第四回 ショウ ストッパー
「石豹めがやりおったぞ!」
北西の辺土より朝廷へ捷報(戦勝報告)がもたらされた。
このところ、昭軍は北の異民族である柔夏に苦戦し、敗北を重ねていたが、新たに司令官に任じられた石豹という将軍が柔夏を打ち破り、大勝したというのである。
このところ失政が続く朝廷において、石将軍の勝利は久々に明るいニュースだった。
風演は報告に上がった使者の前で石将軍を褒め、帰還の暁には多くの贈り物を贈ると約束した。
上機嫌になった風演はそのまま「仙遊宮にて戦勝の宴を催す」と、言い、ごく自然にそういう流れになった。
その準備で俄かに仙遊宮は騒がしくなった。
戦勝の宴は、屋内ではなく仙遊宮の庭園に席を設け行われた。
魂を安らがせるような生暖かい風が吹く、初夏の夜である。
月が登り、柔らかな淡い光を放つと、仙遊宮の庭園は常より一層幻想的な光景を映し出した。
酒宴に参加した者は、仙境の風景を眺めながら酒肴を楽しんだ。
宴もたけなわ。酔いが回り、参加者の目に池に浮かぶ島が蓬莱に、切り立った奇岩が崑崙に見えてきた頃、玲は宴に姿を現した。
「陛下、私も戦勝を祝って一曲舞わせていただきとうございます」
「おう欧陽玲か。構わん、構わん!」
もとより燕喜の会である。断る理由はない。
風演は天香妃が注いだ杯を掲げて、踊れ踊れと促した。
その一言で宴会場に流れる楽の音が、歌と舞踊の音色に変わった。
簫、鼓、琵琶、方響など様々な楽器が奏でる音に負けぬよう、玲は声を張り上げて歌い、舞った。
まずまず稽古の成果が出たといえよう。
宴の参加者は手を拍って喜び、酒に酔ったどこぞの官から「お見事!」という声が挙がる。
天香妃も風演の体に寄りかかりながら、「まあ、可愛らしいですわね」と頬を上気させながら呟いていた。
何事もなく玲が舞い終え、一礼する。
その時だった。
玲の体が打ち震えたかと思うと、玲の髪がさっと白に染まっていく。
「ほ、ほおおおおお……!」と見る者から嘆声が揚がった。
雪瑜の出現である。
身長が五寸近くも伸びた為に、身に着けた衣装は窮屈な装いとなった。
だが、この夜玲が身に着けた晴れ着は、玲と雪瑜の身長の差を考慮した特別仕様であった。
雪瑜は帯を緩め、胸元をややはだけさせる。さらに折り畳まれていた裾と袖を展開させると、風にたなびいてヒラヒラと舞う、薄く透き通る長い袖と広い裾が現れた。
見事な変身ぶりだった。
「陛下! 私にも是非ひとさし、よろしいか?」
「おう、待っていたぞ、雪瑜。さあ、お前の舞いを見せてくれ」
雪瑜はニヤリと蠱惑的な笑みを浮かべて一礼すると、楽士たちに向って叫んだ。
「霓裳羽衣の曲を頼む!」
言われるがまま、楽士たちは玲の舞踊の際とはまた異なる音楽を奏でた。
初めはゆったりと、だが徐々に徐々に、楽の音の拍子は早さと激しさを増して行く。
──霓裳羽衣。この曲はその由来から天界の楽曲と言われている。
その昔、昭より以前の王朝の皇帝が、夢の中で月の宮殿に遊んだ。
皇帝はそこで見聞きした天女たちの舞楽を耳で覚え、目覚めてから部下に命じて作らせた曲が霓裳羽衣である。
霓裳羽衣とはまた、天女が纏う霓のように美しい羽衣という意味であり、この夜雪瑜が纏う着物はそれを強く意識したものだった。
天界の音楽に合わせ雪瑜は妖艶に舞った。
その舞はただ伝統に則った舞ではなく、相当に自分なりの工夫がされ、改変されている。
