最終話《救い、救われ》
「わぁっ……ひろーい!」
「きれーい!」
帽子を目深にかぶった双子の発する純粋な感動の声が、澄み渡る様な青空の下、山あいに秘された湖のほとりという大自然の絶景を何処までも遠くへ突き抜けていく。ルシアス男爵一家は、この家族となってから初の小旅行にやって来ていた。
「水辺の方は、危ないから近づくでないぞ!」
はしゃぎながら絶えず走り回る双子にラミアは念のため声をかけたが、あの様子では聞こえているかも怪しかった。あまり目を離さない方がよさそうだとラミアは思った。
「ラミア、君は行かないのかい?」
「わたしは、あまり陽の光を浴びるのは好かん」
ラミアは仏頂面をしたまま、大きな木陰で木の幹にもたれ動こうとしなかった。彼女もまた大きめの帽子を目深にかぶっている。子どもたち同様、万一の場合の正体露見を防ぐためだ。
「大体ここは何処じゃ? 説明も何もせぬまま連れてきおって」
「バートン村といって、うちの領地の端にある小さな村だよ。今では使われてないが古い別荘があってね、貴族の保養地なんだ。それに、」
ルシアスは一拍置いて、急になぜか息を整えるようにした。ラミアは疑問符を浮かべる。一体何をそんなに改まる必要があるのだろう?
「ここは、ぼくの故郷なんだ。母はこの村に住むひとりの名も無い平民だった」
ラミアはこの時、凄く久しぶりにルシアスのことをちゃんと見た気がした。サリエルが襲来したあの日以来、ラミアはあまり積極的にルシアスと口をきこうとしてこなかった。彼女の中で、未だに感情の整理がついていなかったのだ。
今更気付いたが、今日の彼はいつもと違って青の落ち着いた平服を身にまとっていた。広がる空に溶け込む様なその姿は、まるで心の内を全てさらけ出すとでも決めたような、そんな印象をラミアに与える。飾り立てるのをやめると宣言するが如くだろうか。
「サリエル兄さんのことは、本当にすまなかった」
「よせよせ」
ラミアはうんざりして手をひらひら振った。
「あんなやつのこと、もう聞きとうないわ。それよりもお主の母のことを話せ。何やら訳アリのようじゃが、一体何があった?」
「母は元々、父の別荘で奉公していた使用人だった。だがある時、父が気まぐれから手を出し……それでぼくが生まれた。なのに父は一〇年間、ぼくの存在を知らなかった。母はたったひとりでぼくを生み、雨の日も風の日もすり切れるようにぼくを育ててくれたんだ。しかし、」
ルシアスが再び言葉に詰まるのが分かった。そこまで早口で言い切った内容が内容だけに、ラミアは思わず夫の肩にそっと手を置いた。
「……ルシアス、あまり無理をするな」
「……ぼくが一〇歳の時、母が死んだ。病に倒れたが薬すら買えなかった。すると突然、待ち構えていたみたくあの男の使いがやって来たんだ」
ラミアの手に、ルシアスはそっと自分の手を重ねる。微かに震えているのが分かったが、時間をかけてそれは徐々に収まっていった。やがてフッと肩の荷が下りたみたいに笑みを浮かべると、まるで安心させるみたくラミアの方を見た。
「父の家に引き取られたぼくは、貴族として教養と作法を学ばされた。あの男にすれば、ぼくは万が一の保険みたいなものなんだろう。だが兄たちは、後からいきなり現れた平民育ちのぼくを快く思わなかった。ぼくが成人して、この領地を与えられてからは特にね。初めて会った時、ぼくを殺しかけていた毒矢があったろう?」
「…………おい待て、嘘じゃろ」
「あれはおそらく、兄さんたちの差し金だよ」
そう言ってルシアスは寂しげに笑った。
「ひとりか、あるいは全員か……詳しいことは分からないけどね」
ラミアは一瞬、この上もなくルシアスが居たたまれなくなった。何度も言うがラミアに人間の貴族の常識など分からない。だがしかし、よりによって実の母を見殺しにした男の庇護下に半ば強制的に置かれた上、そこで知り合った半分とはいえ血を分けた兄弟たちに命を狙われるほど憎悪されるというのは、果たしてどんな心境であろう。
ルシアスと暮らし出して数か月、ラミアはその日はじめて、目の前にいる男が見かけよりも遥かに深い深い傷を負っていることを知った。
「だからまあ……兄さんたちからすれば、ぼくは『盗っ人』なんだよ。あらゆる意味でね」
「それは違うぞルシアス!」
ラミアは思わず鋭い口調で詰め寄った。戸惑いの色を浮かべる夫を見て、ラミアはなおも畳みかける。
「ようやく分かった……お主、さては自分の生きる意味が何なのかと疑問に思っておるな。だが忘れたとは言わさんぞ。お主はこのわたし、六〇〇年生きる蛇の神ラミアに呪われた身。はじまりが何であれ、今その命は全てわれら親子のためにあるもの。意味などそれで充分じゃろ、違うのか?」
目を奪われたようになるルシアスの、再び肩を掴んでラミアははっきりと告げた。
