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第三十六回 策謀、貴酒、恋

 武挙の補佐という役目も終わり、石将軍が西域に帰還するという運びになって、伊宰相はひとまず胸を撫でおろした。

 石豹の滞在がズルズルと長引いて、そのまま重職につく事態は避けられた格好である。

 部下どもを連れて早く帰れ、というのが伊宰相の偽らざる本心だった。 

 だが、まだ安心しきらない伊宰相は石豹に対する皇帝の動きを探らせていた。


「これが、陛下が石豹将軍に下賜する品の目録になります、伊宰相」

「おう、よく調べた」

 部下から目録を受け取った伊宰相は、それをパラパラと眺めていたが、やがて憎々し気に呟いた。

「いくらお気に入りと言っても……武挙を少し手伝った程度でこれだけの品を与えてやるとは……ん?」

 目録をめくる伊宰相の手が止まる。

 そこには辺境での生活に彩を加えるよう染料、玉や宝石など様々な品が書き込まれていた。

 しかし宰相の目を引いたのは、車馬や兵や弓矢などといった物々しい物まであるということだ。

 石豹の根拠地である西域は耐えず異民族との戦いが行われているので、確かに兵馬や武器は何よりの贈り物となろう。

 しかし……。

 政治家としての本能というべきか。伊宰相は違和感を覚えた。何かそこに不穏なものを感じたのである。

 別の報告によれば、石豹の持つ戦力は充実し、異民族を圧倒しているという。しかも大きな戦もない今、追加の兵馬を送る必要があるだろうか。

 疑念を持ちながら、伊宰相は目録を読み上げる。

「馬車二台に馬八頭……兵三百名……。妙だな、なぜ陛下は兵馬など賜る気になったのだろう? それにこの馬車二台というのはなんだ?」

「それは戦に使うものではなく飾り馬車であるとのことでした」

「飾り……?」

「それとこれは未確認なので主にお伝えするか迷いましたが、それらは石将軍の方から陛下にねだったという話もあります」

 報告者がそういうと、伊宰相は眉間に皺を寄せた。

「石将軍が?」

「確認は取れていませんが……」

「だがそのような噂はあるということだろう」

「左様で」

「……」

 確認は取れていないということだが、石豹が陛下に兵馬を要求したというのは事実であろう、と伊宰相は考えた。

 褒賞に兵馬を贈るなど文弱の皇帝の発想ではない。

 そしてもし本当に石将軍が兵馬をねだったというのなら、それは軍事的必要性というより政治的な意味があったはずだ。

 一体それは何だ? 

 胡人の将軍が本当に欲しいものは一体何だ?

