第一回 献上された娘
権力者が精神の平衡を失うことは、その下にある者の厄災を意味する。
地上最大の版図を持つ帝国、大昭国の最高権力者、聖文神武大明皇帝、風演は今まさに精神の平衡を失おうとしていた。
十数年前、弱冠二十歳で即位してからこれまで、風演はずっと名君と呼ばれてきた。
それは権力者を阿る、耳障りの良い世辞ではない。
実際に風演の治世は、即位前と比べ上手く行っていた。
が、ここにきてそれが崩れつつあった。
北西の辺土では巧みに騎馬を駆る異民族、柔夏が国境を犯し、略奪が相次いだ。
この辺土の情勢の不安定化により、西方との交易路も危険に晒されることとなった。
柔夏の対応に多数の民を兵として動員したところ、折り悪く天候不順が重なり、人手不足と相まって各地で飢饉が発生。
人々は飢えから逃れるため流民と化し、流民はやがて匪賊となり、小規模な乱を起こした。
匪賊の乱はやがて鎮圧されたものの、依然として税は重く、治安は悪く、塗炭の苦しみにあえぐ国民の不満はくすぶる。
文官らは国内を安定させるための政策について議論を交わしたが、群臣たちの意見は割れ、喧々諤々の議論は遅々として進まない。
市井ではそんな朝廷に対する怨嗟の声が上がった。
その声が帝の精神を蝕んでいた。いっそ風演が暗君なら、そんな声は聞こえず、聞こえたとしても無視できただろう。
しかし風演はそこまで暗君ではなく、かといって議論を取りまとめるほどの器量はなかった。
事態を解決できない臣下に対する不満と不信が積もり、政治に倦んだ風演の興味は、次第に二つの物について向けられた。
不老不死や空を飛翔するなどといった神仙の術への憧れと、荒淫である。
風演の神仙への憧れを象徴するものとして、仙遊宮の普請が挙げられる。
仙遊宮は神仙の世界たる仙境を再現するという試みをもって建築され、その為に全国から仙境に相応しい珍花、名木、奇石、そして異能を持つ人間が全国より集められた。
民が苦しんでいる最中、個人的な趣味に労働力を行使するのは、凡庸な皇帝が、日に日に本当の暗君へと堕ちつつあることを示している。
白猴が風演の前に引き出されたのは、そのような時期であった。
劫州の州刺史(長官)、欧陽 乙は権力志向の強い男で、仙遊宮の為に奇岩名木を集めるのに奔走したのは勿論、どこからか入手した珍しい宝玉を皇帝に献上していたが、数年ぶりに都に上り、入朝した欧陽乙が皇帝に差し出したのはそれらとは一線を画すものであった。
「我が一族の者の中に、神仙に類する者が現れました。このような奇瑞はなべて陛下の御恩徳の賜物と心得まして、是非ともご覧頂きたく、その者を引き連れ参上したる次第でございます」
欧陽乙の声は固く、額には早くも冷や汗が浮かんでいた。
この会見は欧陽乙にとって身命を賭した博打であった。珠や奇岩を献上するのとはわけが違う。
下手をすれば風演の不興を買い、自分の首が飛びかねない。しかし、もしも風演がこれを気に入るなら、その利益は計り知れない。そのような会見であった。
「神仙に類する者だと?」
と、まずは風演が食いついた。幸先は良い。
「は……百聞は一見に如かず。ご照覧あれ」
そうして皇帝の前に運び込まれてきたのは、鉄製の檻であった。
格子と格子の間に棒を差し込み、駕籠のように肩で担がれて運ばれてきたのだが、鉄の檻は相当の重量があるらしく、重さでしなった棒を担ぐのは八人がかりの仕事であった。
そのような厳重な檻の中に何が入っているのかと思えば、年の頃十五、六の娘であった。
容姿端麗にして華奢な娘だが、その容姿に奇妙なことが一つある。
着用している衣服は華美にすぎない程度の漢服であったが、寸法が合っておらず、裾がダブついているのだ。
皇帝と謁見させるにしては、お粗末な仕事だといえる。
その娘は明らかにこのような状況に狼狽し、檻の中で小さくなり、長い裾の服を丸める様にして震えていた。
風演は檻の中でひたすら頓首(地に額を付ける礼)する娘を一瞥すると、欧陽乙に尋ねた。
「この娘が神仙に類する者だというのか?」
「はっ。この者は我が養子にて、欧陽 玲と申します」
