第3話《揺れ動く熱》
ある月のない夜のことだった。
「――誰じゃっ!」
深夜の真っ暗闇の中でラミアはベッドの淵から鋭い声を発した。光が殆ど無い、屋敷にあるラミアの私室内。だがしかし彼女の感覚は、暗がりの中で徐々に徐々に近づいてくる何者かの存在を、確実にハッキリと捉えていた。
「そこにおるのは分かっておるぞ……隠れてないで出てこいっ!」
蛇の神であるラミアは、たとえ光が無くても体温――つまりは熱の揺らぎだけで生きものの動きを感知することが出来る。
ラミアが侵入者を迎え撃とうとしたその時、不意に目の前に見知った顔が現れて彼女を動揺させ――そのままベッドに押し倒した。
「は――――?」
侵入者の正体は、ルシアスだった。
息を荒くしたガウン姿の青年に夜闇の中でのしかかられ、ラミアは一瞬訳が分からなくなった。が、たちまち我に返るとその体を突き飛ばし、部屋の隅に転がった彼を見下ろすようにラミアは言った。
「馬鹿モンが、いったい何を考えとるっ!」
「ま、待ってくれ。すまない、違うんだ」
床の上で、弱々しく懇願する青年貴族を前にし、ラミアは呆れ返ったようにふんと鼻を鳴らした。
「違うとはなんじゃ? 血迷った若い男が己が欲望をとうとう抑えきれなくなった以外の意味が、今この状況にあるのかの。だがルシアス、貴様にまさか夜這いをかける程の度胸があるとは思わなんだぞ!」
「驚かせてしまったのはすまない。けど、本当に誤解なんだ」
皮肉をあらんかぎり籠めたつもりのラミアの言葉にも、ルシアスはあくまで弁明に尽そうとしていた。
「君のうなされている声が聞こえたから、気になって見に来たんだ。そうしたら急に、酷い目まいがして……ラミア、何か悪い夢でも見たのかい。このところ、ずっと眠れてないみたいだけれど」
「…………!」
「ラミア?」
殆んど音しか聞こえなくてもルシアスにさえはっきり分かる程、ラミアは動揺を露わにしてしまっていた。二の句が継げないでいると、再びルシアスが気にかけてくる。
「ラミア、本当に大丈夫かい」
「……な、何でもないわ。それより目障りじゃ、今日のところは許してやるからとっとと部屋を出ていくがよい!」
「ああ、そうするよ……まだちょっとクラクラする。闇の中でも目がくらむほどラミアは美しいということなのかな」
「馬鹿を言ってるでない」
ルシアスが行ってしまうと、ラミアは遅れて深々と息をつきベッドに座り込んだ。
彼に訊ねられたことは図星だった。今でも忘れがたい、あの日襲ってきた悪夢の光景が眠っていたラミアの脳裏に不意によみがえってきたのである。
「おめおめと生き残って、われわれだけこんな暮らしをしていることを……ひょっとしたら恨んでおるのかの……」
それが起きたのは、同じく月のない夜のことだった。
人間の軍隊が突然、ラミアとその家族が住む山奥の土地に攻め入ってきたのだ。彼らは近隣の村落を支配下に置いていくと、最後の仕上げとして彼らから見た『異教の神』であるラミアたちをも滅ぼそうと目論んだのである。
泣き叫ぶ子どもたちを両脇に抱きかかえ、死にもの狂いで逃げるラミアが最後に目にしたのは、全身に雨あられと矢を浴びせられ焼き殺されていく、誇りも尊厳も踏みにじられた北の蛇族の王たる夫の、あまりに無惨な姿だった。
人間たちが攻撃に用いたのは、視界を埋め尽くすような無数の火矢だった。住処の全方位をくまなく火で取り囲まれたことにより、熱感知能力をもつラミアたちは却って逃げ場を見失ってしまったのである。
「バルバロイの悪魔は討ち取ったり!」
ある兵士が絶叫した。
「野蛮人どもに神の導きを! ヘレネス神に栄光あれ!」
「ヘレネス神万歳! ヘレネス神万歳!」
勝利に酔いしれ、雄たけびを上げる兵士たちを背にしながら、ラミアは怒りと悲しみで今にも狂いそうだった。
野蛮なのはお前たちの方だ。悪魔はよほどお前たちの方だ。われわれが一体何をしたというのだ。お前たちは一体何様のつもりなのだ。
