麗……」
夜鈴燕の翼は藍色をしているが、まるで金糸が織り込まれているかのように翼の一部がキラキラと輝くのである。
その輝きを見た玲は、先ほどまでとは打って変わって、無邪気さを取り戻し、ほうと溜息をついた。
さらに風演は続ける。
「美しいのは外見だけではないぞ。この鳥は夜になれば華麗にさえずるのだそうだ。この鳥の歌を共に聞きたくて持ってこさせた」
「それは楽しみでございます。陛下、しかし……」
玲は顔に憂いを見せつつ、言い辛そうに切り出した。
「空を飛ぶための翼がある者が、このような小さなかごに入れられてるのを見ると、可哀想に思えます」
玲がそう言ったのは、小さな鳥を哀れんだだけではない。
檻に押し込まれる恐怖を知っているからである。
「……玲は優しいな。では今夜一晩夜鈴燕の歌を聞いたら、放してやるとするか」
「ありがとうございます、陛下」
自分の事のように玲は喜んだ。
その後、夕食を取り終えた二人が談笑しながら美酒を傾けていると、突如夜鈴燕が声を上げた
一羽が発した声を追うように、もう一羽も甲高い声を上げる。
「ピューールルルル……」
「おう始まった。これが夜鈴燕の歌か」
前触れなく始まった美しいさえずりの二重奏に風演は目を輝かせる。
酒杯を握りしめたまま、神秘的なその歌を聞き逃すまいと一心不乱に耳を傾けていた。
その様子は一角の文人でも帝国の皇帝でもなく、どちらかというと子供っぽさの方が強い。
玲は風演の美に対する欲求の根源を垣間見たような気がした。
そして玲も目を閉じて鳥たちのさえずりに耳を澄ました。
あの小さな体のどこからそんなに大きな声を出しているのか、不思議に思うほど力強く、それでいて決して不快ではない澄んだ歌声……。
どこか懐かしさを感じて、玲の閉じた瞳から一滴の涙がこぼれ落ち、泣きぼくろを伝った。
やがて始まったときと同じく、夜鈴燕の歌は突然終わった。
二羽は鳥かごの中で時々互いに目を合わせるが、もうチチチチという短い鳴き声しか発さない。
歌が終わったことを悟ると、風演はずっと手にしていた酒をグイと煽ると、たまらず呟いた。
「噂に違わぬ……いやそれ以上の素晴らしいさえずりだ」
「ええ、素敵な歌声でございました。まるで月に向って語り掛けているかのような……」
「うむ……」
風演は立ち上がり、籠の中の二羽に声をかけた。
「見事な歌声よ。これほどの歌は孤とて滅多に聞いたことはない。大儀であった!」
そう言って夜鈴燕を称えると、約束通り鳥かごを開けて、二羽の夜鈴燕を窓から外に出してやった。
「さあ行け! あまねく天地の者にその歌声を聞かせてやるがよい!」
夜鈴燕はしばらく窓の縁に留まっていたものの、二人に何かを伝える様に室内を二回りして、スッと窓から夜空へと羽ばたいていった。
「よろしかったのですか?」
「正直に言えば惜しい。だが、綸言汗の如しというではないか。易々と撤回などできぬ……ところで玲よ」
「はい?」
「お前は夜鈴燕が月に向って歌っているようだと言ったが、果たしてあの二羽は何を歌っていたと思う? 嫦娥を称える歌か、愛の歌か? それとも別の物語だろうか?」
「えっと、そうですね、愛の歌というよりは、命を称える歌……自分たちがここに居るということを天地に知らせるかのような、そんな自信に溢れた歌のように感じました」
「それは面白い解釈だ。いま夜鈴燕の曲を作ろうと思っていたが、笛や簫で夜鈴燕のさえずりを表現するのは芸がないと考えていたところだ。もっと重厚な音が出る楽器を使った方が面白い」
風演は興奮気味に夜鈴燕の歌について玲に意見を求めた。
皇帝は好色だが、こうなるともう情事どころではない、夜を徹して二人は新曲のイメージを議論しあった。
「……」
陛下と上手くいってるわね。良かったじゃん玲様。
二人が楽しそうに話し合う姿を見て、物陰から様子を窺っていた玉蘭がホッと胸を撫で下ろしていた。
同夜。
都の一角に設置された進奏院という役所の中で、鍾馗の面を被った喫邪が手紙をしたためていた。
進奏院とは地方の節度使が中央とのやりとりを円滑にするために都に置く出先機関であり、通常はここを通して朝廷と節度使は連絡を取り合う。
しかしその性格上、都の周辺や朝廷の状況を探り、その情報を節度使に伝えるという一種の諜報機関のような役目も存在する。
この晩、喫邪が記していたのも、朝廷の様子を調べて地方に送る定期連絡であった。
なお手紙は漢字ではなく、辺境で用いられる丁勒文字と呼ばれる漢字に似た文字で書かれており、万が一手紙が運ばれる途中で紛失しても昭国の人間には読めないようになっている。
蝋燭の火だけでは手元が暗く、文字を書きづらいと感じた喫邪は周囲に人がいないことを確認して、面を外す。
小さな灯に照らされた横顔は──宗靖であった。
なおも宗靖は筆を走らせる。
『羽林軍再編の過程で月巧妃は娘子軍なる部隊を作り、自らの近衛とした。さらに再編の過程であぶれた元の羽林兵の一部が都で狼藉を働き、この娘子軍によって捕らえられた模様。また月巧妃は一族を呼び、皇帝に働きかけて幾人かに官職を与えた。最も役職の高いのは月巧妃の兄、欧陽歩の工部侍郎。この身内人事に対して目立った反発は無し。伊宰相も動かず。個人的な所見を述べれば、月巧妃に恨みを持っているはずの伊宰相の沈黙は不気味に感じる所あり』
宗靖から受け取った手紙を読み終わった石豹は、遠く都の権力闘争を思い、皇帝の前では決して見せぬ鋭い眼差しで顔を上げた。
──流石に喫邪は気付いているようだな。宰相の沈黙は嵐の前の静けさだ。何か大掛かりな準備をしているに相違あるまい。
だが、果たして娘子将軍はそれに気付いているかな。もしも自分は上手くやっているなどと考えているのなら、大きな代償を払うことになるだろう。
それでも伊家がこれまで通りのさばるよりは、欧陽家が興ってくれた方が良い。焦螟や劉幹に警告してやらねばならぬ。
……問題は、警告が間に合うかどうかだな。
思わせぶりな状態ですがここで書き貯めが切れたので一旦更新停止します。
再開は一月後を予定してますがリアルの方が忙しくなっていますので場合によっては停止期間が延びるかも知れません。その時は申し訳ない。
ここまで読んでくれてありがとう!
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