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第三回 天香妃

 玲/雪瑜は仙遊宮に入り、そこで鳳巣館という館が与えられ、二人の侍女と共に寝起きした。

 瞬く間に二か月が経過したが、その間に鳳巣館を訪れる者は殆どいない。

 ただし、一度だけひょっこり皇帝風演の訪問があった。

 風演は一番のお気に入りである寵姫、天香(てんこう)妃にせがまれて、妖仙の血を引く雪瑜を見物に来たのである。

「天香がどうしても雪瑜を見たいというので、な」

 と風演は言った。

 その傍らに立つ天香妃は、豪華絢爛という言葉が衣を着ているかのようだった。


 ──天香国色という言葉がある。

 それは、天下一の香りと国一番の色を持つという意味であり、百花の王である牡丹を指す言葉である。

 天香妃とは彼女が牡丹を好む為に付けられた()であるが、天香妃本人も自分こそが天下一の美貌の持ち主である、という態度を隠していない。

 肉付きの良いふくよかな体に、金糸銀糸を用いた輝くような金襴の着物を纏い、甘い香りを漂わせながら、自信たっぷりに玲に近づいた。

 見る物を圧倒する、壮烈な美。後宮に君臨する花の王。

 玲が初見で天香妃に抱いた印象は、そのようなものだった。


 天香妃は玲の顔をしげしげと眺めたあと、厚く紅を引いた口元から、澄んだ鐘の音のような声を出した。

「まあ、まあ。この方が雪瑜? 雪のように白い髪をしていると聞いていましたのに、普通の髪に見えますわ」

 まるで珍獣を見に来たというような扱いだったが、相手は大物である。

 玲は恭しく揖礼した。

「初めましてお目にかかります、天香妃様。私は欧陽玲と申します。雪瑜とはもう一人の私の名でございます」

「もう一人の貴方? ふうん、芸事を行う時、名前を変える者がいるようだけれど、貴方もその類なのかしら」

「いえ、そうではなく、私の中にもう一つ別の心と姿を持つ者が隠れているのです」

「くっくっく。そういう趣向なのね」

 天香妃は玲の言葉を全く信じていなかった。奇抜な仕掛け(トリック)で皇帝に取り入った者だと、そのように玲を見ていたようだった。

「いま、会えますか? その雪瑜に」

「えっ」

 玲は答えに窮した。雪瑜がいつ出現するかは玲には分からない。全ては雪瑜の気分次第である。

 ただ、今は出てこない気がした。彼女がこんな見世物同然の扱いをされて、出てくるとは思えない。

 困った玲は天香妃をおだてて遁辞を構えることにした。

「今日、雪瑜は現れないでしょう。天香妃様の美しさに驚いて恥じ入っているからです」

「でしょうね」

 当然だとばかりに、天香妃は言った。

「千年生きた猿神の娘である方……どのようなものか興味があったけれど、やはり現実はこのようなもの。ほほ、そもそも千年も生きた猿など本当にいたのかしらね」

 天香妃は露骨に欧陽玲の生まれを揶揄する言葉を吐き、皇帝の腕を取る。

「じゃあまたね、山首(さんしゅ)の娘さん」

 去り際に天香妃はそう言い、皇帝を押し出すように鳳巣館を出て行った。


 天香妃が去った後、玲は彼女が残した一言に愕然としていた。

 山首とは、玲の実父である年経た化け猿の名である。

 しかし、それを知る者は限られていた。

 猿を退治した、欧陽乙を始めとする欧陽家の者と、猿退治に参加した欧陽乙の配下の兵だけのはずである。

 しかも欧陽家ではその名は忌み嫌われ、名を呼ぶことは憚られていた。

 山首の名は極々身内しか知らないはず……それを天香妃は一体どうやって知り得たのか。信じられない地獄耳だった。

 天香妃はただ美しく高慢なだけではない。恐ろしいほど多くの耳目を揃えている。

 これが後宮の政争を生き抜いた者かと、玲は舌を巻いた。



 電撃的な風演と天香妃の訪問の他は、ニ、三度、欧陽乙の使いという者がやってきて、衣服などを揃えるようにと金銭が送られてきたくらいだった。

 風演はおろか、焦螟の来訪もない。

 玲は焦螟の用意した講師に文字や舞踊を習いながら、静かに時宜を待つ。

 しかし、どう心を鎮めようとしても、玲の心は落ち着かなかった。


 仙遊宮は人造の仙境である。

 傘のような形の血を流す木や、信じられないほど巨大な藤の老木、絶妙な角度で曲がりくねった梅。そして桃源郷に倣い植えられた、見事な桃の木の木立。

 まるで大魚が水に潜る姿を切り取ったかのような形をした岩、龍が雲に足を掛け登っていくが如き荒々しい奇岩などで作られた滝。

