耳まで裂けた口で微笑んで
「ここがアタシの家です」
そう紹介されたのは、少し古めかしい一軒家だった。
相談所からバスで十分くらいの距離にある場所だ。
もう少し時間がかかるのではと思っていたので意外だった。近場で助かる。
口裂け女が私を先導し、中へ。
しかし、ドアに手をかけようとしたがすり抜け、通り抜けてしまった。
私の目にはごく普通の女性に見えるくらいであり、霊視をしない普通の人間ですら見えることのあるような実在感を口裂け女は持っている。
それでも彼女は幽霊なのだ。何者にも触れられないのだった。
そのことにショックを受けているのだろう、彼女は立ちすくんで動かなくなる。
私は彼女に視線だけで慰めを送り、呼び鈴を鳴らした。
するとしばらくして扉が開き、中から中年の男性が顔を覗かせた。
「どなたですか?」
私の方だけを見ている。どうやら口裂け女は彼には見えていないらしかった。
「あの。明美さんという方について、少しお伺いしたくて」
明美というのは口裂け女の元々の名前だ。
青年は首を傾げた。
「すまないけど、そんな人は知らないですね。もしかしたら前の住人じゃないですか?」
「前の住人?」
「ええ。去年越して行ったらしいんですけどね、僕が来る前は一人のお婆さんが住んでいて。その人のお知り合いじゃないでしょうかね」
私は呆然とした。それでは、探しようがないではないか。
口裂け女が家の中へ入っていき、やがて戻ってきた。
「……確実にアタシの家だった場所ですが、確かにもうアタシの家ではなくなっているみたいです。……せっかくついてきてくださったのに、すみません」
私は頭を抱えたくなった。これでは、彼女の無念を晴らすことはできない。
「――はぁ。どうしよう」
△▼△▼△
「不動産屋さんに問い合わせてみてはどうでしょう……?」
少し自信なさげながらの口裂け女の提案に、私は悩んだ。
不動産屋がいちいち前の住人のことなど把握しているのだろうか? していたとして、その行き先までも?
わからないが、その手しかなさそうだった。時間は無限にあるわけではないし、行動に移すしかないだろう。
かくして不動産屋へ向かった私たち。
そこの店主は気さくな人であり、その上色々なことを知っているらしかった。次の住人の行き先について、「個人情報だから」と最初は言うのを渋ったものの、前の住人の孫娘だと言うと、意外にすんなり教えてくれた。
「ありがとう」
やはり口裂け女のことは見えていないらしい不動産屋へ、私は頭を垂れた。
でも考えれば考えるほど不思議な話だ。彼女が見えなければ都市伝説は広まらないはずだし、子供が襲われるという話なのもおかしい。未成年だけに見えるのだろうか?
よくわからない怪異である。しかも、自分自身でもわかっていないらしいし。
そうこう考えているうちに、今度こそ本当に口裂け女――明美の家族の住むらしい、アパートまでやってきた。
想像以上に遠かった。それこそ、電車で一時間以上はかかる。どうせ近場だと安堵した先ほどの自分を呪いたい。
疲れたが、休んではいられない。もう夕方が近く、急いで帰らないと心配をかけてしまうから。
そう思っていると、口裂け女がこんなことを言い始めた。
「でも不思議なのは、あのお兄さん、お婆さんが一人だけって言っていましたよね? 不動産屋さんも。でもアタシの家族は祖父と姉だけなはずなんですが……」
首を捻る彼女。確かにそれは変だった。
きっとその答えは、この先に待っているのだろう。そんなことより急がなくては。
私は部屋番号を確認しながらアパートの階段を登り、部屋をノックした。
「どうしたんだい、お嬢ちゃん?」
出てきたのは、腰が曲がった老年女性だった。
六十前後くらいに見えるが、頭は白毛だらけだしすっかり老けてしまっている。これではお婆さんと呼ばれるのも仕方ないだろう。
「初めまして。今日は少し用事があって、ここまでやってきました。明美さんという女性を、知っていますか?」
途端に老婆の血相が変わった。まるで人形のように空虚だった瞳が驚きに見開かれ、唇が噛み締められる。
「あんた、まさか明美のことを知ってるのかい?」
質問を同じ質問で返されてしまったが、まあ構わない。
頷くと、老婆は慌てて私を中に入れた。やはり口裂け女のことは、見えていないようだったけれど。
△▼△▼△
「明美は、わたしの妹なのよ。もう三十五年も前に、行方不明になってしまってね」
老婆の言葉に、私は息を呑まずには居れなかった。
三十五年。
そんなにも長い年月、口裂け女は成仏できないでいたのか。そう思うと気が遠くなりそうなくらいだ。
普通、一年も成仏しないで止まっていれば、幽霊は悪霊となり人を祟る。
