第四十回 娘子軍の初仕事
「さて玲、お話をしようじゃないか」
雪瑜は周囲の人払いをして、姿見の前に座ると自分の半身に向って呼びかけた。
しばしの間をおいて、意識の表面にもう一人の人格が浮かび上がってくる。
『そうやって自分の都合で呼び出すくらいなら代わってよ』
「もう少しだけやらせてくれ」
『まったく……。で、用って? まさか私にもやっとうの稽古をしろっていうんじゃないでしょうね』
「違う、違う」
玲の警戒を解くように雪瑜は薄く笑った。
「相談というか、一言お前に断っておきたいことがある」
『なによ』
「大家にお頼みして父上を出世させてやろうと考えている。ついでに欧陽家の連中も引きたてて、官職を与えようと思う。宮廷に身内の者がいれば何かと便利だからな」
『……好きにしたらいいじゃない。親戚を引き上げてやるなんて誰もがやっているわ』
「ああ。だが、私は少し迷っている。父上はともかく他の奴らは母上をいたぶり、私たちを家から追い出した連中だぞ。お前はどう思う?」
『……正直、許せないわ。だけど、子供だった兄様や姉様には関係ないことよ。区別を付けるべきだわ』
「私もそう思っていた。では、若い世代の者だけを陛下に推挙しよう」
そう思い立ったら雪瑜の行動は早い。
近く沙汰があるかも知れぬから、すぐに移動できるよう準備しておくことを父や欧陽家に伝え、自分は都の一角に屋敷を用意し、家族の為の適当な官職を探し始めた。
そこではっと気が付く。
「そうだ、周泰の奴にも教えてやるか」
これまでも周泰とは護景などの宦官を通じてやり取りをしていたが、時間がある時はなるべく直接会うようになっていた。
「玲さん!」
雪瑜と会うと太った商人はほくほくとした笑顔を浮かべた。
「よぉ。儲かっているか、悪徳商人」
「悪徳じゃァねえつもりですが、おかげさまで! 商売繁盛でございます! 本当に……!」
と、周泰は普段以上に深く頭を下げた。
「おいおい、どうした。今日はやけにペコペコするじゃないか。何かあったのか」
「実は私事で恐縮ですが……縁談がまとまりそうで、ハハ」
「縁談? 誰の……お、お前のか! かぁ~お前が結婚だと!? 相手は誰だ?」
「取引のある商家の娘で、顔を合わせていくうちに、その、お互い結婚しようってことになって」
「うーむ、お前のような山出しのブ男を好きになってくれる人がいたのか。なんにせよ好いた相手と結婚できるのなら、それに越したことはない。良かったじゃねえか、ええ周泰!」
雪瑜は周泰の肩をポンと叩く。すると周泰は感極まって感情が溢れたのか、目に涙と浮かべて拱手した。
「本当に……これも全て玲さんのおかげで……」
「おいおい、私は何もしていないぞ」
「……へえ」
涙ぐんだ周泰が落ち着くと、雪瑜は自分の親戚が都にやって来ることを話した。
「私の父上が州刺史から節度使に昇進され、兄上もこちらに来て近々官途に就く予定だ。恐らく工部に配属されるだろうから、材木の注文などでお前に相談する機会もあるだろう。挨拶しておけ」
「必ずさせてもらいやす!」
「さて、今日はめでたい話ばかりだったが、町では何か変わったことはないか?」
「へえ。その……言いにくいことですが」
「構わん、言え。人が言いにくいことを言うためにお前はいるんだ」
「近頃、町が荒れているって話がぼちぼち聞こえてきやす。見回りの都卒が減ってゴロツキどもが幅を利かせるようになったようで」
「……」
耳が痛い。
市中の見回りが減ったのは、石豹と雪瑜が互いに申し合わせて自身の権威・権力を高めるために都卒を利用したせいである。
その結果治安の悪化を招いているのであれば見過ごせない
「けど他にも理由があるようで……ここだけの話、いま都を荒らしてるゴロツキの中には、金持ちや貴族のドラ息子が多くいるって話ですぜ。中には高貴な血筋の方まで混じっているとか、何でも官軍で人員整理があって、クビになった元兵士っていう噂です」
周泰は宮廷で起こっている権力構造の変化など知る由もないだろう。
だが、これらは雪瑜がやったことの結果であるのは明白だった。
つまり雪瑜の鶴の一言で羽林軍をクビになった連中が、腹いせに町で暴れているのである。
まさが自分の行ったことが無関係な民草を苦しめているとは……。
雪瑜は己の浅慮を少しだけ後悔し、それ以上に治安を荒らす者たちに怒りを覚えた。