 と、伊宰相は頭をひねる。

「都の常備軍は減少傾向にある。先の武挙で多少補充したとはいえ、羽林軍も大幅に削減した。石将軍に賜るこの兵三百名はどこからひねり出した?」

「金吾衛配下の都卒を始めとして十二衛の府兵の中から選抜したようです」

 金吾衛とは主として都の警備を担当しており、これは現代の日本に例えるなら警視庁から人員を引き抜いたと言っているようなものである。

「急に辺境に送られるとあっては、府兵の不満も多かろう」

「はい」

「そのような兵を集めて石豹は何を考えている……?」

 伊宰相は独り言のように呟いた。

「陛下はいま、なにをしておられる?」

「石将軍との別れ惜しみ、酒宴を催しています」

「ちっ」

 遊び惚けておるわ。

 伊宰相は複雑な思いを込めて舌打ちした。


 近頃の皇帝は自立心を持ち独自の指導力を発揮し始めている。

 そのような行為は政治的には目障りな動きだが、人としてはどうだっただろうか。

 同じバカ殿でも、外の世界に関心を持たず、酒と女と芸事に耽ってばかりのバカ殿よりはマシになったと心のどこかで思っていた。

 だが、あの女──雪瑜が少し引っ込んだだけでこのザマとは……。


 伊宰相は部下を下がらせると、自身も心にわだかまりを抱えたまま天井を仰いだ。

「あの胡人め、何を考えている……」

「九つの命得る者、即ち天命を得たり」

「誰だ!?」

 誰もいないはずの部屋の外から、思いがけず言葉が返ってきた。

 伊宰相はカッと目を見開き、咄嗟に部屋の壁に掛けてあった剣に手を伸ばす。

「何者じゃ! おい! 誰ぞおらんか! 出会え出会え、曲者だぞ!」

「九つの命得る者、即ち天命を得たり……」

 謎の声の主は再び繰り返すと、それきり気配を消した。

 気色ばんだ伊宰相の部下たちが駆けつけたとき、もはやそこには何者の痕跡もない。ただ言葉だけを残し影は去った。

「宰相御無事で!?」

「ああ……。いったい何者が、何のつもりで……」

 伊宰相は瞑目して考えを巡らせていたが、やがて左右の者に司業を呼べと命じた。

 司業とは最高学府の教授に相当する役職である。伊宰相はそこから知恵を借りて石豹の行動の謎に対処しようとした。



 その頃、風演は自分が行った行為に不快感を覚え、悶々として過ごしていた。

 政務を終え、石豹を送り出す酒宴の準備を行っていたところだが、どこか上の空である。


 しまったなあ。酒に呑まれたか。

 玲を怖がらせたかもしれぬ。

 誘うにしても酔った時でなくともよかったな……。


 さらさらと小雨が降りしきる中、雨音の中に足音を忍ばせた焦螟がそっと風演に近づいて囁いた。

「月巧妃様がお会いになりたいそうです」

「雪瑜が戻ったのか?」

「いえ、欧陽玲様の方です」

「玲が……老爺(じいさま)よ本当か」

「すぐそこまで来ております。どういたしましょう?」

「どうもこうもない。()も会いたいと思っている……あ」

 顔を上げた風演の視線の先に、既に玲が立っていた。

 その顔はほんの少しだけ愁いを帯びている。

 風演にはその様子がまたたまらなく艶めかしく思えた。

 古代の美女である西施は、眉を顰めるさまが艶麗であったと伝えられているが、玲も同種の美しさを備えていた。

 玲はおずおずと近づき、風演の前にぬかづいた。

「陛下、昨夜は大変失礼いたしました。ご寛恕くださいませ」

「あ、いや、気、気にするな! ()はもう忘れた。玲も忘れよ!」

「はい」

「それよりもこれから石将軍をもてなす宴がある。玲も参加せよ」

「それでは臨席させていただきます」

「気軽な席だ。そのような堅い口はよせ、石豹も縮こまってしまうわ、ハハ、ハハハ」


 こうして仙遊宮にて惜別の会が開かれた。

 皇帝主催の宴だったが、あくまでごく私的なものという扱いで参加者は多くない。

 しかし逆説になるが、公的なものではなく政治と無関係な会であるからこそ、この会は最も政治的に重要であるとも言えた。

 皇帝の権力は時に政道を超越するからである。

 会には普段から風演が目をかけている寵臣や庵室の学士たちの姿が多く見えた。皇帝直属の政治勢力である。徐々にだが、風演は皇帝は本来の姿を取り戻しつつあった。


 その席に玲は見事な花を添えた。

 皇帝自らが楽器を手に取り、『心對心』や『月君』を演奏し、それに合わせて玲が舞う。

 風演と玲の共同作業を邪魔しないよう人々は息を呑んだ。

 玲には雪瑜のような、人を深遠に引きずり込む魔性はない。技巧においても、やはり玲は雪瑜に及ばない。

 だが、そこには雪瑜の物とは違う美があった。

 いうならば静かな力強さである。降り積もった雪を押しのけて芽吹く新芽のような、見落としてしまいそうな小さな美。


 演奏が終わると、感極まって目を濡らした石豹は大声で叫んだ。

「凄い、素晴らしい! なんということだ! なんということだ!」

 そして石豹は風演の手を取った。玉体に触れるのは礼を失しているが、周囲にそのことを感じさせない雰囲気が石豹にはあった。

「我のような雑胡に、皇帝陛下御自らの演奏、月巧妃陛下御自らの舞踊、か、感激いたしました。もはや末代までの栄誉! 今日この日のことを我は決して忘れませぬ! 明日西域に倒れようと悔いはございません!」

「お、おい将軍。倒れてもらっては困る。将軍には長く昭国を支えてもらわなければならぬからな。必ず来年も上申に帰って来いよ」

「は、ははーっ」

 そう言って叩頭した後、石豹はすっと立ち上がって「次は我が一曲爪弾きましょう」と宣言した。

 手にしたのは琵琶に似た西域の楽器である。

 

 ジャジャン、と弦をかき鳴らし石豹は高らかに歌った。

「夢に破れ、泗上で憩う~!」

「ブッ」

 一瞬、周囲はざわついた。顔を背けて笑みをかみ殺す者もいる。

 西域に音楽なしとは言わないが、このとき石豹が弾き語りしたのは『凌波曲』である。

 つまり主に女性が好む恋愛歌であり、日々戦場を駆ける石豹にはいかにも不似合いで滑稽だったので周囲の笑いを誘ったのだ。

 ところが、歌はやや調子が外れているものの、石豹の手先は意外に器用で演奏自体は見事であった。

 また声に関しても、戦場で叫び慣れているのか、太った腹から出る声は一種独特の迫力がある。

「これはこれで、良いものだ」と、すぐに周囲は石豹の歌の評価を改めた。


 石豹の歌は進み若い男と竜女が出会い、一旦は別れる下りに進む。

 そこで玲はハッとして風演の手を取った。

「陛下、将軍の歌に乗って玲と一差し舞いませんか?」

「いやそれは……」

 玲は照れながら渋る風演の手を握って強引に立たせた。

 ワッと場は盛り上がり、驚嘆の声が挙がる。

 玲はまだ照れている風演をリードして、石豹の歌声と演奏に合わせて舞った。


 男と竜女は出会い、恋に落ち、別れ……そして永久に結ばれる。湖底の城でいつまでも幸せに暮らす。

 ジャジャン、と石豹が歌い終えると、一斉に称賛の声が上がった。

「さすが飛将軍石豹殿だ!」

「陛下と月巧妃様のなんと美しいことよ……」

 石豹は頭を掻いて恐縮して見せた。

 一方、風演と玲に溢れる賛美は聞こえていなかった。二人は濡れた目で見つめ合い、玲は風演の胸に飛び込んだ。

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