第三十七回 九命の錫
昨日更新忘れてました。申し訳ありません。
惜別の会は大いに盛り上がり、幕を閉じようとしていた。
一方、司業を呼んだ伊宰相は、石豹が何かを企んでいるという懸念を司業に伝え、その狙いは何だろうかと問いかけた。
「飾り馬車と兵だけならば、それらを伴って西域に錦を飾りたかっただけとも取れますが……」
「単に市中を行進して見せるだけなら弓矢は必要あるまい」
「確かに弓とは……あっ!」
司業は口を大きく開けて声を上げると、すぐにその口を閉じて片手で覆った。
恐ろしい考えに気付いた司業は、その考えが正しいか心の中で何度も自問自答する。
「どうした?」
「石将軍は九錫を賜ろうとしているのでは?」
「九錫……!? まっ、まさか!!」
伊宰相はそう叫んだが、確かに合点のいくところではある。
九錫とは車馬、龍袍(皇帝の服)、虎賁(護衛兵)、楽器、納陛(登朝の自由)、朱戸、弓矢、斧鉞(兵馬の権)、香酒の九つのことで、これを与えられた者は天子に次ぐ者とみなされる。また、政治的には禅譲の前段階としてこれが行われることもある。
いかに石豹とて、いますぐ皇帝にとって代わろうとするとは思えない。
しかし、将来への布石ということは十分に考えられる。
それに皇帝でないにしろ、西域の王を名乗ることは十分考えられた。既に石豹は実質的に西域の支配者だ。
「前回の来朝で石豹は楽師、登朝の権、斧鉞、そして酒を陛下から賜っている……楽師を楽器、酒を香酒と見なせなくもない……」
「はっ。さらに今回下賜される飾り馬車、兵、弓矢、そして染料を朱戸と見なせば、八つ……。あと一つ、皇帝から衣服を賜れば九命の錫(※九錫のこと)が揃います」
「九命の、錫……!」
あの曲者が言っていたのはこれか!
伊宰相は血相を変えて立ち上がり、天を仰いだ。
「陛下はいまどこだ!」
「仙遊宮で宴を催しているかと……。いや、そろそろ終わりでしょうか」
「すぐに会いに行く!」
あ、あんな成り上がりの胡人が、九錫を賜るだと!? 王となり帝位を見据えるだと!? そんなことは許さぬ! あんな蛮人がこの我より上の位に登るなど絶対にさせぬ!!
伊宰相は娘が後宮から放逐されても動じなかった男である。しかし、石豹の野望を知った伊宰相は珍しく怒りを露わにした。
皇帝への忠誠ではない。
胡人が自分の上に存在するということは、それほど許しがたいことだったのである。元々、石豹という男が気に入らなかったこともある。
とにかく時間がない。自分が直接掛け合って、石豹に下賜する品を変えていただかねばならぬ。
慣れない怒りは焦りを生んだ。
普段の伊宰相なら、巧妙に皇帝の周囲の者を動かし、皇帝が己の意に添って動くよう働きかけただろう。
しかし、このときは自らが直接皇帝の元に走った。
「陛下!」
伊宰相は皇帝の輿がちょうど仙遊宮の門を出ようとしたところで、皇帝風演を捕まえた。
「陛下はおられるか! 火急の用じゃ! 陛下はどこにおられる!?」
「おう、どうした潘国公。血相を変えて」
風演は輿の窓を開けて対応した。
皇帝の通行を妨げるのは非礼だが、気分良く宴を終えた風演にそれを咎める気はなかった。
酒に酔った目で不思議そうに伊宰相を見下ろす。
「至急お耳に入れたいお話がありまする。どうかお時間を頂けぬでしょうか」
「何が起こった?」
「ここでは……」
伊宰相が言葉を濁すと風演も少しムッとして
「言えぬなら、後にしろ」と顔を背けた。
「あ……お待ちを! 陛下!」
さらに引き留めようとする伊宰相を無視して、風演は輿の持ち手に「行け!」と命じた。
輿が持ち上がった瞬間、伊宰相は輿の中の風演の隣に玲の姿を認めた。
「……」
取り残された伊宰相は、内心見下していた風演に侮られた恥辱に震えた。
「あの暗愚が……!」
だが、震えるほどの怒りを抱えると同時に伊宰相の心の一部は冷えていた。
もはや風演は一線を超えた。除かねばならぬ。その為には計画と準備が必要だ。そして次の皇帝となるものを用意しなければ……。