色々と悪い噂はあれど、本人曰く口裂け女の伝承は、彼女の素顔をうっかり見てしまった子供たちの法螺が半分以上とのこと。今日付き合ってわかったが、彼女は至って健全な人間――、いや、人ならざるものの中では人間的、と言った方がいいだろう。
老婆は話を続けた。
「明美がいなくなってから、祖父と母と一緒に必死に探したの。明美が失踪した日、おぞましい顔の女が家へきたの。だから、そいつが犯人なんじゃないかって。……でもね、全然見つからなくて。お母さんとおじいちゃんは、先に逝ってしまったわ」
口裂け女が、悲しげに顔を覆う。
本当のことを言いたくても、彼女の声は老婆には聞こえないのだ。
「姉さん、姉さんっ!」
私はいたたまれなくなった。
せっかく三十五年ぶりに再会したのに、片方は再会したことを知らず、片方は言葉を届けることすらできない。
その時、私はふと閃いた。
「――姉さん、私よ、姉さん」
私の言葉に、口裂け女と老婆は同時にギョッとした。
これは少し強引な手かもしれない。でも私の頭では、これくらいしか思いつかなかった。
私に口裂け女が乗り移ったと見せかけて、彼女の言葉を直接伝言するのである。
口裂け女は、私の意図をやっと理解したようだった。
老婆が問いかけてくる。「誰だい、あんた?」
「アタシよ、明美よ」
「私よ、明美よ。今はこんな女の子の体だけど、私は明美なの」
自分でも、なんと馬鹿なことをしているのだろうと笑いたくなる。
私は口裂け女が紡ぐ言葉をそっくり真似して、芝居気取りで続行した。
「姉さん、会いたかった。ずっとずっと、会いたかった……。もうあれから三十五年経つなんて、信じられない。夢みたいだわ」
「明美……」
「実はね、私がいなくなった日、家に来た怖い顔の女は私だったのよ。整形手術に失敗して、耳元まで口が裂けてしまって」
「え?」老婆がさらに目を見開いた。目玉が飛び出してしまいそうなくらい。
「追い払われて、醜くなったんだと知って、私は自殺してしまった……。ごめんなさい姉さん。母さんやおじいちゃんにも、本当のことをちゃんと言っていればわかったかも知れないのに。ごめんね、勝手に死んだりして……」
私は口裂け女から聞かされて、全てを代わりに語った。
隣の口裂け女は、涙をポロポロ流している。
直接伝えられなくても、私を介しての姉妹の再会。どこか目が潤むものがあった。
「姉さん、こんなに時が経ってしまったけれど、この女の人が体を貸してくれて、なんとかまた会うことができた。それが今私、とても嬉しいの」
老婆――明美の姉が、私に抱きついてきた。
見知らぬ女性に抱き込まれるのはあまりいい気分ではないが、今だけは無粋なことは言わない。
「ああ、姉さん、幸せ……。これでやっと、アタシも成仏できます」
その声に振り返ると、私は思わず「あっ」と声を上げた。
なんと、口裂け女の体が半透明になっているのである。それはどんどん薄くなっていた。
私は全てを悟る。彼女もまた、旅立つのだと。
「良かったわね」
私が思い出すのは、最初に出会った幽霊の少年のこと。
あの時を思い出して泣きそうになる。けれどその涙はグッと堪えた。
「ありがとうございます。本当にありがとう。あなたがいてくれたおかげです」
そう言うなり口裂け女は、勢いよく自分のマスクを剥がした。
その瞬間、今まで隠れていた彼女の素顔が露わになる。
耳まで裂けた大きな口。普通なら見るもおぞましいそれが、太陽のように明るい美しき微笑みをたたえていた。
「――さようなら」
都市伝説、口裂け女は消えていった。
△▼△▼△
その後私は、彼女が旅立ったことを伝えた。
老婆は泣きながら感謝を言ってくる。私もまたも人助け、いや人ならざるものの助けになれたことが、嬉しくてたまらない。
「……これでようやく、安心して逝くことができるわ」
明美の姉は、実は癌で余命が短いのだそう。
死ぬ前に妹に会いたい、そのたった一つの願いを叶えてくれたのだと彼女は言った。
「余生は静かに過ごして、明美に会いに行くわ。あの子、きっと私を待っているもの」
私は頷いて、そのままアパートを後にした。
帰った頃にはすでに夕刻。
相談所に戻ると、丘子が「どこに行ってたんですか? 探しましたよ!」などと言ってくる。
「あなたがオカルト番組に現を抜かしてる間、私は都市伝説に会ってきたのよ。悔しいでしょう?」
「えっ!? なんですかそれ、聞いてないんですけど!?」
その後丘子がかなりヒステリックに怒鳴り散らしたことは余分なので省いておく。
今はただ、恐怖の都市伝説が幸せな結末を迎えられたことを喜ぶべきだろうから。