「なにゆえ、この娘は檻に入れられている?」
「御身に万が一でも危険がなきよう、このような処置を行った次第」
「中々話が見えんな。この娘のどこが神仙の類なのか、孤に示してみよ」
「しからば……」
欧陽乙は軽く息を吸い込むと、檻の中の娘に向って呼びかけた。
「白猴! 陛下のお召しだ、姿を見せよ!」
「父上、おやめください!」
玲という名の娘は、白猴と呼びかけられた途端に顔を上げ、甲高い声を上げた。
その表情には恐怖が浮かんでいる。まるで凶漢に襲われているかのような顔であった。
眼前に至高の権力者がいるということも忘れ、玲は頭を振り回して、何かから逃れる様に叫んだ。
「父上! お願いです! おやめください! やめて!」
「白猴! はよう出て来んか!」
「私は白猴なんかじゃ……」
その言葉を言い終える前に、玲の動きは突如として止まった。
そして、玲の体に変化が起こる。
「おお……」
居並ぶ百官の間にざわめきが起こり、皇帝風演ですら思わず玉座から立ち上がって、娘の変化を食い入るように見た。
まるで波紋が広がるように、玲の長い黒髪は、根元から白く染まっていった。
同時に体そのものにも著しい変化が起こっていた。
華奢で小柄な体が伸長し、逞しい長躯へと変わった。胸のふくらみがなければ成人男性に近い背格好である。
またこのとき玲の身長が伸びたことにより、余っていた裾が適正な長さへと収まった。
そして、表情も一変した。
特に大きく変わったのは眼である。
まず怯えが消えた。それだけでなく、目じりが吊り上がり、瞳は太陽のような色で赤々と輝いた。
火眼金睛。古今無双の大化生、孫悟空を思わせる眼である。
檻の中で体を小さく折り畳み、ただ震えていた娘は、いまや格子に背を預け、皇帝の前で太々しくも足を組んで座っていた。
燃える炎の眼は、まるで逆に風演を値踏みするかのようだった。
一同が呆気に取られていると、変化した娘の方が先に口を開いた。
「お前が皇帝か。私のような者を求めていると聞いて、会いに来てやったぞ」
「ばっ……!」
欧陽乙はぞっとした。
皇帝の前で傲岸不遜なこの言動。玲の発言の巻き添えで処断される可能性は十分にある。
だが、風演は目の前で起こった奇跡に心を捕らわれていて、無礼な言動を右から左に聞き流した。
風演は立ち上がって壇上から降りると、檻に近づいて自ら質問を発した。
「汝は何者だ? 欧陽玲とやらに憑りついた妖魅か?」
「憑りついた、だと?」
くすり、と欧陽乙が白猴と呼んだ娘は微笑んだ。
「お前たちの目から見れば、私と玲は別種に見えるのだろうな。だがそれは違う。私は玲であり、玲もまた私なのだ。例えるなら、私と玲は同じ木の、違う枝だ。どれほど違って見えても、我々は同根だ」
風演は一段と強い興味を持ってその娘を見、言葉に耳を傾けた。
政務に、外の世界に、そして他人に倦んだ生活の中で、突如現れた本物の奇跡は、風演に久しく忘れていた好奇心というものを取り戻させた。
皇帝の胸には、あとからあとから疑問が生じた。
この者をより知りたい、と思った。
「常であれば人は一つの体に一つの心しか持たぬ。なにゆえ汝のような枝が生じたのだ?」
「私の実父は千歳の年経た白い猿神だったそうだ。常ならぬことの一つや二つは起きよう。偉大な祖の血を引くお前とて、光を放ちながら生まれたのではないか? そのように聞いているぞ」
「む」
風演は白猴の言葉に鋭い棘があることに気が付いた。
見え透いた代々の皇帝の生誕伝説を皮肉っているのである。
「娘に生じた枝よ。なぜ孤にそのような口を叩く? 汝の命は孤が握っている。そのことが分からぬほど愚かではあるまい」
と、風演は少し言葉を強めた。
実際は殺すつもりなどはないが、皇帝に対してあまりにも礼を欠く言動は看過できない。少し脅してやらないとならん、と思った。
「ふ、あははははははははは!」
突如、白猴は哄笑した。
「大昭の皇帝よ、本当に私が殺せるか?」
「無論だ。なぜ殺せぬと思うた? いかに妖魅であろうと、汝には逃げ場がない。このまま槍で突けばそれまでではないか」