伊宰相が暗い計画を練り始めた一方、輿の中で風演と玲はこれまで以上に親密に肩を寄せ合っていた。
「よろしかったのですか、陛下?」
「潘国公のことか? 構うことはない。用があるなら、明日向こうから言ってくるだろう」
「陛下……」
「ははは、よいよい!」
風演は玲を肩に抱き微笑した。
そしてそのまま二人は嫦娥宮の中に消えていく。
もう二人の間を邪魔するものはない。
この身で陛下が安らぐというのなら差し出しましょう。慈愛に似た気持ちで、玲も風演の求めに応じようとしていた。
風演は玲の腰に手を回して、抱き寄せると薄紅色の唇に自らの唇を重ねた。
腕の中で玲の体が身悶えする。
「玲……」
「……大家」
ハッとして風演は目を開く。
腕の中にいたのは、もはや玲ではなかった。
「あ……雪瑜、戻ったのか」
雪瑜は真っ赤な目で恨めしそうに風演を睨んだ。嫉妬である。
雪瑜にとっては例え自分の半身であろうと、風演と情を交わすのは許しがたい行為だった。
目に涙を浮かべながら雪瑜は風演に詰め寄る。
「大家。この私ではご不満か? 玲の方が良いというのなら今すぐ変わりましょう……」
「いや、それは……」
雪瑜に懇願されると風演はあっさり落ちた。どれほど不満があろうと、彼女ほど風演の心に深く入り込んだ女はいない。
「そ、そんなことはないぞ。お前と比べられる者などいようか。いまにお前を皇后にしよう。雪瑜、お前だけをだ」
「そう言ってもらえるなんて嬉しい、大家!」
皇帝の胸に飛び込みながら、雪瑜は半身に語り掛けていた。
お前がこの人とじゃれ合うのは構わんが……譲った覚えはないぞ、玲。
大家は私の物だ。
都での任務を終えた石豹と配下の鴉兵は、馬首を西域へ向けて出発した。
このとき注意深い者がいれば、旅団の列の長さが来朝した時とほぼ変わらないことに気付いただろう。
実は石豹に贈られるはずの三百名の虎賁兵は、実際には贈られず、三百名分の装備一式のみが下賜されたのであった。
そのことに気が付く者は殆どいなかったし、幾人かは妙だと思った者もいたが、そのような者には兵団の数が多くなったので、分かれて後日出発することになったという説明がされた。
だが後に明らかになるが、この秘密裏に残された三百名は結局神都から離れることはなかった。
惜別の会を開いた風演だったが、なおも別れを惜しむ彼は、城門を出てからも西域に向かう石豹に半日も付き添った。
やがて小さな町に到着すると、石豹は苦笑して
「いやはや、陛下。私めのような胡人をここまでお気に下さって、感激でございます。しかし、これ以上は御政務に差し支えましょうぞ……」
と、やんわりと風演に別れを告げた。
「そうか。将軍、お前は昭国の柱石だ。必ず生きてまた会おうぞ。西域に倒れるなど孤は許さんぞ」
「ははーっ!」
深く叩頭する石豹の上に、ひらりと布地が触れた。
「?」
「孤からの餞別だ」
石豹はちらりと上目づかいで目を開けた。なんと皇帝風演自らが着ていた袍を脱ぎ、石豹に羽織らせていた。
さらに
「その靴も随分傷んでいるな」
そういって左右の者に目をやると、配下の一人が新品の靴を捧げ持ち、石豹の前に置いた。
「へ、陛下……」
思いがけない贈り物に感極まった石豹は深く額ずき、牛の鳴き声のような声を上げて泣いた。
「ブォォォォォォォォ! オォォォォォォォォ! 我はこの身朽ち果て魂魄だけになろうとも陛下と昭に仕えましょうぞ!」
「泣かずとも、よい。さあ将軍、立ち上がってくれ」
「オオオオオオ……」
感涙する将と、肩を叩いてやる皇帝の光景は見る者の胸を打つ美しい光景であった。
雪瑜ですら、かつて自分が風演に見いだされた日の姿を重ねて、涙ぐんだほどである。
だが、後にこのことを報告された伊宰相は、感動するどころか眉を吊り上げて嚇怒した。
これで石豹は九命の錫を揃えたことになる。いまはまだ沈黙しているが、いつでも王を名乗る資格があるということだ。
あの蛮人め! 盆暗の皇帝め! おのれ、おのれ! この伊玄曹を侮ればどうなるか、目に物見せてくれる。




