第二十九回 狩場での事故
御苑での狩りは文官だけでなく、むしろ武官の方が多く参加する。
よく言えば風流、悪く言えば文弱の風がある風演は、若干いつもより緊張していた。
だが、そんな風演をよそに狩場の雰囲気は弛緩していた。
狩猟は皇帝と宮臣たちの親睦を深めることが目的の行事である為、和やかな雰囲気であること自体は悪いことではない。
だが一団の護衛役を務め、狩りを助ける羽林兵の態度は和やかとはまた違っていた。
──緩い。
と、雪瑜は心の中で渋面を作った。
羽林軍とは皇帝直属の近衛兵であり、平時は皇帝の身辺を守ることを職務とする。
つまり、ひとたび乱が起きれば、皇帝の身を守る最後の砦となる部隊だ。
だがこのとき、羽林軍は単なる名誉職になり果てていた。
身に着けた鎧兜は華やかで、ピカピカに磨かれているが、それは武具の手入れを怠っていない証ではなく、彼らの実家の裕福さを示しているに過ぎなかった。
肝心の中身はというと、戦など経験したことのない貴族の子弟が大半を占めている。
皇帝の妃でありながら狩りに参加した雪瑜が珍しいらしく、兵たちはチラチラと雪瑜の方を見て様子を窺っている。
たまたま将兵と目が合うと、雪瑜はその者に柔和な笑みを見せた。
表面上は澄ました顔を装っていたが、腹の中は煮えくり返っていた。
こんな兵では役に立たん。
陛下より女の顔が気になるようでは!
どこから改革の手を付けるか悩んでいたが、このとき雪瑜は決めた。
そして一旦決断すると、雪瑜の行動は早かった。
狩りの中盤で、何匹か獲物が引き出されてくるようになると、雪瑜は左右の者に向って言った。
「次に私が指した獲物を一射で仕留めた方に、褒美として金帛を与えましょう!」
「ほうう?」
それを聞いた者たちが俄かに盛り上がる。
雪瑜が振り返って風演の方を向くと、皇帝も頷いた。
「構わん、面白い余興だ」
風演の了解を取り付けると、雪瑜は左右の羽林兵たちも獲物を追う様にけしかけた。
「さあ、貴方たちも行きなさい。射止めたものは誰であれ褒美を与えるわ」
「えっ。しかし……」
羽林兵は初め躊躇った。
しかし、さらに雪瑜が行くように促すと、断り切れなかったのか、褒美に目が眩んだのか、一騎、また一騎とその場を離れる者が現れた。
そして僅かでもそのような者が現れると、独り歩きした褒美の約束と共に、多くの羽林兵たちが獲物を求め、馬を走らせた。
やがて、木立から追い立てられた鹿が躍り出ると、雪瑜は叫んだ。
「あれよ!」
雪瑜が獲物を指し示した瞬間、一斉に矢が放たれる。
「やったぞ!」
一人の兵が歓声を上げ、獲物を意気揚々と獲物を持ち帰った。
雪瑜は満足げに頷き、その兵の氏名を確認させる。
「褒美は帰ってから取らせましょう」
「はっ。ありがたき幸せ!」
褒美の約束をすると雪瑜はもう一度声を上げた。
「さあ、次よ!」
しばらくして、再び一頭の鹿が追い立てられてきた。
だが、先ほどと違って雪瑜はすぐに指示は出さず、少し兵たちを焦らした。
一秒、二秒、三秒……。
「あれを射って!」
待ってましたとばかりに、風を切る弓鳴りの音が響き渡った。
結果、鹿にはほぼ同時に二本の矢が突き刺さり、どうと倒れる。
「よし!」
「いや俺だ!」
二人の兵が互いに自分こそ獲物を仕留めたと言い合ったが、雪瑜は笑って口論を止めるように言い、その二人ともに褒美の約束をした。
「ははーっ! 恐悦至極にございます!」
「今度が最後よ!」
二人の兵を下がらせると、雪瑜は周囲に聞こえる様にそう宣言した。
褒美が貰えることを期待する兵や貴族たちは、逸る心を抑えて獲物がやって来るのを待った。
やがて、木立の方から声が上がった。
矢を構えて待ち構える射手たちの前に、二頭の鹿が現れる。
二頭か!
内心で、兵たちはそう歓喜した。幸運の確率はこれで倍になった。
馬上で弓を番えたまま、固唾を飲んで雪瑜の合図を待つ。
「……」
不気味な静寂だった。
雪瑜は中々合図を出さず、前よりもさらに兵を焦らした。
「……?」
不安になった者が獲物ではなく雪瑜の方を振り返るが、合図は出ない。
雪瑜の指示よりも先に鹿が動いた。
ああ……もう鹿が行ってしまう!
「おっおっおっ!?」
ドダン!
