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第二回 老宦官

 後宮はいつの時代も麗人たちがひしめき、その華美を競う場であるが、この時点の風演の治世では、後宮の頂点に立つ正皇后の座は未だ空位であった。

 それゆえに風演の後宮では、皇后の座を射止めるべく、三人の妃を筆頭に、百余人の佳人麗人が静かな、しかし熾烈な争いを繰り広げていた。

 百人余という数は、あくまで皇帝の妃嬪の数であり、下級の女官は含まれていない。

 宮中内の職務に携わる女官や宦官を含めれば、後宮の人口は優に二千人、いや三千人は超えよう。まさに一つの町とも言える規模である。

 さらに言えば、風演が色に傾倒しつつあったこのとき、後宮の人数は増大しつつあった。

 初対面で欧陽玲/雪瑜に強い興味を持った風演は、彼女を後宮に入れることを望んでいたが、二つの人格と姿を持つ娘がまず留め置かれたのは、後宮ではなく、外廷に作られた人工の仙境、仙遊宮であった。

 この処置は皇帝の意向ではなく、近臣たちが奇妙な生態を持つ正体不明の娘を、いきなり後宮に入れることを警戒した為である。

 もっとも、初めから欧陽玲は妃候補として送り出されたのではなく、神仙の類、下凡仙女とかいう怪しい謳い文句で献上されたのだから、妥当な処置だったとも言える。


「あ……」

 玲が体の主導権を取り戻したとき、既に皇帝との謁見は終わり、体は仙遊宮の一室で藤椅子に腰かけていた。

 意識が戻った途端、疲労がどっと押し寄せ、ぶかぶかの着物が濡れるほど汗が噴き出た。

 死の淵に居た。

 玲は皇帝との会見を思い出して、ゾッと体を震わせた。

 雪瑜が体を操縦している間の出来事も、全く覚えがないわけではない。

 まるで夢を見ているかのようなフワフワした感覚ながら、玲も雪瑜のやっていることを覚えていた。


 もう一人の私は恐ろしいことをする。

 結果的に気に入られたから良かったものの、皇帝陛下にあんな態度を取るなんて信じられない、と玲は泣きたくなった。

 昔からそうだった。いつも雪瑜は玲を振り回してきた。

 玲には自身の未来について、確信に近い予感があった。

 いつか自分は雪瑜のせいで死ぬか、雪瑜に完全に体を乗っ取られるか、そのどちらかだろう、という予感である。

 それは最悪の二択だった。

 だが、そのような未来が待っていたとしても、今すぐ死にたくはない。

 これからどうしよう。

 途方に暮れた玲の小さな体は、体重以上の重さで椅子に沈み込んだ。


 しばらくすると、パタパタと騒々しい足音を立てて、一人の人物が玲の部屋を訪れた。

「ややっ! ここにおられましたか、探しましたぞ、欧陽玲殿!」

 その人物は老いた宦官であった。

「先刻はお見事な立ち回りでございましたな。いやはや、あのような堂々とした振舞い、滅多に見られぬものではありませぬ。我が君も玲殿のことは大層お気に入りになられたご様子。実に結構! 大慶、大慶!」

 宦官は現れるなり、下手に出て世辞を述べ、笑貌らしきものを玲に向ける。

 恐らく笑っているのだろう。

 しかし、顔に刻まれた深い皺と、彼の辿ってきた境遇が、その顔をただならぬものにしていた。

 笑っているのに、まるで泣いているかのような表情で、得体が知れない。

 玲は椅子に座ったまま、本能的に後ずさった。

 これが宦官かと理性で理解しても、男性でありながら男性であることを放棄した正体不明の生き物を、心が受け入れることができない。

「あ、あれは、白猴、いや雪瑜がやったことなので。わた、私は存じません」

 緊張と嫌悪感で玲の舌がもつれた。

「あの、あの、貴方は、ど、どちら様でしょうか?」

「あっ、これは失敬。拙めは焦螟(しょうめい)と申す者。どうかお見知りおきを」

「あなたが、あの……」

 今度は純粋に玲は驚いた。

 焦螟、という奇妙な名前の宦官は、音に聞こえた風演の寵臣であり、このとき内侍省総監、つまり後宮の一切を取り仕切る長官であった。

 その目は後宮の外にまで及んでいるらしく、玲の義父である欧陽乙はどのようにしてか焦螟と繋がりを得ていた。

 その為、欧陽乙は玲に対し、宮に入った後は焦螟殿を頼るように、とよくよく言い聞かせていた。

「慣れぬ場所に放り込まれ、さぞ心細くございましょう。この拙めに何か力添えできることがあるなら、遠慮なく申されよ」

 焦螟はそう言ったが、はっきりいって信用できる相手かどうかは分からない。今しがた顔を合わせたばかりの相手である。

 だが……。

 ──どの道、今の私に他に頼るものはない。

 破れかぶれになり、玲は敵か味方かも分からぬ正体不明の宦官に、思い切って不安を吐露した。

「これから私はどうなるのでしょう。そのことが不安でたまりません」

「ふむう。それは我が君次第でございますな。我が君の聖慮は拙の如き卑官では、到底知り得ませぬが……ま、ま、そう暗くならずに。そう悪いことにはなりますまい」

 そう言ってから焦螟は声を潜めていった。

「我が君は、玲殿と雪瑜殿を大変お気に入りになられました。お声がかかるやも知れませぬ。その為の準備をしておくのは悪いことではありますまい」

 宦官の言葉は多分に曖昧であった。

「それは陛下と臥所を共にするということでしょうか」

「さて、我が君がどのようなお声を掛けるかまでは、拙めには何とも言えませぬ」

「では準備とはどんなことですか?」

「玲殿のような美しく聡明な方には不要かも知れませぬが、何か我が君を楽しませるものを身につけるが宜しいかと。我が君は武芸よりも風流を愛する方でございますので、玲殿が化粧の仕方、多少の教養やその他に技芸など身につければ、それはもうお喜びになられるでしょう」

