第三十二回 波乱の武挙
武挙の日取りが近づく中、潘国公伊宰相は静かな苛立ちを見せていた。
今回の武挙は己が推薦した者の失態で始まったとか、月巧妃の意向がチラチラと見え隠れするとか理由は様々だが、もっとも理由として大きいのは政敵が躍進しているということである。
目下その政敵とは石豹将軍であった。
このひょうきんな小太りの男は皇帝に目をかけられ権勢を振るっていた。
しかし、石豹は遠い辺境を守る将軍であり、その権力は中央にあまり影響力を持たない。これまではそれが安心材料だったが、武挙の顧問として呼び出され、さらに新たな役職を与えるという話が出てきては伊宰相としても心中穏やかではなかった。
石豹が中央で登用されるなどということになれば、自分がいまの地位が追い落とされかねない。
「石将軍が御史太夫だと?」
部下から報告を聞いて伊宰相は目を剥いた。
鋭い眼には猛然と怒りが滲んでいる。
娘が後宮が追われた時も、これほどの怒りは見せなかった。
御史太夫とは官僚の監察官であり、百官を見張り、不正があれば弾劾して内規を糺すことを役目とする、強い権力を持った役職だ。
政敵がこんな役職についたらたまったものではない。
「あのぼんくらめ」
皇帝に向けて唾を吐くようにそう言うと、伊宰相はすぐに風演の懐刀である焦螟の元に向かった。
「これはこれは、潘国公殿いかがしましたかな?」
老宦官はいつもの妖怪染みた微笑で伊宰相を迎えた。
「ちと、相談したいことがある。場合によっては焦螟殿から陛下に掛け合って欲しい」
伊宰相は力強い口調であった。
「それはそれは。一体どのようなことで?」
「石将軍のことだ。陛下が将軍を御史太夫に推しているというのは本当か?」
「さて、拙の如き小人では陛下の宸襟など窺い知れませぬな」
「もしそうであるなら、お取りやめ下さるよう焦螟殿からも言って欲しい」
「影に過ぎぬ拙が陛下に意見するなど──」
「そのようなことを申している場合ではない!」
焦螟の言葉を遮って伊宰相は一喝した。
「あの胡人にこれ以上の権力を与えれば、とんでもないことが起きるぞ。石豹はすでに二つの節度使を兼ね、昭国で誰よりも巨大な兵力を動かせる身だ! さらに私の調べでは降した柔夏の胡人たちを配下に収め、昭国が関知していない兵力を集めているという。今や石豹は北西域では王の如く振舞っている。そんな男を御史太夫などにしたら、国が割れるぞ!」
「ならば潘国公御自らがそのように陛下に伝えればよろしい」
「分かっておろう。陛下はただお気に入りの胡人に御史太夫という地位を贈り物をしたいだけだ。私の言葉でそれを止めてはいい顔をしない。それができるのは陛下が好意を寄せる者だけだ」
「……」
「焦螟殿、言っておくがこれは私利私欲の為ではないぞ。最近陛下が取り立てた魏澄子とかいう諫官も同じ意見だ。昭国の将来を想えばこそ」
しばらく考えた後、焦螟はゆっくりと伊宰相の意見を飲み干すように頷いた。
「分かり申した。確かに少々危険ではあります。さて、陛下が拙の如き家奴の言葉を用いるかどうかは存じ上げませぬが、やってみましょう」
伊宰相の働きかけの結果かどうかははっきりと判別しないが、この後石豹が新たに何らかの役職を賜るという噂は急速にしぼんでいった。
その情勢の変化を石豹も察知したはずだが、表面上の変化はない。
怒りも失望も見せず、石豹は粛々と武挙の準備を行っていた。
後宮の中にいる雪瑜も宮廷で囁かれる噂の変化に気付いていた。
廷臣にも雪瑜に朝廷内の話を伝える者がいるのである。
彼女は誰よりも分かりやすく反応した。
「面白くありません」
と、はっきり風演に自分の意向を伝えたのである。
風演も辺境の将軍を厚く遇していたが、雪瑜はそれ以上に強く石豹を推していた。
雪瑜は怪物の子、石豹は胡人。
共に身を立てねば、世間の人々から蔑まれる立場でるということが、雪瑜に石豹への共感と親近感を生んでいたのである。
同時に彼女は、生まれ持って高貴な身分にある伊宰相を憎んでいた。
「まあそういうな、雪瑜。石豹将軍とて節度使を兼ねながら朝廷に詰めることは出来まい」
「でも、かつては朝廷に詰めながら、節度使を兼ねる者もいたはず」
「それは昭以前の王朝で、大臣共の権力争いの結果そんな奇妙なことになったのだ。私はそんな愚かなことはしない。石豹は北西域の要石、動かすことは出来ん」
「……全く面白くない」
雪瑜はそう繰り返し、プイと横を向くと体の支配権を乱暴に手放した。
目の炎が消え、新雪のように白い髪が黒く染まり、一回り手足が縮まっていく……。
娘がハッと声を上げたとき、その娘はもはや雪瑜ではなく、欧陽玲であった。
覚醒した玲は、いきなり目の前に風演がいるのに動揺しつつも何とか言葉を絞り出した。
「……あ、こ、これは陛下」
「や、やあ玲……」
風演はバツが悪そうに目を伏せた。