特に雪瑜が取り入れたのは、異国から伝わった胡旋舞という舞だった。
胡旋舞はその名の通りくるくると旋回し、動きで見る者を楽しませる舞である。
どちらかと言えば男性的な激しく勢いのある舞だが、長身痩躯の雪瑜が舞えば、それは余人には到底及ばない、華やかで迫力のある舞になる。
風演は雪瑜の舞踊を見て、忘我した。
酒が皇帝の思考力と判断力を麻痺させたせいもあるかも知れない。
だが神界の如き仙遊宮で、天の音色に身を乗せ、生き生きと舞う雪瑜は、この世の者とは思えなかった。
裳裾をなびかせて激しく動きながらも、雪瑜の旋舞には重さが全く感じられなかった。
ひらひらと蝶のように舞う姿は、まさに天空に遊ぶ玄女素女の如しである。(玄女、素女とはどちらも音楽や性愛を司る天女)
次第に音楽はますます激しくなっていった。
雪瑜の旋回もそれに負けじと速さを増し、軽やかに右へ左へと回る。
飄颻と舞う雪瑜の旋回に、天神地祇も呼応したのだろうか。夏の風も強さを増した。
初めは喝采していた者たちも、やがて息を呑んで目を見張った。
男も女も、雪瑜の舞に釘付けとなった。
頃合いと見た雪瑜は簪を引き抜き、白い長髪を解いた。力強い旋回と風に煽られて、雪のような白髪がわっと広がる。
「あっ」
風演は思わず声を上げて、傍らの天香妃を押しのけるように立ち上がった。
「ま、待て! 雪瑜、行くな!」
皇帝は叫びながら雪瑜に駆け寄って、袖と裾を荒々しく鷲掴みにした。
そのせいで、舞は唐突に終わった。
困惑の表情を作り、雪瑜が尋ねた。
「陛下、いかがなされた?」
「とぼけまいぞ、小娘め」
風演は微かな怒りを込めて言った。
「汝は孤を置いてひとり天に昇ろうとしたであろう!」
風演の目にはそのように見えたのである。
雪瑜は破顔して大笑した。
「陛下、陛下。私はどこにも行きません。雪瑜の居場所は陛下の元をおいて他にございませぬ」
そう言われても風演は血管が浮くほど雪瑜の袖と裾をがっちりと掴んで離さず、「逃さん、逃さん」といつまでも呟いていた。
胸裏の内で雪瑜はほくそ笑んだ。
皇帝は雪瑜の衣服を掴んだに過ぎないが、雪瑜はこのとき皇帝の心を掴んだのだ。
これほど嬉しいことはない。
酒宴が終わり、雪瑜は鳳巣館へと戻った。
それからほどなくして、鳳巣館を訪れる者がいた。
焦螟である。
そしてその後ろに控えている人物を見て、応対に出た侍女は短く悲鳴を上げた。
「ひっ……」
訪問者は風演であった。
緊張で居竦まった侍女に対し、地上の最高権力者は優しく声をかけた。
「苦しゅうない。今夜はちと飲み過ぎて、よう酔うたわ。禁裏まで帰れそうにないので、ここで休んで行こうと思ったのだ。玲と雪瑜はいるか」
「あ、は、お、お待ちを」
「陛下をお待たせする必要はない」
しどろもどろに応対する侍女を掣する声が、館の奥より響いた。
雪瑜である。
突然の皇帝の訪問にも驚かず、逆に雪瑜は待っていましたとばかりに現れた。
一日に二刻も出現すれば長い方である彼女が、今夜に限って宴の途中からずっと出ずっぱりなのは偶然ではない。
それに当然のように化粧もし直してある。
彼女は今夜、皇帝が自分の元を訪れることに確信を抱いていた。
「お前は焦螟様を部屋へご案内しろ。それが終わったら、今日はもう休んでいい」
と侍女に囁くと自分は「さあ陛下、どうぞこちらへ」と、自ら風演を寝所へと導いた。