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第三十八回 娘子軍誕生

 怒りを胸に抱えたまま、伊宰相は静かに動き出した。

 彼が目を付けたのは、天香妃、恵徳妃と並んでいた三妃最後の生き残り、孝淑妃とその息子である風閲だった。

 孝淑妃は昭に滅ぼされた小国の王族であり、寄る辺なき身を憐れんで風演が後宮に入れた女である。

 だがその後、風演は孝淑妃をほぼ無視していたし、孝淑妃もただ慎ましく暮らして居たため、彼女はこれまで権力闘争からは離れた位置にいた。


 現在、皇帝の寵愛は雪瑜が独占している。若さが失われた孝淑妃が巻き返すことはないだろう。

 しかし孝淑妃の幼い息子が帝位に登る可能性はゼロではない。

 伊宰相は六歳になった風閲を後宮から引き出し、自身の息の掛かったものを傅(教育係)に据えた。この時点で伊宰相は事実上風閲の後見人となったといえる。

 よし。こちらはこれでよい。

 次は……。

 伊宰相が次の企みを巡らせていると、室外から声を掛けられた。

「主よ、ただいま戻りました」

 その声に、伊宰相はハッと顔を上げた。

「おお、克里希(クリシュ)か。ちょうどいい所に帰ってきた。入れ」

「失礼いたします」

 室内に入ってきたのは顔つきに胡人の面影がある男だった。カラブランと同じく、その両目は翠色に輝いている。

 それもそのはずで、このクリシュという男はカラブランの実兄であった。

 寵愛を競う後宮の争いに敗れた天香妃を、伊家が支配する隠れ家の一つに送り届けたのは彼であり、それがいま帰ってきたのだ。

 伊宰相が娘の護衛を任せるだけあって機知に富み、巫師の一族としての魔性を察知する鋭敏な感覚も持ち合わせている。

 ただ、妹が持つ破邪の力だけが彼に欠けていた。


「向こうはどうだ。娘は我がままなどを言ってないか?」

「無双様(天香妃のこと)はお代わりないご様子で、健康でございます。これから臨月になるにあたり私が居てはかえって邪魔と思い、妹に任せて引き上げて参りました」

「それがよいな。お産のことは女どもに任せておけばよい」

「はっ。それにしても、主よ」

 クリシュは崩しかけた相好を正して、真剣な面持ちで伊宰相を見た。

「宮殿に獣臭が漂っております。一度都を離れた私にはよく分かる。なにか凶事が起こっているのではありませぬか?」

「そう、それよ」

 伊宰相はこれまでの経緯をクリシュに説明した。


「なるほど。石豹が王になる野望を抱き、陛下は半ばそれを許可していると」

「お前が感じている獣臭は、先日までいた胡人共の残り香よ」

 伊宰相は顔をしかめ、吐き捨てるように言った。

 もしも本当にあの醜い小太りの胡人が王となり……自分がそれに礼を尽くさねばならぬ場面を想像すると、喉の奥から苦いものが込み上げてくる。

「かっ! わしの目が黒い内はそのようなこと決して許さぬわ!」

「石豹めは己の分という物を知らぬ豚でございますな。しかしながら、主よ……」

「なんだ?」

「私には石豹だけがこの獣臭の原因ではないと感じられます。(なまぐさ)い臭いは後宮から漂ってくるゆえ」

「ふん、月巧妃か。確かにあいつは目障りだが、所詮女に何ができるというのか」

「侮ってはいけませぬ。ここ最近の陛下の妙な振る舞い、背後にいるのは月巧妃でございます。奴さえ除けば陛下は元に戻りましょう。それに月巧妃は無双様の(あだ)でもあります」

