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第1話《ラミアとルシアス》

 神聖ヘレネス王国の北部。

 とある小さな村のはずれに辺り一帯を治めている若い領主の屋敷がある。

 その屋敷の二階部分にある窓際で、黒いキルトのドレスをまとった男爵夫人・ラミアはひどく機嫌が悪そうにしていた。


「どうかしたのかい、ラミア?」

「つい今しがた、そこの小道を村の連中が通って行った。その時に話している内容が聞こえたのじゃ」


 屋敷の傍にある森を見つめるラミアは、頬杖をついたまま振り返りもせずに言った。彼女を離れたところから見守るのは、微かに日焼けした青い瞳にブロンドヘアの美しい青年ルシアス=キーツ男爵。他ならぬこの屋敷の主であり、村を含めた領地とその周辺を取り仕切る人物だった。


「『変わり者の領主さまはようやく妻を(めと)ったらしい。だがしかし女は家柄も知れぬ年上の未亡人、その上ふたりの子持ちだそうな。やっぱり領主さまは変わり者じゃ。何事もなければよいが、くわばらくわばら……』」

「村人たちのウワサ好きにも困ったものだ」


 ルシアスはため息など吐きながら、しかし何処か他人事にも聞こえる口調で言った。まがりなりにも貴族の身分で、いわば平民階級から陰口を叩かれていたというのに、意に介している様子はこれっぽっちも見られない。


「ラミアは耳が良いんだね。屋敷から離れたところの音まで、そんなにハッキリと聞き取れるだなんて」

「慰めにもなっとらんわ。それよりルシアス、お主こそ良いのか?」


 ラミアはその切れ長の目でようやく彼女の夫を振り返ってこう訊ねた。艶のある白肌に試すような鋭い目つきを湛えたラミアの相貌は、ほんのり褐色がまじりながら柔和な笑みを浮かべたルシアスのそれとは、まるで正反対の組み合わせであった。


「いわば、領民どもに軽んじられておったのじゃぞ。お主よく平気な顔をしていられるな。今からでも捕まえて八つ裂きにしてやろう、ぐらいには思わんのか?」

「平民というのは基本、娯楽に飢えているからね。些細な変化でも物珍しいのさ。取り締まってもはじまらない。それに、」

 ルシアスは変わらない微笑みを湛えて言った。


「彼らが何を言おうと、ラミアが素敵な女性であることをぼくは知っている。誰が何を言おうと、君を妻にしたことをぼくは後悔する気はないよ」

「ほう……これでもか!?」


 その瞬間、ラミアの怒気が乗り移ったように彼女の長い黒髪がぶわっと全方位に向かって大きく広がり、みるみるうちに銀色の美しい光沢を放ちシューシューと口々に威嚇の声を上げる無数の蛇へと形を変えた。仁王立ちになった彼女の足元に座っていた椅子が音を立てて倒れる。


 そう、ラミアは人間ではない。

 六〇〇年の時を生きる異教の女神。蛇神(じゃしん)ラミアなのだ。


「ふん……やはり恐ろしいか、わたしのこの姿が」

 突如異形と化した妻に数えきれないほどの瞳で睨みつけられ、対峙したルシアスは息をのむように固まっていた。実際、大抵の生き物は彼女の眼差しを浴びたら石のように身動きできなくなってしまうものだった。


「無理もあるまい。お主らから見れば所詮、わたしは醜い異教の神。征服すべきバルバロイどもの悪魔じゃわ……」


 ラミアは自分で言っておいて、何故だかひどく悲しかった。

 ルシアスを脅しつけるほど、自分の置かれているこの状況が惨めでたまらなくなってくる。神などとはもはや名ばかり。ラミアを尊厳ある者たらしめた土地も歴史も、美の基準さえも今や何処にも残ってはいないのだ……。


「すまない、ラミア!」

「…………んんっ!?」


 不意に耳元で囁かれた言葉が、全身を包んだ力強い腕の感触と体温とで何倍にも増幅されて、ラミアの心臓を刺し貫く。ラミアはルシアスに、いつの間にか力いっぱい抱きしめられていた。はるかに年下の、それも人間の男からそんな風にされるとは思っておらず、ラミアは頭の中が混乱してぐるぐると渦を巻いていた。

