第十一回 入宮前夜
欧陽玲が後宮に入る直前ちょっとした事件があった。
鳳巣館へまた皇帝が足を運んだのであるが、この日の風演は先の二回の来訪と全く様子が違っていた。
「雪瑜! 雪瑜はおらぬか! お前も私を軽んじるのか!」
その顔には怒りと屈辱が浮かび、言葉づかいも乱暴で紳士的な余裕に欠けていた。
真っ赤な顔は怒りのせいだけでなく、だいぶ酒も入っているようだ。
風演が息を吐くたび、酒臭い空気が漂った。
皇帝の不興の原因は、今朝方行われた朝議の出来事に起因する。
「今夏は雨が少なく、田畑の大地は乾いてひび割れ、稼穡に従事する民は塗炭の苦しみを味わっていると聞く。急ぎ実情を調査し、必要であれば官倉を開け民を助けよ」
風演は百官に向ってそのように指示をした。
しかし、高官たちは素直に「はい」とは言わない。
その理由は、いつの世も、どの階層も変わらない。
上から自分たちの仕事に口を出されたくないのである。
ことに尚書令──行政の長官である宰相、伊 玄曹は内心で舌を打った。
風流とは名ばかりの贅沢好きめが。そんなことはお前がまず無用な宮殿の普請と、天下から珍花・名木を収奪するのをやめてから言え、という気持ちが彼にはある。
「陛下の救恤は素晴らしいですな。しかしながら……」
と、伊玄曹は棘のある皮肉を吐いた。
「一部の地域では少しばかり日照りが続いたようですが、稼穡に影響はありますまい。陛下の威徳が及ぶところ、悉く穀倉は満たされ、民衆の心は安んじられております」
「しかし、孤が聞いた話では──」
「陛下、臣のところには陳述など来ておりませぬ」
「……本当か?」
「確と。そもそも誰がそのようなことを陛下に申されたのです?」
「や、それは……」
年上の宰相の凄味に気圧され、風演はたじろいだ。
実際、風演の元に上申があったわけではない。
自分の従弟である悠王・風漢と世間話している際に、神都から遠い所の話としてそのような話題が出ただけである。
風演が口ごもったのに留飲を下げたのか、伊玄曹はゆっくりと息を吐いた。
「無論、調査は致しましょう。しかしながら陛下、確たる証もなく聖言を口にする軽挙は慎まねばなりませんぞ」
「うむ、そうだな」
風演はなるべく威厳を保つように頷いたが、内心は惨めなものだった。
宰相たちは皇帝たる自分を恐れてはいない。むしろ自分が宰相たちを恐れている。
自分でそう思うくらいだ。宰相の下の者たちの目にも、そのように映っていることだろう。
風演は玉座の上で羞恥に身をよじらせた。
また、後の話になるが、結局命じた調査は実施されなかった。
伊玄曹が握り潰したのである。
皇帝とは名ばかりの神輿。芻狗に等しき物。そう痛感させられた風演は荒れた。
鬱憤を紛らわすために酒に逃げ、女に逃げて雪瑜の元にやって来たというわけである。
だが、このとき雪瑜は現れなかった。
「おお、欧陽玲か! 雪瑜と代わってくれ!」
「はっ……し、しかし陛下、雪瑜が現れるかどうかは、私ではどうしようもなく……」
「代わるのだ!」
酔いが回った風演には玲の言葉など聞こえない。
風演は酒と怒りで真っ赤になった顔を玲に近づけたかと思うと、皇帝の玉体がぐらりと傾いた。
「へ、陛下……?」
玲は風演を抱きしめる様に受け止めた。
皇帝は酔いが回って、もはや立つこともおぼつかないらしい。
玲は焦螟と協力して、風演を牀に横たわらせた。
風演は何か意味不明なことを呟いた後、寝息を立てたようだった。
玲はほっと息をつく。
だが、酒に酔ってグルグルと混乱した風演は、夢の中でも苦しんでいた。
──山のように屹立する、いくつもの巨大な影。
その影が圧し掛かるように、自分の方に伸びてくる。