「確かにそうだ。それに陛下が元に戻るならわざわざ幼帝を立てる必要もない、か……」

 伊宰相はしばらく瞑想して考えを纏めようとした。

 いま皇帝という至高の権力の周りで、自分を筆頭とした貴族官僚勢力、焦螟や雪瑜などの後宮勢力、石豹という節度使の勢力がクルクルと回っている。

 石豹も憎いが確かに後宮の奴らも目障りだ。現在後宮勢力と節度使勢力は接近しているが、月巧妃がいなくなりその後釜に娘が再び返り咲けば、我々が後宮勢力を取り込める。

 ──まず消すべきは月巧妃か。

 目を開いた伊宰相は前のめりになって、ヒソヒソとクリシュに指示を出した。

「よしクリシュよ、いまから言うことを速やかに実行せよ」

「はっ」



 風演の周囲で、初めて伊宰相の動きに気が付き反応したのは焦螟だった。

「宰相殿は風閲様に目を付けたか……」

 少々煙たい動きだな、と老宦官は眉を顰める。

 これだけでまだ幼帝を擁立しようとしているとまではいえないが、不穏さはぬぐえない。

 焦螟は伊宰相の動きを、それとなく風演に伝えた。

 しかし、風演は

「そうか。潘国公ならば閲に良い傅を用意したことだろう」

 と危機感のない言葉を返しただけであった。

 後宮の外には関与できないし、するべきでもないという考えを持つ焦螟は、主にこう言われてはもう打つ手がない。

 さて、どうするかと考えていると、風演が声をいつもより一段大きくして言った。

「それよりもだ、その潘国公は都の郊外に巨大な倉を作りたいと申している」

 これは焦螟に向けた言葉ではなく、雪瑜に聞かせるのである。

 興味を惹かれた雪瑜は顔を上げた。

「倉、でございますか?」

「ああ、飢饉のたびに都の食糧事情が不安定になる故、郊外に穀類の集積地を設けたいというのだ。()は許可しても良いと思うのだが……」

 風演はまるで許可を求めるかの様に、恐る恐る雪瑜を見た。

 貴族の目から見ると雪瑜は倹約家である。新たに建物を建てることを良しとしないことが多い。

 これでまた機嫌を損ねてはたまらぬ、と風演は恐れていたのだ。

 しかし、今回の雪瑜はあっさりと首を縦に振った。

「私もそれはよいと考えだと思います。都の民が飢えてからでは遅い」

「そうか、そうか」

 風演はその言葉を聞くとホッと安堵して胸をなでおろした。


「ところで大家(ターチャ)

「何かな」

「私は娘子将軍という雅称を頂きましたが、これには実体がありません。なんとかなりませんか?」

「なんとか、というと……?」

「指揮する兵が欲しい」

「ははは、まさかいくらなんでもそれは」

 冗談と思い、風演は微笑んでいた。

 だが、雪瑜は表情を変えない。

 彼女は本気で言っているのだと分かると雪瑜は慌てた。

「待て待て、雪瑜。お前がそこまでする必要はないだろう。後宮の守りならば老爺(じいさま)がしっかりと固めている。あれで焦螟は戦場の経験もあるのでな」

「ならばなおの事です。焦螟殿とて永久に生きるわけではありませぬ。健在のうちに私が引き継ぎ、至らぬ点を教示して欲しいものです」

「女子なのに、武辺に興味があるのか? お前は変わっているな」

「……それもありますが、私が本当に興味があるのは、物事の機構(しくみ)です」

 風演は首を傾げた。

機構(しくみ)?」

「ええ。形あるもの──例えば人や建物や山河、そして形のないもの──例えば礼や法、それらが組み合わさった機構(しくみ)が我らが昭国を動かしていると私は考えております。その機構(しくみ)の調和こそ、私が最も興味のある物です。陛下がその管理者だとしたら、私はその整備者でありたいのです」

「つまりお前の目から見て昭国が危ういのか? 兵を動かす事態が起こると?」

「私のような者に未来など分かりませぬ。ただ、もしもそのような事態が生じた時のため備えをいたしたいのです」

「……お前がそこまで言うのなら、いいだろう。許す」


 熱心な説得により、雪瑜は後宮内を見回る宦官と、宮城の守備兵である羽林軍の一部を率いることを許されたのである。

 なお雪瑜の戦力の中核となったのは、書類上石豹に引き渡すことになっていた三百名の兵士だった。

 所属自体が曖昧な部隊が流れる様に雪瑜の元に渡ったのは、雪瑜、石豹、劉幹の三者による事前の打ち合わせと、合意があったのは言うまでもない


 こうして兵を得ると、雪瑜は職務や教練に励む兵たちを注視し、自身も兵法や軍の運用について熱心に学んだ。ついでに近侍する護景にも同じく兵法や武術を学ばせた。

 優秀で(ハラ)も据わっているが、護景は元々文官である。突然剣や弓矢の訓練や兵法を学べと言われたとき、さしもの護景も顔を引きつらせて辟易した。だが

「私が動けぬときはお前が変わって私の兵を指揮するのだぞ。よいな」

 と、雪瑜に言われると居住まいを正して命令を承った。

 やがて最初の混乱が去ると、護景は不思議と溌溂とした気持ちになった。

 自分は月巧妃に期待され、信頼されている。その実感がじんわりと胸に広がる。


 良かれ悪しかれ、雪瑜は気力に満ちていた。以前も述べたが自然とその気力は他者に伝染するようである。

 単に気分の問題だけではなく、雪瑜は即物的な利益も活用した

 彼女は自分に付く利益、特に金銭を与えることを惜しまない。利を与える機構(しくみ)が自分の手の中にある限りは。

 美貌、精神的な充足感、金銭などの利益……理由は様々だが、いつしか雪瑜に引きずられるように、その後ろには多くの物が付き従っていた。


 そしてそれは後宮だけにはとどまらず、やがて彼女が持つようになった軍隊にも及ぶようになった。

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