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第十回 幼年期の終わり

 突如現れた白猴に対しても、宗靖に動揺はなかった。

 既に彼は心を決めていた。

 自分が契りを交わしたのは玲である。白猴ではない。

「出たな、白猴」

「そう呼ぶのはやめて。いくら靖ちゃんでも許せないわ」

 白猴は柳眉を逆立てて宗靖を睨みつけた。

 だが宗靖も一歩も引かない。

「黙れ。玲を苦しめる化け物め」

「……靖ちゃん、それは違う。私も欧陽玲なんだ。お願い、まずそれを分かって欲しい」

「そのような言葉は信じぬ」

「頼むよ。今回のことは確かに私が悪かったよ。それは謝る。でも本当はこんなつもりじゃなかったんだ」

「何を言うか!」

「聞いて、私はお金が欲しかったわけじゃない。あれは靖ちゃんが留学する日に備えて、少しでも路銀に足しになればと思ってしたことなんだ。私は一銭もいらない。全部靖ちゃんにあげ──」

「賭博の寺銭など貰って、俺が喜ぶとでも思ったのか」

 白猴は俯いて唇を噛んだ。

「そんな言い方……どうして分かってくれないんだ。あっちの玲にはあんなに優しいのに! 私にはなんで!?」

「お前は玲ではないからだ」

「違う! 私は欧陽玲だ! あっちの玲が本当はこうしたい、こう生きたいという望みが、私を生んだんだ!」


 絶叫する白猴を前に、宗靖の手は自然に腰の剣へと伸びていた。

 相手は玲と体を共用している。斬るわけにはいかない。

 しかし、多少なりとも剣の修行を積んだ宗靖には、怒りつつある白猴が放つ妖気が見えている。

 丸腰で相対するには、怒る白猴はあまりにも危険な相手だった。

「なぜ剣に手を掛ける?」

 そのことを白猴は見咎めた。

「靖ちゃん、私を斬るつもりなのか? 本当にこの欧陽玲を斬る気なのか!?」

「貴様は玲ではない。白猴だ!」

「そう呼ばないでって言ってるのが、聞こえないか! 宗靖!」

 叫びながら白猴は跳躍し、一瞬で十歩の間合いを詰める。

 振り下ろされた拳は、宗靖の肩を掠めた。


 辛うじて躱した。本当に辛うじて……。

 白猴の身のこなしの素早さに、宗靖は舌を巻いた。

 宗靖に稽古を付けているのは、父を始めとした、本物の戦場を経験した武人たちである。

 だが、彼らと比較しても白猴の速さは常軌を逸している。

 このままでは……。

 そう考えた宗靖は武器を使うことを決意した。

 すまぬ、玲。

 心の中で謝罪しながら、宗靖はついに剣を抜く。

 そして、剣を捨て鞘を手にして(・・・・・・・・・・)構えた。

 これで斬れることはない。だが鞘とて当たれば骨が砕けよう。それでも、素手ではとても白猴を制圧できない。


「どうして……何で分かってくれないんだ」

 白猴の赤い目に涙が浮かんだ。

 しかし宗靖はまだ動かない。

 鞘を正眼に構え、相手の出方を窺う。

 白猴の動作は出鱈目に素早い。とても女人とは……いや、人とは思えない。

 しかし、その動きは素人である。そこに付け入る隙がある、と宗靖は感じた。

 抑えるべきは動作の初動。白猴が動いた瞬間、その出鼻を挫く。


 みしりと、白猴の足が地を蹴った。

 ──今!

