第5話《兄弟・姉妹・家族》
由緒ある伯爵家の四男にしてルシアスの兄・サリエル男爵が屋敷を訪れたのは、本当に突然の出来事だった。
「なんだい、なんだい。相変わらず調度品の類がまったく安物ばっかりじゃないか。ルシアス、お前は本当に見る目がないなぁ!」
「耳が痛いよ、兄さん」
屋敷中に響くキンキン声で自身をこき下ろす坊ちゃん刈り男を前にしても、ルシアスは顔色ひとつ変える気配がない。それどころかもはや慣れっこと言わんばかりに微苦笑してすらいた。
「それに、玄関に花だって? 平民の家じゃあるまいし、こういうのはどんと絵画の二、三枚でも飾っておくんだよ! これだからお前は貴族というのが分かっていない!」
「妻が不眠に悩まされていてね」
ルシアスは兄の後に続きながら淡々と言った。
「常に癒しを感じられるように、家中にアロマやハーブを配置してるんだ。気に障ったのならすまない」
「妻? ああそうだ、お前が生意気にも結婚したとかいうモンだから、相手がどんなものだかワザワザ確かめに来てやったんじゃないか。まったく時間を無駄にするところだったじゃないか。早く言え!」
「なんじゃ……なんなんじゃあいつは……」
物陰から様子をこっそり伺いながら、ラミアは内心イライラするのを抑えられなかった。そもそも何故ルシアスは言い返さないのだ?
ルシアスの元で暮らし出してから、彼以外の貴族を見るのはラミアには初めてだった。だから一般的な貴族階級に照らしてルシアスとサリエルのどちらが標準的なのか、ラミアには正直分かりかねる。
だがラミアのごく個人的見解で言わせてもらえば、兄というサリエルは弟であるはずのルシアスに比べ、人格的に遥かに劣っているように思えてならなかった。
大体兄弟という割には、性格はおろか姿かたちさえもまるで似ていない。色白かつ中肉中背のブ男は、ルシアスとの共通点を見出す方が難しいぐらいだった。
「ラミア、疲れているのにすまないが、サリエル兄さんに顔を見せてあげてくれないか」
呼ばれてしまったラミアは、少し迷ったが渋々ルシアスたちの前に姿を現わした。おそらく何かを言ってやろうと身構えていたサリエルだったが、実際のラミアを目の当たりにした瞬間、彼は露骨なまでに息をのみ立ち尽くしてしまった。
「……ふ、ふん。成程、どうやらお前も女性を見る目だけはあったみたいだな?」
「ルシアスの妻の、ラミアじゃ」
ラミアはそう言って背筋を伸ばし、可能な限り重々しく厳かな挙動で、そしてなるべくサリエルを見下ろすようにして彼の前に立ちはだかりに行った。
彼女を前にしたサリエルは当初用意したのであろう侮辱の言葉が出てこないばかりか、気圧されたと見えて、元から小さな身長が更に一段と縮こまって見えた。
「兄さまにおかれては、夫が何かと世話になっておるようで」
「こ、こちらこそ、貴女のような見目麗しい貴婦人にお目通り出来たこと、誇らしく思う」
「……?」
「ラミア、手を」
サリエルが急に跪いて意味ありげにこっちを見上げてきたのでラミアが戸惑っていると、ルシアスが脇からこっそり耳打ちしてくれた。そういえば貴族の作法に、手に口づけさせるなんてものがあった気がする。
が、正直ラミアは気が乗らない。何故こんな奴を自分に触れさせねばならんのか……。
「……ラミア、頼む」
繰り返し念を押されてしまったので、ラミアは仕方なく手を差し出し、サリエルの唇がほんの一瞬だけ触れるのを許した。しかしその直後、
「うあっつっ!?」
サリエルが悲鳴を上げて飛び退いたので、ルシアスは何が起きたか分からずに目を白黒させていた。
「大丈夫かい、兄さん」