風演は目を見開き、その影をよく見た。影の遥か上部にはギラギラと輝く眼がある。
影たちは遥かな高みから風演を塵芥のように見下ろして囁き合った。
「面倒だな、殺すか?」
「……次の皇帝が決まってからだ」
「まあ待て、まだ利用価値がある」
「そうだ。女と酒と玩具でも与えておけば、あのボンクラは口を閉ざすだろう、だが……」
影の一つが風演を凝視した。
「あまり余計なことを言えば容赦はせんぞ」
「ひっ……」
風演は怯え、震えあがって叫んだ。
「焦螟! 焦螟はおらぬか! 老爺よ! どこにいる!? 助けてくれ、殺される!!」
「我が君、落ち着いて下され、焦螟はここに居りまする。この爺はいつも我が君の御傍に控えておりますぞ。さあさあ、どうなされた?」
「おお、老爺。陰謀だ! 孤を殺さんと兵を挙げようとしている者がいる。それ、耳を済ませ、鬨の声が聞こえるぞ! 急ぎ後宮を出なければ取り囲まれる!」
「我が君、お心を静め下され。あれは風の音でございます」
そう言われても、混乱した風演の猜疑心は収まらない。
「だっ誰か見て参れ! あっ老爺、お前は孤の傍を離れるな」
そう指示して、冷たい水を飲むと、ようやく風演は少し落ち着きを取り戻した。
「……ここはどこだ? 後宮ではないようだが」
「仙遊宮の鳳巣館でございますよ」
「鳳巣……」
そこでようやく、風演は傍に控えている玲に気が付いた。
「そうか、私は雪瑜に会いに来たのだな……」
そう呟くと風演は力なく笑った。
「見苦しい所を見せたな、玲。皇帝の真実など、こんなものだ」
その時、外を見回ってきた侍女が帰ってきて、異常がないことを報告しようとしたが、風演は首を振ってもうよい、と先に答えた。
「騒がせたな。次はもっとゆとりがあるときに来ることにする」
「お、お待ちを……」
立ち去ろうとする風演を止めたのは玲であった。
玲の声は少し強張っている。
風演自身がどうお思うと、玲にとってやはり彼は皇帝──自分の命を握る者である。
彼が近づくだけで体は強張り、何かを口にするだけで緊張が走る。なるべく遠くに居て欲しい存在、というのが今の玲の偽らざる本心だった。
それでも、玲がこのまま風演が帰るのを止めたのは、彼の弱い一面を垣間見たとき、その気持ちに深く共感したからである。
自分を殺そうとするかも知れない周囲に怯え、作り笑いを浮かべ平静を保とうとするのは、まさにかつての自分ではないか。
そのような環境にあったとき、たった数年で自分の心は壊れそうになった。
宗氏の家に行かねば、今頃自分はどうなっていたか……。
そしてその地獄に、この人はどれだけ長い間いるのだろうか。そう考えると胸が締め付けられる。
孤独な皇帝を、玲はこのまま見過ごすことができなかった。
「どうした、玲?」
「も、もしよろしければ、少し酔い覚ましに歩きませんか?」
昼はまだまだ蒸し暑い日が続くが、黄昏時の風は秋の気配を漂わせていた。
紅に染まる仙遊宮を風演と玲が歩く。いつも風演にぴたりと張り付いている焦螟ですら、少し二人から離れたところで見守っていた。
「もうすぐ秋でございますね」
「うむ……刈り入れどきだな……」
風演の脳裏には、まだ朝議のやり取りがこびりついていた。
いや、大臣にやり込められたのはもうしょうがない。
しかし、本当に農事は上手くいっているのだろうか。不作になっていないだろうか。
百万を優に超える人口を抱える神都は、周辺から食料の供給が途絶えれば容易く飢える。
風演はそれを懸念していた。
巨大な人工池に架かった橋を渡っているときだった。
風演は足を止め、夕日を映す池を眺めた。