「ではそのように致します」

「はっ。拙めがお力添えさせていただきますぞ。実はその為に参った次第ですのでな。読み書きはお出来になられますかな?」

「多少は」

「ふうむ。周囲に侮られぬ程度は必要なことでございます。後ほど講師を呼びましょう。それと何か特技などありますか?」

「ほんの戯れですが、舞を褒められたことがあります」

「実に結構! それを伸ばせばよいのでございます。拙めが歌と舞踊の講師も呼びましょうぞ。しかしながら」

 と再び焦螟は声を潜め、それだけでは足りませぬ、と言った。

「よいですか、玲殿。まことに、まことに嘆かわしいことでございますが……」

 焦螟は大げさな身振りで実に悔しいというポーズをった。

「どのような場合であれ、我が君の寵を受けた者を憎く思う者がいるのでございます。そのような不逞の輩から身を守る手段を持たねばなりません」

 貴方自身はそうではないと言い切れるのか。

 という言葉を呑みこんで、玲はじっと焦螟の言葉に耳を傾けた。

「よいですか、玲殿。宮廷は戦場とお考えなされ。力争ではなく、言葉を矢や槍として戦う戦場でございます」

 まことに嘆かわしい、とまた焦螟は大げさな身振りを繰り返した。

「戦場であるなら、城が必要でございます。玲殿の寄って立つところでございます。城壁を高く、濠を掘り、堅牢な城に仕上げなければなりませぬ。拙の言っている言葉お分かりか?」

「はい」

「よろしい。そして、戦とあれば当然兵が必要でしょう。玲殿の耳目となる者や、謀事を練る者も含めてでございます。それらが揃い初めて玲殿の地位は盤石となるのでございます」

 いつの間にか、焦螟の話は宮廷を舞台にした暗闘の心構えについて語っていることに玲は気づいた。

 つまり、焦螟は私がずっと宮廷に出入りする者になると思っているのだ。

「兵と言われましても、身一つでここに連れて来られた私にそんなものは……」

「ですのでな、玲殿ここからが肝心でございますぞ。よっく聞いて下され。玲殿が最も信の置ける兵、それはご身内でございます。欧陽乙殿を始めとする欧陽家の者たちでございます」

「……」

「あっ! いや、最後まで話を聞いて下され!」

 欧陽家と聞いて、玲がほんの一瞬眉を顰めたのを、焦螟は見逃さなかった。

 老いた宦官は自身の本心は決して見せない。だが、他人の心情を推し量ることについては、相当に長じていた。

「玲殿が欧陽家で苦労なさったことは、拙の耳にも入っております。忘れよ、とは申せません。しかし、しかし、ですぞ。ここはなんとか呑みこんで頂くのが、やはり玲殿の為となるのでございます。肝心と申したのはここでございます」

 焦螟は懇々と玲を説いた。

「我が君の前に玲殿を送り込んだ時点で、欧陽乙殿は玲殿に賭けたのです。欧陽家の浮沈は玲殿次第なのでございます」

「まるで私はお義父様(とうさま)の道具だという風に聞こえます」

「違いますぞ。玲殿と欧陽乙殿は利を共有していると申しているのです。使われるのではなく、むしろ欧陽乙殿を使うと思えばよろしい。欧陽乙殿は玲殿に協力を惜しまぬでしょう」

「……」


 玲はしばし瞑目した。

 瞼の裏に一人の男性の姿が浮かぶ。

 やがて目を開けた。

「焦螟様は宗 靖(そうせい)のことも聞いていますか?」

「聞き及んでおりますよ」

「……その上で、お義父様に力を貸せと?」

「もしも玲殿が我が君の寵を受けたのならば、宗靖殿の官途を開くことも容易いでしょうな」

 玲はしばらく口を結んでいたが、やがて諦めたように言った。

 事ここに至っては他に道などないのだ。

「全て焦螟様にお任せいたします」

「任せるなどと……これは全て玲殿と雪瑜殿がやらねばならぬのです。拙はほんの少し力添えするだけ」

「私には何の能もありません。焦螟様におすがりするしか生きる術はありません。何卒、良きようにお計らいください」

「いやあ。これは困りましたな。拙は何の力もない爺に過ぎませぬのでな。ううむ。いや、これは困った」

 と焦螟は腕を組みながら唸った。しかし内心嫌であろうはずがない。

 これで私は焦螟の手駒というわけだ。

 やってきた時と同じように、慌ただしく退去していく焦螟を見ながら、いったいこの宦官は他にどれほどの妃嬪を手駒としているのだろうか、と思った。


「焦螟様」

 玲は最後に部屋から出て行く焦螟を呼び止めた。

「宮廷を戦場に例えられましたが、やはり私は戦は嫌でございます」

「実に結構なことではありませぬか。その優しさは玲殿の美徳でございますよ」

 焦螟は笑った。やはり泣いているかのような、得体の知れない笑顔である。

「ですが、雪瑜は戦が好きなのです」

 今度も焦螟は笑った。しかし、なぜだかこのときの焦螟の顔には泣き顔が消え、笑顔だけが浮かんでいた気がした。

「実に結構なことではありませぬか。その勇は雪瑜殿の美徳でございますよ」

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