「あつつつ……なんてことだ、わたしとしたことが唇が裂けて……くっそ、きっと昼食にスパイスをかけ過ぎた所為だ!」
見れば、サリエルの唇が上下とも軽く爛れているではないか。ふんと鼻を鳴らすラミアを見て、ルシアスは何が起きたかを察して兄を洗面所に送ると、困り顔でラミアの元へと帰ってきた。
「ラミア、さては君の仕業だろ? 何をしたんだい」
「爪の先から、ちょっとしたしびれ毒をくれてやった。なあに、大した毒ではない。二、三日も放っとけば治るじゃろ」
「兄さんの態度が何か気に障ったなら、ぼくが謝るよ」
ルシアスは言った。
「けど今日のところは、何とか堪えてくれ。サリエル兄さんは大体、ぼくの粗探しをしていればそれで満足で、ずっと機嫌が良いんだから」
「ルシアスお主……本気でそう言っとるのか」
ラミアは信じられないといった目つきで夫を見た。
「わたしがどうして頭に来とるのか、分かっとらんのか? だとすれば見損なったぞ」
「急にどうしたんだい、ラミア。いつもの君らしくないじゃないか」
「もうよい、ばかもの」
ルシアスが見るからに戸惑いを示していることすら腹立たしくて、ラミアは背を向けると夫を残してひとり階段の上へと去って行った。
そう、自分たちは所詮は見せかけの夫婦だ。おそらく言っていること自体はルシアスの方が正しい。自分には怒る理由など本来何処にもないのだろう。
ならしかし、ラミアが実際にはこれ程までにはらわた煮えくりかえっている状況とは、果たして何なのか。そのことが、ラミアをより一層イラつかせていた。
* * *
「やあ、先ほどはとんだところをお見せした」
二階に行ってラミアが廊下の窓際で不貞腐れていると、後を追うように坊ちゃん頭のバカ貴族がやって来た。じろりと睨みつけたラミアの目に、ひどく腫れたブ男の唇が映る。いっそ跡形もなく溶かしてやればよかった、とラミアは思った。
「ラミアどのといったか? 生活をするにも何かとご不便だろう、こんな片田舎では。どうです。今度是非わが領地にいらしてみては。こことは比べものにならない最高級のおもてなしをご用意いたしますよ」
「それは結構なお誘いじゃ。だが生憎とこの田舎暮らしが気に入っておってな」
ラミアは自覚するより何十倍も冷たい口調でサリエルをあしらった。
「当面ここを離れようとは思わん。それにわたしも田舎の育ちでな、人が多いのは好かんのじゃよ」
「ですが、ルシアスは気が利かないでしょう?」
サリエルは尚も言いつのった。
「わたしなら、あんな男とは比べものにならない待遇をお約束する。正直なところ、貴女ほどの貴婦人がなぜルシアスなどを選んだのか理解しかねる。ひょっとして弱みでも握られているのではありますまい?」
「兄さまはもしや、」
ラミアはせせら笑うように言った。
「ご自分がルシアスより、このわたしに相応しいとお考えか。それは大層なご自信じゃ。成程確かに、わたしはルシアスめに弱みを握られておる」
「やっぱりそうかルシアスのやつめ、なんと許せないやつ!」
「じゃがそれは、前の旦那とこさえたふたりの小さな子どもじゃわ。ご存じなかったか? 子持ちの未亡人と結婚した変わり者貴族だと、そこらで散々噂になっとると訊きましたがの?」
それを聞いた途端、サリエルが見るからにギョッと怯んだのが分かった。その狼狽ぶりがラミアの嗜虐心を刺激して、彼女は弾みがついたように追い討ちをかけた。
「ルシアスは子どもたちにとても良くしてくれるぞ。まるで本当の父親のようじゃわ。それどころかわれら親子を気遣うあまり、夜伽すら未だに迫って来ぬ徹底ぶりよ。見上げた根性じゃて。さて兄さまどうじゃ? 兄さまにそれ程の覚悟はおありかの?」
