英雄には試練を。聖者には誘惑を。悩める者には夜を。
不幸だ。
地上への階段を登った先にある駅の小さな出口で、俺は少しだけ濡れた服の冷たさを感じながら夜空を見ていた。
雨が、やんでいる。
俺が学校から帰ろうとしたときには、恐ろしい程の強風と大雨があったのだ。さらに俺の折りたたみ傘が、駅に着く前に壊れてしまっている。加えてカバンも湿っており、中に入っている大切な文庫本がダメになっている。
「理不尽だ……」
ため息をつき、俺は歩き始める。靴がぐっしょりとしていて気持ち悪い。
すぐ目の前にある大きな十字路を左に曲がる。歩道をしばらく進むと、左手にドンキ・ホーテがあった。
「酒、飲みたくなってきたな」
無性に飲酒欲が沸き続けている。
俺は早速店に入った。初めて来た時は迷路のように思えた店内だが、今では慣れたもので、すぐに酒コーナーに着いては缶をいくつもかごに入れて、精算を済ます。
「いや~、在庫処分セールはありがたいな」
俺の右手には五、六本の缶ビールが入った黄色いレジ袋があった。今日の授業中で、課題作品について酷評を散々言われてしまい、メンタル的に辛かったのだ。今日はこれで記憶を飛ばそう。二日酔いなんて知るか。
店を出て、再び帰路につこうと敷地から出ようとする。
その時に、自転車に乗った男が目の前を通り過ぎる。
「え?」
思わず声が出た。
正面からは、ただの不潔そうな人に見えただけだった。だが後ろから見ると、不思議な髪型をしていることが分かったのだ。
簡単に言うならば……前髪は普通なのに、後ろだけがアフロっぽくなっている、という表現になるのだろうか。
「今度の作品にでも活かそうかね」
困惑しながらも、俺はまっすぐ歩いてすぐにある小さな交差点を、一つ目の信号で右へ、二つ目で左へ渡る。そしてまた右へ進み、道なりに進んでいく。
ここは明かりがほとんどなく、割と暗い。さらに軽くS字を描いている。自動車を運転している人は大変そうだ。こちらとしても、ここで見るヘッドライトは眩しすぎる。
そして歩道は狭い。雨の日は傘を差して歩いている人がそこそこ通るので、避けるために道路に出てしまうことは少なくない。
二つ目のカーブを超えて、車道の左端に寄って真っ直ぐに進んで行く。右手には個人経営であろう焼き鳥屋や、廃れているように見えるうどん屋がある。まだ入ったことがないので、いつか訪れてみたいものだ。
……周りが、静かだ。
つい、物思いにふけってしまう。なぜ俺は専門学校に入ったんだろう、と。
いつだっただろう。誰かが言っていた。好きなことを仕事にすると、かえって嫌いになってしまう。正直、半分正解で、半分間違いだと思う。
周りから評価されるのは、怖い。いくら自分が面白いと思っていても、周りから見るとそうではない。それを嫌というほど思い知らされた。
ここが出来ていないとか、面白いと思えないとか、共感できないとか。直せばいいだけのことだが、どうも気持ちが追いつかない。毎日毎日、寝ても覚めても自己嫌悪の繰り返し。既存の商業作品も、純粋に楽しめなくなった。必ず、どこかで自らの創作に活かすために、頭が勝手に分析してしまう。おかげで趣味が一つ減った。たまったもんじゃない。
辛い。入学して半年でギブアップしそうになった。
だけど――それでも、楽しいのだ。
自分の中にあるアイデアを、世界を、思いを、形にするのは。
たったそれだけ。それだけで、俺は体を動かしてしまう。なんでこんな面倒くさい奴になったんだろうな、俺は。
目の前が少し明るくなっていたことに気づく。いつの間にか、神社の前へ来ていた。神社といっても、小さな夏祭りが開かれるほどの広さで、そこまで大した規模ではないが。 それは向かって左にあり、目の前には小さな十字路と交番がある。
ここの信号は色が変わるまでの時間が短い。俺が立ち止まって十秒ぐらいで、青に変わった。俺は横断歩道を渡ろうとする。
すると後ろから光が射し、同時にバシャンッと音が聞こえた。
……あー。
一瞬で己がどうなるかを察してすぐに、自分の体に水しぶきがかかった。車はあっけなく去って行った。
「くっそ、最悪だ……」
おかげで袋の中の酒にまで水がかかってしまった。帰ってから水道水でゆすごう。
濡れた服の重みを感じながら歩を進める。
そういえば、ポケットに入れていたスマホは無事なのだろうか。俺はレジ袋を左手に持ち替えて、右手でスマホを取り出して電源を付ける。いつも通り、液晶画面に明かりが灯る。
そしてその通知欄には、予期していなかった通知があった。
「――旅行券、当選」
俺は思わず口に出してしまう。
顔がニヤける。
学校に入ってからは経済的な余裕がなく、今まで趣味である旅行が出来ずじまいだったのだ。
おまけに、目先には連休が待っている。
……これはきた。
「さて、どこに行こうかね」
俺は僅かな明かりしかない道を歩き始める。重くなったはずの足が軽い。
当日の予定だとか、現地ならではのグルメのことだとか、そんな楽しいことを考えているうちに、暗い路地を通り抜けて歩道へ出ていた。向かい側には中学校がある。
正門近くにある時計を見ると、時刻は九時になっていた。
「さて、まずは晩酌だ!」
俺は気分良く二階建てアパートの敷地に入り、一〇一号室のドアを開けた。
〈了〉