「誇りを持てルシアス! お主はいま、他の誰にも真似できぬ、確かに意味のある行いをしておる。父だろうが兄だろうが、お主の価値は二度と否定はさせんからそのように思え。お主が侮辱されることはすなわち、このわたしにとっても屈辱であると知れ!」
「…………ラミア」
答えに窮していたルシアスだが、長い長い沈黙の果てに「ありがとう」と小さな声でつぶやき彼は目を伏せた。ラミアが知る普段のルシアスに戻った気がして、彼女は少しホッとした。
ふたりはそれからしばらくの間、木陰でそよ風に吹かれながら何も言わず、互いに寄り添い合って座っていた。視線こそ交わさなかったが、何故か妙に距離が近く感じられて、手をつなぎ合っているだけなのに心と体が暖かかった。
母さま~、と遠くから双子がピョコピョコと飛び跳ねてラミアたちを呼んでいるのが見える。ラミアはいつになく穏やかな面持ちで、子どもたちに静かに手を振った。湖畔には男爵一家以外の人影が全くない。大自然はさながら彼らだけの楽園だった。
「幼い頃、よく母と一緒にこの場所へと来た」
出し抜けにルシアスが言った。
「ここは思い出の場所なんだ。どうしてもラミアたちに一度、この風景を見せたかった。連れてきて本当に良かった」
「のう、そのことでようやく得心がいったんじゃが」
ラミアはちらとルシアスの方を盗み見る。
「お主こないだ、わたしが町娘風の格好をした時に動揺しとったじゃろ。あれはもしや、わたしに母の面影を見出したとか、つまりそういうことか。初めて会った時、迷わず自分の命と引き換えに子どもたちを救えと言ったのも」
「…………想像に任せるよ」
「ふん、まあよい」
ラミアは微かに笑ってルシアスを放免した。照れ臭そうに目を背けていることからして、本人としては秘しておきたい、あるいは体裁だけでも秘していることにしておきたいのだろう。男というのは時折、不思議なことをする生きものである。
「わたしからもひとつ、伝えねばならんことがある。お主が喰らった毒矢のことじゃがな」
ラミアは言った。
「あれはおそらく蛇族の毒、それも余程強力な神のものじゃ。よもやとは思っておったが、お主のバカ兄貴の件で確信に変わった。どおりで解毒が不完全に終わる訳じゃ」
「……つまり、こういうことかい」
ルシアスは少なからず驚きを示しながらも、冷静に状況を整理していた。
「兄さんたちのうち誰かが、ラミアの同族を殺して奪った毒をぼくに撃ち込み……それが今でもずっと、ぼくの命を奪い続けている」
「もしそうならば、捨ておくわけにはいかん」
ラミアは無意識のうちに声を低めた。
「蛇族の誇りが踏み躙られているのは無論、どの神の毒か突き止めねばルシアス、お主はこれからも永遠に死に続けることになる。わたしとて、そんなのは不本意じゃ」
「ラミア、君は」
「「母さま~! ルシアスさ~ん!」」
ゴルとゴンの元気いっぱいな声がまた聞こえて、ラミアたちはふたりだけの世界から引き戻された。大きくて綺麗な花を見つけたとか何とか言って、相変わらず大はしゃぎしている。ラミアはそれを見て「この話はまた今度じゃな」と苦笑した。
「あまり目を離すと、あの子らだけで水辺に行ってしまいそうじゃ。近くで見守らんと、子どもはどうにも不安じゃの」
「それもそうだね。行こうか、ラミア」
「……ああ待て、ルシアス」
「え…………んっ」
ルシアスの返事も待たず、ラミアは頭髪を銀の蛇たちに変化させるとルシアスの全身をしゅるしゅると絡めとり、彼を強引に抱き寄せてその唇を奪った。
ややあって身を離すと、互いの吐息が間近でかかり合い生暖かい香りが鼻孔をくすぐった。ルシアスは見るからに顔を赤くして、視線が泳いだりしている。初めて見るその様子がおかしくて、ラミアは小さく笑みをこぼした。思えば意識がはっきりしている最中に唇を重ねるのは、今回が初めてだった。
「なんじゃ、不服かの?」
「いや、そんなことはないけどラミア……いきなり、どうして」
「念のためじゃよ。お主に水辺で死なれたら、その上溺れられるので面倒じゃからな」
「……順序が逆じゃないかい?」
「気にするでないよ、ルシアス」
ラミアは頭髪をいつも通りの黒髪に戻すとルシアスの手を引き、自らずっといた木陰を出て子どもたちのところに向かって歩き出した。
「さあ、行こうかの。子どもたちが待っておる」
「…………ああ」
先導するラミアの手を、ついてくるルシアスが微かに強く握ったのを感じて、気付かぬふりをしながらも彼女はくすりと笑った。
青年貴族と蛇の女神。仮初の夫婦はその日、初めて青空の下で子どもたちと目いっぱい遊んですごした。取り戻された尊厳を謳歌するように。そしてまたいつか、新たな尊厳を取り戻すことの叶う、その日までのために。
命を、魂を、救い救われ合うラミアとルシアスの物語は、きっとこれからも続く。
(おわり)