 さらに切り立った岩を並べ、荒々しい山脈に見立てるなどの趣向を凝らしている。

 全国から集めた奇岩珍木に加え、当代随一の彫刻士らに彫られた石の龍や鳳凰を配した庭は、この世ならぬ幻想的な光景を作り出ていた。

 また、建造された宮殿も神仙の居に相応しいよう、楼閣や館は当然として、小さな庵や東屋に至るまで、無数の朱と玉で飾られていた。

 さらに、それらを照らす照明に使われているのは、ただの油ではなく、貴重な鮫人の脂を使用している。

 鮫人の脂を用いた火は、青白く月明りのような柔らかな光を生み出し、それがまた仙遊宮の趣きに妖しい彩を沿えるのだ。

 それぞれの部屋にも神仙境を描いた掛け軸などが下がり、博山炉という崑崙山の形を模した香炉が、甘い香りを漂わせていた。

 曲がり角から、本当に神仙がひょいと顔を覗かせるのではないかと思わせる見事な宮殿だったが、それが玲には苦痛だった。


 ここにある全ては偽物。

 玲の目にはそう映った。

 同居するはずがない木々、あるべき場所から遠く運ばれた岩。

 仙遊宮は不自然の極みであった

 だんだんとまるで吐く息、侍女や講師と交わす言葉、摂取した飲食物、その時感じた味、自分自身の存在すら紛い物になった気がした。

 日常の雑務は全て侍女が行い、当たり前のように据え膳上げ膳。そうなると生きている実感が薄れていく。


 働かないで食べる飯は、味がしないな、と玲は嘆息した。

 そもそも欧陽家では冷遇され、嫁いだ家も富貴とは程遠かった玲である。

 民衆の苦労を知っている玲からすれば、贅沢な生活をすること自体に一種の嫌悪感があった。

 そんな不安から逃れようとして、また少しでも生きている実感を求め、玲は一心に書や舞踊の研鑽に打ち込んだ。

 自分自身に対して言い訳というか、自分には贅沢をしてもよい何らかの価値があると証明しなければやってられなかった。

 

 あるとき筆を執り、詩文を書こうとしたとき、右腕がひとりでに動いた。

『確かにここは偽物の世界、ここでの生活は夢幻の如くだ。しかし、私が本物にして見せよう。お前はそう気張らなくていい。もっとこの夢を楽しめ』

 雪瑜の言葉である。


 お前はそう気張らなくていい?

 もっと楽しめ、だって?

 既に天香妃のように、こちらを調べ上げ、瑕疵がないか探っているような人も出ているのに!

 なんて暢気な奴!

 不意に投げ込まれたもう一人の自分の言葉にむかっ腹が立ち、玲はその言葉が書かれた紙をくしゃくしゃと丸め、壁に投げつけた。



 仙遊宮での生活に不安を覚えていた玲とは反対に、雪瑜はこのような生活が大好きであった。

 金! 権力! 名声!

 それらを極めてこそ人生である、と言って憚らない女である。

 その雪瑜だが、実際に体を掌握している時間はあまり長くない

 多くの場合、一度の出現で半日ほど体を奪うが、全く出現しない日もしばしばあった。

 だが、雪瑜が現れると二人の侍女はいつも緊張した。

 玲は穏やかで物静かな気性だが、雪瑜となれば性格が一変し、当たりが強くなる。

 しかも、引きこもりがちな玲と違って、雪瑜はとにかく出歩くのが好きだった。


 雪瑜が体を掌握すると、まず

「早く着替えを持って来い!」

 と叫んで、外出の準備をさせる。厄介なことに、どこへ行くかはその日の気分次第だ。

 玲/雪瑜は無断で仙遊宮から出ることはできないが、その中であればどこにでも自由に立ち入ることを許されていた。

 その為、雪瑜は暇さえあれば仙遊宮を探検した。

 玲にとって、仙遊宮は居心地の悪い偽物の世界でも、雪瑜にとってはそうではない。

 世界中の不思議を集めた驚異の庭、とそのように捉えていた。

 珍木奇岩は言うに及ばず、仙術を用いると自称する道士や、先祖から代々鬼術を伝えられているなどと宣う者、つまり自分の同類も多くいて、雪瑜は彼らの嘘か真かも分からぬ話を聞くのが好きだった。

 それゆえ雪瑜はいつも侍女を急き立てて、あちこちに出向いた。

 しかし、宮廷の片隅で忙しなく駆けずり回っていた雪瑜は、同時に講師から歌舞を習う際は、玲以上の熱心さで稽古に打ち込むという意外さを見せた。


 玲と雪瑜はこのようにして、外部から忘れ去られたかのような生活を送っていたが、突如として風向きが変わる事件が起こった。

 その切っ掛けになったのは、都から遠く離れた辺境の情勢の変化である。

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