夫の仇を取って討ち死にしたい気持ちもあったが、子どもたちを巻き添えで死なす訳にだけはいかなかった。突如として何もかもを失ったラミアにとって、ふたりの子どもを守り抜く使命感だけが唯一、彼女に正気を保たせていた。
だが寄る辺もなく彷徨ううちにいつしかズタボロとなり、辛うじて保っていた神としての尊厳すら見る影もないほどに削られ尽くした正にその時。
ラミアは、ルシアスと出会ったのである。
* * *
「ねえねえ、母さま」
あくる日、ラミアがいつもみたく私室の窓際に座って物憂げにしていると、そこへ彼女の愛しい子どもたちが姉弟そろって姿を現わした。
姉のゴルに、弟のゴン。人間でいえば五歳児ぐらいの見た目をした、だがしかし実際は一〇〇年近くも生きている双子の蛇の神である。
「母さま、ゆうべはルシアスさんと何してたの?」
「子どもは知らんでよい」
丈の短いドレスを着た姉のゴルが、膝のあたりからラミアの顔を無邪気に覗き込んでくる。どうやらルシアスが昨晩部屋に来たのを、気付かれていたらしい。
「母さま、ルシアスさんと結婚するの?」
「案ずるな、所詮は見せかけだけじゃ」
緑の上着に半ズボン姿をした弟のゴンが、やはり膝のあたりに飛びついて訊ねる。姉弟はどちらもラミアと同じ、白い肌に赤い瞳を受け継いだ姿だった。
「えー、だって母さま」
姉のゴルが弟のゴンの隣に戻ってきた。
「ルシアスさんと初めて会った時、父さまとしてたみたく、ちゅーしてたのに?」
「あれはやつへの呪いじゃ。逆らえないようにするためのな」
ラミアは言った。
「決して愛があった訳ではない」
「「ふーん……」」
「そもそもお前たち、」
声を重ねている双子に、ラミアは以前から気になっていたことを訊ねた。
「ルシアスが怖くはないのか? あやつは人間じゃぞ」
「えー、ルシアスさん優しいよ」
姉のゴルが言った。こういう場合、先に口を開くのは決まって姉の方だった。まるで姉弟間で取り決めがあるかのようである。
「この前、寝る時に絵本読んでくれたもん」
「ご飯もいっぱい食べさせてくれるよっ」
「けど、父さまがいないからやっぱりちょっと寂しいかも」
「ルシアスさん、いつか父さまになってくれないかな」
子どもたちの無邪気な、しかし逞しい姿を見ていると、ラミアは安心するような悲しいような、何処か複雑な自分を認識せずにはいられなかった。これというのも全てルシアスが原因である。
ルシアスの命を救うのにどれ程の意味があったか、今となってはラミアにもよく分からない。死ぬのを待って肉を食っても、その場を生き延びるだけでいずれ破綻するだろうと直感したのか。はたまた死を受け入れるような態度が当時の自分と重なり、無性に腹が立ったのか。どのみち確かなのは、ルシアスを呪ったあの日、まさかこんな暮らしが待っていようとはラミアは予想だにしなかったということである。
ラミアにとって愛した男は、今でも双子の父である蛇族の王ただひとりである。支配する土地の規模も、その心身の頑健さも、ルシアスとは比べものにもならない、しかし。
ならばラミアを日々襲う戸惑いの正体は、いったい何だというのだろうか。
「あれっ?」
その時、姉のゴルが何かに気付いたように顔を上げた。
「今、なんか大きな音がしたよ」
「ぼくも聞こえた! 何だろね?」
「見に行ってみよ!」
双子の姉弟は他に興味を惹かれる対象が出来たらしく、仲良く連れ立って部屋を出て行ってしまった。ようやく解放されたラミアは、やれやれと大きく息をついた。何にせよ、子どもたちが明るく元気な日々を取り戻したことだけは、ラミアにとって紛れもなく良いことであった。あのふたりが幸せであってこそ、夫を置いて自分だけ生き残ってしまったことにも意味があるというものなのだから……。
「大変大変、母さま!」
今しがた部屋を出て行ったばかりのゴルとゴンが、ドタドタともの凄い勢いでふたり揃ってラミアのもとに駆け戻ってきた。子どもたちには似つかわしくない、何かただならぬ顔をしている。
「ルシアスさんが、階段の下で倒れてるよ!」