「玲よ、皇帝ならば何一つ不自由を感じることもなく、為したいことを為せると思っていただろう。しかし、そうではないのだ。宰相たちにとって、私はただのお飾りだ。しかもそれに拗ねて酒に逃げるなんてカッコ悪いな」
「陛下……」
「今日、表に出ているのがお前で良かった。雪瑜に私のこんな姿は見せたくない」
ただ一人で孤独に耐える風演を見て、玲は強い戚然の気持ちを覚えた。
少しでも風演に寄り添おうとして、玲は言葉綴った。
「陛下のお望みとはなんでしょうか?」
「……この池はな、神仙の世界にあるという魚唱湖を模して造らせた。魚唱湖は魚類の楽園だ。そこに棲まう魚は朗々と詩歌を吟じるそうだ」
風演は橋の欄干をぎゅっと握り、思いを吐露した。
「私はこの世にそのような楽土を築きたいのだ。万民が安らかに暮らせる国だ。飢えを知らず、争いを知らず、四夷は威徳に打たれ、進んで我が国の前に膝を折るような……」
「素晴らしい考えでございます。昭の臣として、陛下のような方が至尊の座にあるのは幸いだと思います」
「だが実現しなければ、何の意味もない。お飾りの皇帝では、精々こんなに箱庭を作って満足するのが精いっぱいだ」
「いえ!」
玲は張り上げて、自嘲する風演を励ました。
鈴の音のような澄んだ声が響く。
「十里黄雲、白日曛し
北風、雁を吹いて、雪紛紛
愁うる莫れ、前路に知己の無きを
天下、誰人か君を識らざらん」
十里先まで黄塵に染まった雲が垂れ込め、日の光も差さない。
空を飛ぶ雁の群れに、北風が吹き付ける。見上げていると、雪まで紛紛と降ってきた。
道行く先に、親友がいないと悲観する必要はない。
天下の人は皆、貴方が素晴らしい人であると知っているのだから。
玲が詠ったのはそのような意味の詩であった。
「……高適か」
「はい。魚唱湖とは言わずとも、この通り、陛下の造りし池で詠う者はおります……私は陛下をお飾りだとは思いません。たった今、私は陛下の宸襟を知りました。その望みを、私も叶えとうございます」
「……お前の気持ちは受け取った。しかし、この世に楽土を築くなど並大抵のことではないぞ」
「はい。この世で陛下しかできない仕事です」
「私だけか……」
やがて風演は頷いた。
「そうか。そうだな。うん。私も頑張ってみよう。ところで……」
いつになく力強い玲の言葉は、風演にとって意外だった。
はっきり言えば玲らしくない。
「……いまの言葉は、どちらが申した? 玲か? それとも雪瑜か?」
「私ですよ。しかし雪瑜も同じ気持ちなのは確かです」
「ほう。そうか。それは心強いな……」
風演はしばし瞑目していたが、やがでゆっくりと目を開いた。
「気が晴れた。それに、自分のやるべきことも思い出した気がする。やはりお前を檻から出したのは正しかったようだ」
「もったいないお言葉です……」
その日、二人は和やかな雰囲気のまま別れた。
が、玲の体の奥底で、魔性の女は一人怒り狂っていた。
──朝廷の百官どもめ。後宮の女官どもめ。こやつらいったい、雁首を揃えて何をやっているのだ!!
私の愛する人が苦しんでいるのを誰一人助けぬのか。皆、見て見ぬ振りか。己の保身と栄達以外興味がないのか。
……ゆ、許せん。
大家は許しても私は絶対に許さんぞ。今に見ていろ。
私が大家の理想を叶えたら、次は貴様らに思い知らせてくれるわ。
牝鶏は晨する無し(女は男の仕事に口を出すな、という意味のことわざ)などクソ食らえだ。
私はこの手で必ず大家の理想を叶えてみせる。
自らを孤と呼ぶ愛しき人よ。
もうすぐ雪瑜が傍に参ります。いましばしお待ちください。
貴方を苦しみは、この雪瑜が除いてみせましょう。
私は貴方を決して孤独にはさせませぬ。