焦った兵の一人が前のめりになりすぎて、弓を番えたまま落馬した。
その音に驚いて、思わず弓を射ってしまう者、我慢できず鹿を追いかけてしまう者が現れた。
「お、おい!?」
偶然から生じた混乱は、雪瑜の「あの二頭を捕まえよ!」という声で、さらに拡大した。
堰を切ったように兵たちは鹿を追いかける。
そして、高まりすぎた熱気が、多くの事故を引き起こしていた。
周囲の勢いの変化について行けず落馬する者、その落馬に巻き込まれる者。
スタートを切るのが早すぎた者の中には、後ろからやってくる者の矢に当たり負傷した者もいた。
「わああああ!」
「止まれ! 止まれ!」
戦場さながらの声が響く。
大混乱になった狩場を眺めて、風演は青くなった。
だが、横にいる雪瑜はツンと澄ましたまま表情を変えない。
「な、なんということだ……」
「なんと無様な。これは羽林中郎将の洪嬰殿に責任を取って頂く他ないでしょうね」
「えっ?」
「たかが鹿狩りでこのような失態を起こしたのです。左遷は当然かと」
「しかし、洪嬰を羽林中郎将に推薦したのは潘国公だ。私にできるだろうか……」
「大家、しっかりしてください。理由は十分です。毅然と臨み、伊宰相に威徳を見せるのです」
「う、うむ。分かった」
雪瑜は弱気の皇帝を懸命に励ました。
結局この日の狩りでは、十五余名の負傷者が出た。
「何たる醜態だ! このようなことでは、羽林中郎将を今のままにしておくわけには行かぬぞ!!」
雪瑜の励ましの甲斐あって、風演は内心ではビクビクしながらも、臣下の前では大いに立腹してる風に周囲を怒鳴りつけた。
内幕を知っている雪瑜は心中で風演のぎこちない演技に冷や冷やしていた。
しかし、何も知らない臣下からすればたまったものではない。
滅多に怒らない皇帝の激怒である。
すぐさま羽林軍の責任者である羽林中郎将を務めていた洪嬰の左遷と、新たに別の者の就任が決まった。
現在、皇帝にとって最大の障害である伊宰相の影響力を弱めると同時に、羽林軍の改革を始めるという、一挙両得の一手であった。
──まず、伊宰相の勢力を弱めなければならない。奴が任命した者を中央から遠ざけ、敵を細切れに分断するのだ。
こうして羽林中郎将の首を挿げ替えた雪瑜だったが、行ったことは力押し一辺倒ではない。
彼女は左遷させられた洪嬰に対し、意外な思いやりを見せた。
「そもそもは私が言い出したことでもあります。洪嬰殿の御家族は厚く取り立てますように、ご聖慮を」
といって家族への連座を打ち消したばかりか、その息子たちを官吏に取り立ててやったのである。
このような硬軟織り交ぜた対応こそ、雪瑜の真骨頂であった。
──いまはまだ表立って伊宰相を始めとする門閥貴族と対立すべきではない。それに取り立てたといっても小官だ。何のほどのことはない。
雪瑜は胸の内で狐のように計算していた。
権力とは一点に集中して初めて意味を持つ。
百人の小官がバラバラにいたところで、たった一人の高官には及ばないのだ。
新たな羽林中郎将には劉幹という人物が登用された。
門閥貴族の一員ではあるが、本流からは遠く比較的貴族色の薄い人物である。
異例の登用の裏には、庵室の学士たちの存在があった。
彼らは宮廷の政治とは無縁であり、それゆえ比較的澄んだ人物評を風演に伝えるのである。
突然の大抜擢に感動し、身を震わせる劉幹に風演は優しく声をかけた。
「将軍の仕事ぶりは孤の耳にも入っていたぞ。劉将軍、これからも職務によく励むように」
「はっ!」
雪瑜も当たり前のようにその場に居て、劉幹に声をかけた。
「陛下は将軍に緩んだ羽林軍のタガを締め直して欲しい、と仰られております」
「はい。月巧妃殿」
「武挙を大いに活用なさいませ」
「武挙を?」
雪瑜は軽く頷いた。
武挙とは科挙の一種であり、武官を登用するための試験であるが、文官を登用する試験に比べて影が薄い。
増してや文官試験すら重用されていないこの時代にあっては、殆ど有名無実と化している。
「そうです。陛下はせっかく作られた制度が活かされていないのがご不満なのです。その為の方法は、陛下の学士たちとよく相談するようになさいませ」
「承知致しました」
「大変な仕事になりましょうが、羽林軍はこの国の最後の砦です。陛下のご期待を裏切らぬよう」
陛下の言葉である、と前置きしながら雪瑜は自らの要望を劉幹に伝えていく。
初対面であるが、劉幹は澄まし顔の若い妃が実質的に皇帝のブレーンであることをなんとなく理解した。
「ははっ!」
羽林軍の風紀振粛。
それが雪瑜が外の世界に対して行った、初めての政治的介入であった。
さらに、雪瑜は皇帝自身に対しても同じことを望んでいた。
華美を控え、実を重んずるということを行って欲しかったのである。だが、そのきっかけが中々掴めない。
そんなとき、雪瑜の元に一通の書状と、文字が記された小さな木片が届いた。
その木片を一瞥すると、雪瑜は少し驚いて目を見開いた。
「これは……」
添えられた書状を読みながら、雪瑜は顔を綻ばせる。
「クックック……」
書状を読み終えた雪瑜はすっと立ち上がり、傍の侍女たちに告げた。
「護景を呼べ!」