「何っ!?」
ラミアは椅子を蹴倒して立ち上がると、子どもたちに案内されるまま私室を出て一直線にルシアスのいる階下へと赴いていった。本人は気付いていなかったが、それはラミアが自らの意思で部屋の外へと出た、本当に久しぶりの出来事だった。
子どもたちの言う通り、廊下から二階に上がる階段のすぐ下のところでルシアスは普段着姿のまま、うつ伏せになって動かなくなっていた。
ラミアが慌てて抱き起すと、幸い息はあるようだったが胸の上下するリズムが見るからに荒く、しかも顔面は蒼白となって明らかに健康な状態ではなかった。
「おい、しっかりせよルシアス! 何があった!」
何度呼んでもルシアスはまともに返事をする気配がない。
と、ラミアは手の平にべったりと嫌な感触があるのに気づき、その位置を確かめて驚愕した。初めて会ったあの日、ルシアスが矢を受けていたのときっかり同じ場所から、変色した血が滲んでいたのだ。単に古傷が開いたとしても、あの日と同様傷の大きさに比して衰弱ぶりが尋常ではない。まさか、
「ルシアスお主……毒が完全に消えとらんのか!?」
思えば昨晩も様子がおかしかった。てっきり夜這いを誤魔化す下らない言い訳とばかり考えていたが、よりにもよってこんな理由だったとは。
「ラミア……すまない……迷惑をかける気は……」
「もうよい喋るな、大人しくしておれ……!」
ラミアはかつてと同じように、体内でありったけ強い解毒成分を生み出すと間髪入れずルシアスの頭を抱き寄せて唇から唇へと直接、それを体内に流し込んだ。
乱れていたルシアスの呼吸が、それから少しずつ落ち着いていくのが分かった。ラミアが駆けつけてから僅か数分足らずで、ルシアスは命の危機を脱した。
「……すまない」
ラミアが唇を離すと、自力で体を起こせるようになったルシアスはしかしまだ弱々しい笑みを浮かべていた。
「余計な心配をかけてしまったね」
「言うな、今回はわたしの落ち度じゃ」
ラミアは珍しく素直にルシアスへと詫びた。
「子どもたちが教えてくれなければ危ないところじゃった……すまぬ」
「良かったね、ルシアスさん!」
危機を知らせた張本人である姉のゴルがニコニコして言った。
「また母さまとちゅーしてたね!」
「ありがとう」
ルシアスは照れる様子もなく生真面目な調子で礼を言った。
「君たちのお陰で助かったよ」
「ねえルシアスさん、あれなぁに?」
弟のゴンが訊ねたのにつられて、ラミアも初めてその存在に気が付く。廊下の向こう側、玄関広間の応接机に目を凝らすと見慣れないビンの山が出来ている。中には青紫、赤桃、茶色と、様々な色の植物の花や葉のようなものが詰まっているのが見えた。
ルシアスは微笑んで言った。
「君たちのお母さん……ラミアのために、ハーブとアロマを取り寄せたんだ。そのことを伝えに行こうとしたら、途中で倒れてしまってね」
「何?」
ラミアが怪訝な顔をしていると、ルシアスは説明し出した。
「ラミアは最近あまり寝られてないみたいだから……ローズにシナモン、ラベンダー……ほかにも香りが良くて、安眠に効果のある植物を思いつく限り集めて貰ったんだ。部屋に飾って置いても良いし、お茶にして飲んでも良いそうだよ」
「わぁ……いい香りだねぇ!」
「きれい!」
「…………今朝から何か運び込んでおるとは思ったが、アレじゃったのか」
「ラミア、もしかして何かマズかったかい?」
「いや……」
連日の悪夢と寝不足で殆んど気にも留めていなかったが、まさかルシアスはずっとどうにかしようと動いてくれていたというのか。所詮見せかけの夫婦でしかない、などと突き放して考えているこの自分を……。
ハーブのビンを指さしてわいわい喜んでいる子どもたちを、ルシアスは優しい眼差しで眺めていた。そんな彼の顔を見つめていると、ラミアは唇が僅かに火照るのを感じて、思わず慌てて目を逸らした。
あの日ラミアが本当に呪いをかけたのは、ルシアスではなくラミア自身だったのかもしれないと、彼女は一瞬そう思った……。