 彼女は蛇の神であるにもかかわらず、自分自身が石のように硬直してしまった。


「ま、待て待て待て、何をしとる!」

 辛うじて残る神としての威厳から、ルシアスを慌てて引きはがしたラミアは動揺を努めて表に出さないように振舞った。


「今の話の流れで、どうしてそうなるんじゃ!」

「ラミア、どうかぼくを許してくれ。君を妻にすると誓っておいて、君がそんなにも不安を抱えて過ごしていたことに気付かなかった」

 身を離してもなお、ルシアスはラミアの両手をしっかりと握り締めていた。しかも何なら、その瞳がちょっと潤んでさえいる。


「ぼくは夫として、男として、いや貴族として失格だった!」

「何もそこまで言うとらんじゃろ。おい、いっぺん落ち着けルシアス!」


 不機嫌にいら立つラミアをルシアスが宥めていた当初の構図が一転、いつの間にやら感情のほとばしりに任せるルシアスをラミアの側が説き伏せるという具合に、すっかり立場が逆転していた。


「大体お主、こんなところで何をやっておる? 領主であるからには真っ昼間から油を売っとるヒマは無いハズじゃが?」

「子どもたちを今さっき寝かしつけたから、ラミアはゆっくり休んでていいと言うつもりで来たんだ。そうしたら君が深刻そうな顔をしているのが見えてしまって」

「……それを先に言わんかいどうもありがとうのっ」


 ラミアは心持ち声を小さめにして吐き捨てるように礼を言った。失格どころか割と及第点寄りではないかと一瞬思ったが、あえてラミアは口に出さないでおいた。


「大体、領民どもの不安だって尤もじゃわ。わたしみたく出自も分からん女がいきなり領主の妻に収まって、しかもその正体はお主らがいう辺境の蛮人……バルバロイどもを惑わす醜い悪魔じゃ」

「悪魔だなんて言わないでくれ!」

 ルシアスは言うが早いかラミアの眼前にさっと跪いてみせた。


「ラミア、君という女性はぼくが今まで出会ってきた中で一番と言っていい女神だ。強く、逞しく、気高く、美しい! 君以上に崇高な女性をぼくは知らない。君は女神なんだよ、ラミア!」

「じゃからわたしが言っとるのは……ええい、まだるっこしい! 話が嚙み合っとらんではないかっ」


 ラミアは段々、最初が何の話だったのかを忘れかけていた。ついでに、ルシアスがあんまり褒めそやすものだから出現当初に怒気を孕んでいたラミアの頭髪の蛇たちは、本体の感情が伝染したみたく今やすっかり恥ずかしがって、顔を隠すように内側に丸まってしまっていた。蛇の神も形無しといった具合である。


「もう良いから、わたしのことは放っておいて本来のお主の仕事をせえ。お主は仮にも領主じゃろ。わたしより領民どもの心配をせえ」

「ならそろそろ、仕事に戻るよ……ああ、そうだラミア」

「今度はなんじゃっ」

「夕飯は、子どもたちは何が喜ぶだろう? ニワトリの丸焼きでもいいかな?」

「何でも好きにせえ……!」


 ルシアスがようやく部屋から行ってしまうと、ラミアは倒れっぱなしだった椅子を元に戻して再び窓際に深々と座り込んだ。当初の不愉快ないら立ちはすっかり霧散したが、今度はまったく別の意味でどっと疲れ果てた気がしていた。


「あいつはいったい何がしたいんじゃ……」

 領民たちがウワサする通り、ルシアスという男は貴族としては相当変わり者の部類なのだろう。内面や行動があまりにも読めなさすぎる。

 こうなると分かっていれば、自分はあの日、ルシアスを夫にすると決めただろうか。


「……呪いが、あんまり効き過ぎたのかもしれんのう……」


 * * *


 それは辺境に程近い、王国北部の山中を彷徨っていた日のことだった。暗闇の中でガサガサと茂みをかき分ける音がして、反射的にラミアはそちらを振り返った。姿を現わしたのは、赤い狩猟服に身を包んだひとりの若い男だった。