「あ……あいつ……あいつ何を考えてる。非常識にも程が……」
「ルシアスは愛をささやく時、いつも必ず行動が先に立つ。だがどうやら、」
ラミアはサリエルを傲然と見下ろし言い放った。
「兄さまの場合は違うらしいの?」
「ま、待ってくれ。ならば貴女に贈り物をしよう。とっておきだ!」
「ほう?」
サリエルは服の中を慌ててゴソゴソとやり出したが、ラミアは内心嘲笑っていた。人間如きの宝や装飾品で、今更自分の心が揺れ動くとでも思っているのか――――。
「見てくれ、蛇の悪魔のネックレスだ!」
――――ラミアの頭が一瞬で真っ白になった。
「王都の一部でしか手に入らない、西方の辺境伯がバルバロイの悪魔を殺し作ったという戦利品! やつらの醜い体を解体し、その牙と骨を美しく作り変えてやったと聞いた時、わたしは心が震えてしまって……」
ラミアの耳にはそれ以上、サリエルの言葉が入って来なかった。よりによって愚かな貴族が見せつけてきたのは、ラミアの兄弟姉妹にも等しい蛇の神を殺してその遺体を損壊し作られた、尊厳否定の極みめいた品だったのだ。
息が止まり、動悸が激しくなる。ラミアの脳裏に矢の雨に晒され、全身を火で焼かれて死んだ以前の夫の凄惨な最期がよみがえる。何もかもが分からなくなっていく――――。
「――――サリエル兄さん、すまないが」
いつの間にかやって来ていたルシアスが、ネックレスを見せびらかす兄の手首を掴んで、割って入るように告げた。
「ラミアは具合が悪いようなんだ。今日のところは帰ってくれないか」
「なんだルシアス、お前自分がみじめな生活しかさせられないのに気付いて、不安になったのか? そういうところだよルシアス、大体お前は昔から……」
「出てってくれよ兄さん!」
ラミアはハッと我に返った。ルシアスのこれほど怒りに満ちた声を耳にしたのは、彼と暮らし出して本当に初めてのことだった。
「あんたの下らないプライドや見栄なんて、ラミアの気持ちに比べたらこれっぽっちの価値も無いんだよ! 分かったら早くウチから出ていけっ!」
「誰に向かって口をきいてる盗っ人風情が!」
サリエルは怯むどころか、むしろ逆上したように色白な顔を真っ赤にしてルシアスを睨み返した。血の繋がりはあってもまるで似ていないふたりの男爵が、その日初めて激しい視線を交錯させた。
「卑しい生まれの分際で! 父の恩情で拾われただけの、身の程知らずのクセに!」
そうしてサリエルはルシアスを罵るだけ罵ると、言葉が出て来なくなってもしばらくは憎々しげな表情を浮かべ続け、ようやく肩を怒らせ屋敷を出て行ってしまった。
「…………すまない、ラミア」
長い沈黙の後で、ルシアスは言った。
「あの人をここへ来させるべきじゃなかった」
「なぜ、お主が謝る…………」
「ラミア、ぼくは」
振り向こうとしたルシアスの背中に、ラミアは顔をうずめるようにしがみついた。やがて押し殺した泣き声が廊下中に溢れ、ゴルとゴンが不安そうに現場をこっそり見に来てもなお、ラミアは嗚咽を止めることが出来なかった。
ラミアの頭の中はぐちゃぐちゃだった。蛇族の尊厳が蹂躙されている現実を改めて目の当たりにさせられたこと。比較さえ烏滸がましいクズ男にルシアスが見下され本人すらもそれを受け入れてしまっていること。酷いことが立て続けに起き過ぎたのだ。
それでもラミアは、ひとつだけ確信したことがあった。自分は今まさに呪われている。口づけを交わしたあの日から、ルシアスは自分の一部となったのだ。彼が傷つけられればラミアも傷つき、彼への侮辱あらばラミアもまた我がことのように不快に思う。
そんな呪いを、ラミアは自らに課してしまっていたのだ……。