「ゴロツキに高貴な血筋の者が混じっているとすれば、都卒も手が出しづらいだろうな」
「へえ」
「よく教えてくれた、周泰。私に任せておけ。すぐ何とかしよう」
「玲さんがそう言ってくれれば頼もしいです。俺たちも商売がしやすくなるってもんでさ」
周泰が礼をして出て行くと、雪瑜も急ぎ足で娘子将軍の衙に向かった。
衙の場所は後宮のすぐ隣である。つまりこの頃にはもう、雪瑜は宮殿内なら誰に咎められることなく歩き回っていた。
雪瑜が衙の席に着くと、開口一番左右の者に命じた。
「馮嘉を呼べ!」
「虫の居所が悪そうっすね、将軍」
「ああ。耳を洗いたいほど汚らわしい報告が入ったぞ、馮嘉」
不機嫌さを隠そうともしない仏頂面のまま、雪瑜は馮嘉に告げた。
「近頃、元・羽林兵が狼藉を働いているそうだ。元とはいえ羽林軍の顔に泥を塗るような真似、決して許さぬ。お前は部下を率いて市中を巡察し、早急に狼藉者を一人残らずひっ捕らえろ」
「分かりました」
「お前の部下は元都卒も多く、勝手知ったるものだろうが、金吾衛の将軍ともよく協力するように」
「分かってますって」
「それと!」
一段雪瑜は声を張り上げた。
「狼藉者の中には自分は帝室の血筋だなんだと宣う奴がいるかも知れんが、容赦するな。そんな奴らは帝室と言っても傍流も傍流で、主上とは一切係わり合いのない手合いだ。むしろ必ず捕まえて私に教えろ」
「委細承知!」
こうして、娘子軍による市中の取り締まりが始まった。
「酒屋が酒を売らねえってのはどういう了見だ!」
「ですからもうずいぶん付けが溜まっておりまして、一旦清算していただかなければこれ以上の掛け売りは……」
「ふざけるな! お前はガタガタ言わず言われた通りに酒を差し出していりゃあいいんだ! 誰のおかげでここでこうして商売出来てると思ってやがる!」
ある酒屋で風体の悪い四人組が店の人間と揉めているのを見つけた馮嘉は、すかさず両者の間に割って入った。
「おっとごめんよ」
「なんだ貴様は!」
「なんか揉めてるみたいだな。俺が話を聞いてやるよ」
「どこのどいつか知らんがお前にゃ関係ねえだろ! 邪魔だ、失せろ!」
「そういう訳にもいかなくてな。お前たちみたいな奴らに白昼堂々暴れられちゃ困るんだ。まあちょっと表に出ろ」
「テメエ、俺が誰だと思ってやがる! こう見えても俺様は風氏だぞ! 帝室と同じ血を……」
予想通りそんな言葉を吐く者もいたが、馮嘉は動じない。
「馬鹿野郎、本当にそんなすげえ奴なら酒の飲み代を踏み倒そうとするかよ! 穀潰しの能無しが!」
「なんだと! 貴様……!」
馮嘉はそれ以上有無を言わさずに相手の男を店の外に引っ張り出すと、あっさり組み伏せて相手の顔を地面に押し付ける。
「ぐあっ! 貴様ァ、タダじゃ済まんぞ! 俺は風氏で、陛下を守る羽林兵だ!」
「何がどう済まないんだ? 飲み代を踏み倒そうとしたら捕まったと陛下に泣きつく気か?」
「なんだと!」
「それに奇遇だな、俺も羽林兵なんだよ」
馮嘉はそれ以上相手に付き合わなかった。
待機していた馮嘉の部下が、暴れていた男とその手下たちを縄で縛り、番所へ引っ立てていく。
「へっ口ほどにもねえ奴らだ。もっと抵抗したら堂々と潰せたのによ」
「あの……」
「ん?」
恐る恐る近づいてきた酒屋の主人や番頭が馮嘉に感謝を述べる。
「お役人さん、助けていただいてありがとうございます」
「なに、気にするな。それより、ああいう輩を付け上がらせても百害あって一利なしだ。あいつらが飲んだ分は必ず支払いを払わせるよう、番所にも伝えておく」
「何から何まで本当に、感謝いたします。そうだ、是非お礼をさせてください」
「余計な気遣いは無用だ。俺は仕事をしただけだからな。感謝は俺ではなく月巧妃様にしろ。下々のことまで考えて下さるお方だ」
「ははーっ」
深く揖礼をする酒屋の者を尻目に、馮嘉は次の獲物を探して見回りに戻った。
馮嘉の率いる部隊の働きは目覚ましく、治安を乱す多くの者が捕らえられた。
だが、これは必ずしもいいことばかりではない。
裏を返せば、雪瑜が何の保証もなく軍人を放り出したことが、それだけ都を荒れさせたことを意味するからである。
原因まで詳しく知らない者の間では捕吏を派遣した雪瑜への支持が広まったが、辛くも逮捕から逃れた元羽林兵たちは、さらに雪瑜への憎悪を燃やすことになる。
表面上の治安は徐々に安定していったが、その裏ではさらに大きくなった不満が燻っていた。