「…………母さま」

 不安そうに縋ってくる娘と息子を後ろに下がらせ、ラミアは牙を剥き出し男に激しい威嚇の声を上げる。頭部の蛇たちも戦闘態勢だった。来るなら来い、返り討ちにして引き裂いてやる。それぐらいの覚悟だった。


 だが突然出てきたその男は、意外なくらいに敵意も恐怖も示さなかった。それどころか、ラミアの背後にいる小さな子どもたちの存在を目にすると驚いたように黙り込み、それからラミアを再び見てフッと穏やかな笑みさえ浮かべてみせたのだ。


「…………何のつもりじゃ」

「ぼくは……もうじき死ぬ……」


 男は唯一携えていた武器を脇に放り捨てると身に着けてた帽子や手袋、上着などを脱ぎ捨て始め、その過程で苦痛めいたうめき声を漏らして一瞬くずおれそうになった。


 ラミアはその時、初めて気が付いた。男の背中側の脇腹に一本、矢のようなものが突き刺さっていたのだ。内側に着込んだ白い服に出血が広がっているのが見える。しかし傷の大きさに比して、男の衰弱ぶりは尋常ではなかった。


「人間同士の争いか」

「おそらく君は…………蛇の神だろう。人間の毒ぐらいでは…………死ぬまい。ぼくの命が尽きたら…………子どもと一緒にぼくを喰らって、生き延びれば…………」

「……何が狙いじゃ」

「君のような目をした人を……知っているだけだ……」


 男は自力で上体を起こすと、グラつきながらも辛うじて座った体勢のままラミアの方を見た。見るからに高貴な身分の男だ。最期の意地といったところかもしれない。


「自分のすべてを捧げて…………子どものためにすり減らし…………今にも折れてしまいそうな…………君たち親子を救うのが…………きっとぼくの…………天命…………」

「…………ふざけるでないわっ!」


 ラミアは思わず、つかつかと近寄って男の胸ぐらを掴んで引き寄せた。男は激しく咳き込んだが、ラミアは彼が倒れるのを許さなかった。その命がもはや風前の灯火と分かってなお、ラミアはこれまで溜め込んだものをぶちまけずにはいられなかった。


「われら親子を救うのが天命じゃと! きさまらの神がわれらに何をした! 先祖代々の土地を奪い、森を焼き、親子ともども飢え死ぬ寸前まで追い立て回した! そんなわれらを救うのがきさまの神が与えた使命じゃと? 思い上がりも甚だしいわっ!」


 ラミアも子どもらも、もう長いことまともな食事をしていなかった。何処へ逃げても大半の自然は切り崩され、獲物も隠れ家もなく、生き恥を晒すぐらいならいっそこのままと、最悪の考えさえ頭をよぎる日もあったぐらいだ。ラミアにとって、男の言葉はどうしても我慢のならないものであった。


「すまない…………」

 男は再び咳き込みながら詫びた。

「無神経なことを言った…………だがどうか、子どもたちを救う選択を…………頼む」

「望み通り、きさまの命はわれらが使ってやる。じゃが、」

 ラミアは言った。


「きさまの神に恩を売られるのだけはまっぴらじゃ。わが力で毒を消し、きさまを生き延びさせる。これから先その命、われら親子を守るため捧げ尽くせ! 死など許さん!」


「…………ああ」

 男は微かに驚いた顔をしたものの、ややあってから弱々しい、かすれかけた声で首を縦に振り、契約を受け入れた。どのみち、男に選択肢は残されていなかった。

「好きにしてくれ…………」

「よいか、思い違いをするでないぞ。これは呪いじゃ……」


 ラミアは蛇の神だ。あらゆる毒と同じだけ、それらを解毒する成分をも生み出して操ることが出来る。

 ラミアは考え付く限りの最も強力な解毒薬を己の牙から溢れさせると、男を抱き寄せて口移しで強引に体内へと流し込んだ。


 しばらく解毒を続けていると、触れ合う唇の先から、抱き寄せた胸板の向こう側から、徐々に生気が蘇ってくるのをラミアは感じた。やがて命の灯火の戻った男が、彼女の目の前でゆっくりと目を覚ました。

 男が最初に目にしたのは、唇を重ねてくるラミアが無言で涙を流す光景だった。


 こうしてその日、ラミアとルシアスは夫婦となった。

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