「どうされましたか?」
「いやその、な」
風演の歯切れの悪い様子に一瞬首を傾げた玲は、次の瞬間頬を赤らめて叫んだ。
「わ、わあぁぁぁぁぁっ!」
目の前の皇帝は裸だったのである。さらに自分自身も裸であることに気が付いて、一層大きな声で玲は叫んだ。
「きゃああああああああっっ!」
「あっこれ、玲!」
さらに玲の大声に気付いた腰元の女たちが部屋の外でドンドンと戸を叩く。
「陛下? 月巧妃様? どうされました!?」
「なんでもない! なんでもない! と、とりあえず服を着ようか、玲!」
「あー、もう、せ、雪瑜ぅぅぅ!」
しばらく嫦娥宮で俄かに起こったこの騒動は、しばらく侍女たちの笑い話になった。
「小さな方の月巧妃様は可愛らしいわね」
「ということは、陛下に抱かれてるのは雪瑜様だけだってこと? なぜ陛下は玲様に手を付けないのかしら」
「さあ? 雪瑜様の嫉妬が恐いのかもしれないわ」
「ああ~」
侍女や下級の妃嬪たちは好き勝手に囁き合った。
ほのぼのとした一幕である。
だが、風演が玲の裸体を見たのは、玲のことを美しくさえずる籠中の鳥ではなく、女として意識し始めた瞬間であった。
研ぎ澄まされた雪瑜とはまた違った美。
田舎の路傍に咲くタンポポのような可愛らしさ。
風演の中に、この小さな花を優しく摘み、手の上で転がしてみたいという気持ちが一瞬生まれた。
しかし、風演は皇帝に許された夜の権利を行使することなく、表面上、何事もなかったかのように振舞っていた。
同時に、この一件以降、雪瑜は表に出ることが少なくなった。しばしば雪瑜は不機嫌になるとこのような態度で怒りを表す。
武挙の当日も雪瑜は姿を見せず、代わりに玲が月巧妃として参観した。
この日の都で行われた武挙は、事前に各地方で行われた予備試験を通り抜けてきた者による本試験である。
それもあって軟弱な貴族の子弟とは一味も二味も違っていた。
といっても、玲に軍事のことなど分からない。
何かを口を出すこともなく、物々しい兵の様子を眺めていた。
「流石に先日落第した者たちとは違うようだな」
風演は周囲に聞こえるように言った。
走る姿、弓を引く動作、騎馬へ跨る姿など所作の一つ一つに力強さがある。
重い荷を背負い、長い距離を歩く体力試験など、貴族の子弟はすぐにへばって脱落したが、今回集められた者たちは気迫が違っていた。歯を食いしばっても前へ進もうとする意志が感じられる。
劉幹がすかさず答える。
「は、彼らを一層磨き上げれば、再び羽林軍は栄光を取り戻すことができましょう」
「どうかな、石将軍の目から見て?」
風演は石豹にも意見を求めた。
「中々良いと思いますな。ま、少々気負い過ぎにも見えますが、陛下の前で緊張しているということにしておきましょう」
新たな武挙はそのままつつがなく終わると思われた。
実は元々試験の合否は地方の予備試験を突破した時点でほぼ完了しているのである。
あえて皇帝の前で御前試験を行うのは最後の確認と、儀礼的なものに過ぎない。
試験が終わり全員の合格と羽林軍への編入が言い渡されると、すぐさま祝いの宴が催される手筈になっている。
だが合否発表を終えた劉幹が「これより諸君が名高い鴉兵に勝るとも劣らぬ兵になることを期待する」というと、試験を受けたばかりの兵の一人が異議の声を上げた。
「待った!」
一斉にその声を上げた兵へ視線が注がれる。
声を上げたのは、一際背の高い、筋骨隆々とした大柄な兵だった。
年は若そうだったが、よく響く声といい、堂々とした立ち振る舞いといい、どこか将の風格がある。とても今さっき入隊したばかりの者とは思えない。
さらにその男は周囲の視線に怯むことなく続けた。
「いまの将軍の言葉は聞き捨てならない。それでは俺たちが鴉兵に劣っているように聞こえる! 訂正してもらいたい!」
目を血走らせた羽林兵が、見習いの無礼な態度に怒り、取り押さえようとして向かった。
だが、それよりも早く石豹将軍が高笑いして見せた。
「はぁーはっはっは! 活きのいい小僧がいるな! どうかな陛下、劉将軍。こやつの度胸に免じて一つ余興を設けたいのだが」
「余興?」
「本当にこやつが我が鴉兵よりも強いかどうか、一対一の試合をさせたい」
「確かにこれだけ大勢の前っで大言壮語を吐く男、度胸は大したものだ。ただ罰するのは勿体ないかも知れんな。よし、孤は試合を知ることを許すぞ」
皇帝がそういうと、劉幹も頷いた。
「陛下がそう仰るのであれば、異存はありません」
「よし決まった! おい小僧、貴様は名を何という!」
若者は依然堂々とした態度で答えた。
「さすが石将軍だ。話が分かる! 俺の名は馮 嘉だ!」
石豹は口元に笑みを浮かべつつも、鋭い目つきをしたまま、あの鍾馗の仮面を着けた戦士を呼んだ。
「やれるな、喫邪?」
「無論」
そう短く仮面の戦士は答えた。