 それを察した宗靖も足を踏み出す。

 鞘を振り下ろした瞬間、宗靖はこれまで感じたことのないような感覚を腕に感じた。

 ぐにゃりと、攻撃の方向が曲げられ、そのまま腕ごと持ってかれそうになる。

「うおっ!」

 鞘を握ったまま、宗靖の体は空中で回転し、そのままドスンと地面に落とされる。


「そ、そんな……」

 尻もちをついたまま、白猴を見上げた宗靖は、ようやく何が起こったのか理解した。

 白猴の口には、宗靖の鞘が咥えられている。

 一瞬の攻防の中、白猴はこちらの一撃を口で受け止め、恐るべき咬筋力でその状態を保持したまま、宗靖を投げ飛ばしたのだ。


 鞘をペッと吐き出した白猴は、宗靖の前まできて、視線を合わせてしゃがみ込む。

「靖ちゃん……いくら私でも、自分を殺すと言っている相手と添い遂げることはできない」

「……」

 宗靖はわなわなと肩を震わせた。

 白猴は立ち上がり、踵を返すと、宗靖に背中を見せたまま告げた。

「離縁だ」

 白猴がそのままその場を立ち去ろうとしたとき、宗靖は喉から声を絞り出した。血が出るような無念の叫びだった。

「ま、待て! 玲!」

「今更遅い」

 遠ざかっていく白猴の背中を見て、宗靖は地を叩き哭いた。

 これほど惨めな気持ちになったのは、四年前白猴が初めて現れた日以来だった。だが、今回はあの時よりさらにずっと悪い。

 あの日以来宗靖は玲を守れる力を得ようと、努力していたつもりだった。そして同輩を凌ぐ剣力を身に着けたことは、密かな誇りだった。

 しかし、そんなものはクソの役にも立たなかった。

 玲を白猴から解き放つのに剣は無意味で……いや、そもそも白猴に喧嘩で敵わなかった。

 自分が誇りとしていたものは、女子一人にも及んでいなかったのだ。


 あらゆる負の感情が胸の中にグルグルと渦巻いて、宗靖の目の前は暗くなった。

 口惜しく惨めで、打ち拉がれていた。

 自分の四年間は無意味だった。玲の為にと思って行こうとしていた留学も、今では虚しかった。

 好いた女が遠くにいくのを、ただ眺めるしかない自分を呪った。無論玲を苦しめる存在のことも同様に呪った。

 ──白猴め。白猴め。白猴め!


 だが、宗靖も知らないことが二つある。

 一つは白猴の赤い眼が涙で濡れていたこと。

 もう一つ、あえて口で攻撃を受けたのは、その手の中に、宗靖が玲に贈った白い歩揺が握られていたからだ。

 そろそろと歩くたび、白猴は自分が宗靖が離れていくのを感じた。

 白猴にとっても、それは裸足で剣山の上を歩くかのような痛みを伴う歩みだった。



 語り終えた雪瑜は、風演の腕の中で、ふう、と息を吐いた。

「結局、宗靖は最後まで私の事を信じてはくれませんでした。とはいえ、宗靖に全ての責任を被せる気にもなれません。私の不徳です」

「……それでその後、お前はどうしたんだ?」

「欧陽家には戻らず、そのまましばらく旅をしました。お金は少々ありましたので。その後、大家(ターチャ)が私のようなものを探していると聞いて、実家に戻りここまで参った次第」

「そうか、玲は無論のこと、お前も人に信じてもらえず苦労したのだな」

「何のことはありません。こうして大家(ターチャ)に名前を賜り、信じて貰えたのならば、雪瑜は幸せでございます」

 そして、雪瑜は風演の胸に顔を埋めて囁いた。

大家(ターチャ)、雪瑜はいつまでも大家(ターチャ)のお傍にいたいと思っております。どうか私を大家(ターチャ)の妃嬪の末席に加えて下さい。仙遊宮までお御足を運ぶ手間も省けましょう」

「おお、そのことは私もかねてから考えている……近く沙汰があろう。お前には昭儀の位をと思っているところだ」

「昭儀……」


 後宮の位は現在空位である皇后を頂点に、三妃、九(ひん)、二十七世婦、八十一御妻という階級が定めている。

 昭儀は九嬪の最上位。つまり三妃に次ぐナンバー4である。

 風演がすぐに用意できる最上の位だといえよう。

 しかし、雪瑜はあまり嬉しそうな顔を見せず、押し黙った。

「……」

「昭儀では不満か? しかし、三妃は空いておらぬし、まさかいきなり皇后に就けるわけにもいくまい。それで堪忍してくれ」

「いえ、それほどまでの恩寵を頂けるのは望外の喜び。しかし、昭儀では位が高すぎます。身分卑しく、何の功もない女がいきなり昭儀では、他の宮女は納得せぬでしょう」

「私の後宮だぞ。そのような声など気にするな」

「なにより、私自身が納得できかねます。雪瑜は才人か美人で構いませぬ」

 雪瑜が言ったのはどちらも二十七世婦の位で、昭儀に比べれば随分落ちる。

「自ら位を低くしてくれとは、おかしなことを言う奴だ。だが、それではお前を推す私の顔が立たんわ」

「では……」と、二人は何度か押し問答をして、充媛(じゅうえん)という位が浮かびがってきた。

 九嬪の最下位で、単純に考えれば妃嬪としては十二位の位置である。

「まあこんなところだろう。他に何か望みはないか」

「差し出がましいようで心苦しいが、実は一つ叶えて頂きたいことが」

「この際だ。言ってみろ」

「私の寝起きする場所は、恵徳妃様か孝淑妃様の近くであると、助かります」

「ほう」

 恵徳妃と孝淑妃は、天香妃と並ぶ三妃たちである。

 九嬪以上の妃嬪は独立した住居を与えられるため、別段難しいことではないが、意外な願いに風演は目を丸くした。

「雪瑜、お前は恵徳妃や孝淑妃となにか交流があったのか?」

「いえ、特には」

「ではなぜ?」

「先の酒宴の晩、大家(ターチャ)は初め天香妃様と仲睦まじい様子でしたが、帰りは天香妃様を置いて雪瑜の元に参りましたでしょう?」

「あー……うん」

「天香妃様はきっと屈辱を感じ、雪瑜を恨んでおりますので、今しばらくは近寄りがたいのです。ならば恵徳妃様か孝淑妃様の近くがよいと考えました」

「確かに……あれも気の強い女だからな。うむ、分かった。そのようにいたそう」


 こうして、雪瑜は充媛の位を得て、風演の後宮へと入ることとなった。

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