「この状況をみよ。私は檻に囚われた、無力な一人の女に過ぎん。だがそれでも猿神の公主である誇りは失わず、大昭の皇帝に対しても堂々と振舞った。だが、お前はどうか?」
と、娘は皇帝に挑みかかるように言った。
「そのような相手を癇癪を起こして殺すのか。一人の無力な娘を、檻に閉じ込めたまま、槍で突き殺すだと。史書の記述が楽しみだな。後世なんと言われるやら」
いかに暗愚に堕ちつつあるとはいえ、風演が英邁な名君と呼ばれていた日々はそう昔ではない。
それは恐らく運がよかっただけということは、風演自身薄々気が付いているが、出来るならば死後も名君であったと称えられたい欲は勿論ある。
なるほど、簡単には殺せんと思い、そこを突いた白猴の口上に、風演は目を見張った。
この娘は馬鹿ではない。
少し冷静になった風演は改めて問い直した。
「なるほど、確かに殺すにはやりすぎだな。だが、やはりそのような言動を見過ごすわけにはならん。改めて聞こう、なぜ孤に平伏さぬ?」
「その問いに答える前に、逆に尋ねよう……我は大昭の民なりや?」
「……?」
当然である。
と言いたいところだが、風演はこの質問の裏にある白猴の意図を探ろうとして、一瞬沈黙した。
白猴は真剣な眼差しで、赤々と輝く眼を絶対者へと向ける。
そしてゆっくりと口を開いた。
「多くの者が」
白髪の娘はそこで一度深呼吸し、言い直した。
「実に多くの者が、私を白猴と呼ぶ。人ではなく、深山に住む化け物だとな。もしそうであるなら、人の世の皇帝に跪く道理はないだろうが。大昭国の聖文神武大明皇帝よ、お前はどう思う?」
娘はまた深呼吸し、改めて問いかけた。
「我は大昭の民なりや?」
その場にいた全ての者が悟った。
白猴は昭国の民かどうか聞いているのではない。自分が人間かそうでないのかを聞いているのである。
娘だけでなく、青白い顔をした欧陽乙、朝礼に馳せ参じた百官はことごとく沈黙し、皇帝風演の答えに耳を澄ました。
「――然り」
短く簡潔な答えだった。
「汝は、我が臣たる欧陽乙の一門の者である。即ち我が民であることに、疑問を挟む余地はない」
その言葉を聞くや否や、白猴は雷に打たれたように身を硬直させた。
「あ……」
それこそ白猴が聞きたかった答えであり、その言葉を本気で言ってくれたのは、これまでただ一人しかいなかった。
巷間に在る人間の口端には、近頃の皇帝は横暴になり、奢侈に走るようになった、という言葉がよく登るようになっていた。
そのような男は自分を人間とは認めないだろう、と白猴は半ば諦めていた。
欧陽乙が自分を皇帝に差し出すと言ったとき、白猴は人扱いされずに一生飼い殺しか、即座に殺されるか、どちらかだろうと考えていた。
どうせ死ぬなら、せめて堂々と死んでやろうと心に決め、この会見に臨んでいた。
ところが皇帝はさらりとお前は人間だと言った。思いがけない言葉に、不覚にも両目が湿った。
濡れた眼を誰にも見られぬよう目元を拭い、挙措を正すと、白猴は深々と頓首した。
「陛下、数々のご無礼、申し開きしようもございません。この身は毛髪一寸に至るまで陛下の物。いかようにもご処断下さいまし」
「済んだことだ。もうよい。それより面を上げよ」
白猴は顔を上げた。
手を伸ばせば触れ合えるほどの距離で、皇帝と白猴は見つめ合った。
まるで互いに胸の奥を覗き込んでいるかのようだった。
檻に隔たれた二人は、決して触れ合っていない。しかし、白猴は皇帝の手が自分の頬に触れるのを感じた。
そして正面から見た風演の顔は、絶対者の威厳を讃えた少壮の男であった。暗君にはとても見えない。
「まるで雪を被っているような、美しい髪よ。汝の名は?」
「欧陽玲」
「それは違う枝の名であろう」
「ならば、白猴でございます」
「そんな名前は捨て去れ。孤が命名する。今日より汝は雪瑜と名乗るがいい」
『瑜』という文字は珠玉を意味している。風演がいかにこの娘を気に入ったのか窺い知れる名前だった。
「み、身に余る光栄……」
白猴、もとい雪瑜の言葉は感激によって震えていた。
「雪瑜は罪人に非ず。ましてや畜生に非ず。はよう檻から出せい」
風演と欧陽玲、そして雪瑜の出会いは、このようなものだった。