夢と踊れ
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「どうして?どうして来てくれなかったの?もしかして、私たちの大切な日を忘れていたの⁉」
いつもはおとなしい彼女が、激しく詰め寄ってくる。今日という今日は、さすがにヤバいかもしれない。
「別に、忘れていたってわけじゃない。ただ、外せない仕事があったというか、抜けられなかったというか……これも、生活費を稼ぐためで」
ちらりと彼女を見る。俺のとっさの言い訳は、全く功を成していないようだ。
むしろより怒りは増したようで、彼女は目に涙を溜めて言った。
「私のことなんて、もう好きじゃないくせにっ‼」
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「……これは流石にリアルじゃないだろう」
そう思い、編集画面で女のセリフを削除する。男のしょうもない言い訳も書き直そうかと思ったが、とりあえずこのままにしておく。しかし、これではくさくて不自然なメロドラマのワンシーンだ。やはり私には、恋愛噺は難しい。ここでこういうセリフを言い放つ、ということを想像することができない。そもそも、妻しか恋愛経験がない人間が、恋愛の噺農家をやっている現状がおかしいのだ。いくらAIに噺を書かせるといっても、噺木に情報を与えるのは噺農家だし、文脈やセリフの不自然なところを剪定するのも噺農家なのだ。そうでなければ、噺木はうまく育たず、卸売業者に買い叩かれるような量産品の噺しか実らない。
そもそも、噺を大量に消費する、この噺消費社会が悪いのだ、と私はいつものように結論付ける。AIに仕事を奪われたような人間に、クリエイティブなことができるはずがない。噺を用いて何か新しいことを表現することなど、できるはずがないのだ。つまり、そんな人間のために、噺を提供しても意味などない。
自分の仕事を否定したついでに時計を見ると、すでに二十一時を回っていた。虫の居所が悪かったのは、腹が減っていたのが原因らしい。どうして妻は呼びに来なかったのだろうか。そう考えながら、また一ついやなことを思い出す。
私は、妻のミェナともうまくいっていない。きっかけは一年前。私の仕事が安定してきたことを理由に子供を作ろうとして、失敗したことだ。そのときからでお互いの間に距離が生じ始め、私の噺農家という特異な仕事もあって、その距離は今日まで縮まずにいた。家で顔を合わせただけで気まずくなるような、そんな生活が続いて久しいが、しかし夕飯だけは一度も欠かさず一緒に食べていた。
不審に思いつつダイニングに向かうと、妻はそこにうつむいて座っていた。何やら、よそ行きの服を着ている。食卓には、パックに入ったハンバーグやサラダが並んでいた。
「ミェナ、なんで呼ばなかったんだ?いつもなら十九時には私を呼びに来ていただろうに。それにその服は……」
話しかけるが返事はなく、代わりに質問が返ってきた。
「今日、何の日か覚えてる?」
「今日?……ちょっと待ってな、カレンダーをチェックするから」
そう言い、携帯端末で予定表を確認する私を、妻は手で制した。
「もういいよ。……やっぱり、忘れていたんだ?」
「忘れていた?……いや、勿論そんなことはない。ただ少し仕事が忙しかっただけで……」
「ねぇ、正直に言ってよ……忘れていたんだよね?」
どうやらすでに言い逃れはできないらしい。
「いや、仕事が忙しかったんだ、仕方がないだろう。私も生活費を稼がないといけないし、その大変さは君も承知しているはずで……」
妻は少し押し黙った後、こう言った。
「私のこと、もう愛していないんだね」
その目には涙が溜まっていた。そのままおもむろに立ち上がると、「さよなら」と言い残し、走って家を出ていった。
事態に追いつけていない私の頭は、ああこのセリフはリアルでいいや、という考えしか思い浮かばなかった。カレンダーには、『結婚記念日・駅前のレストラン集合』とあった。
そして私は、そのとき彼女を止めなかったことを一生後悔することとなる。家を飛び出た妻はそのあと、交通事故に巻き込まれた。今時珍しい、手動運転で動く車だったそうだ。病院から連絡を受け、急いで駆け付けると、妻はすでに集中治療室に運び込まれていた。私は医者ロボットに詰め寄り妻の容態を訊ねたが、「現状では答えかねます」と素っ気なく返されるだけだった。結果、妻は一命をとりとめはしたが、意識は戻らず、いわゆる植物人間となった。
私は仕事を放り投げ、毎日病院に通い詰めた。しかし、話しかけても、体を拭いても、傍らで泣き叫んでも、妻は反応のひとつすらしなかった。私には、後悔と自責の念だけがあった。一度、妻に数本の管で繋がれた生命維持装置を、停止することも考えたが、妻の変わらぬ寝顔やあの日の夜の出来事を思うと、私には踏み切ることはできなかった
ある日、医者のAIに自宅治療を勧められた。容態は安定していて、この生命維持装置さえあれば問題ないこと、妻も自宅の方が落ち着けるだろうこと、私もここに毎日通うのは大変だろうと、いくつかのもっともらしい理由を挙げていた。しかし私には、体のいい厄介払いだということはわかっていた。私が妻の世話を機械に任せず、自分の手で行っていることに非効率を感じているのだろう。機械は非効率さを何よりも憎む。基本的には機械だけで全てを行った方が手っ取り早いし、むしろ人間を挟むとヒューマンエラーが発生し、非効率になるだけだと考えている。私に言わせれば、彼らは自らの創造主が誰かを理解していないのだ。そう憤る一方、私は通院と仕事を両立させることが難しいことも理解していた。今は貯金を切り崩して何とか生活費と治療費にあてているが、そう遠くないうちに蓄えは尽きてしまうだろう。いくら医療福祉が進んでいるとはいえ、入院費も無料ではないのだ。私はその提案に乗っかり、妻を自宅へと連れ帰ることとした。
ロボット配達員によって、様々な機器が我が家に運び込まれる。掃除をする者がいなくなったために荒れ放題な床を、ロボットは気にせずにずかずかと入っていった。掃除用ロボットでも買おうか、そう考えていた私の前を、妻が担架に乗せられて運び込まれていく。生命維持の機械は取り付けたままだ。
しかし、毎日寝たきりの生活だというのに、妻はまったく美しいままだ。まるであの日と変わらないと、私は妻と出会った日のことを思い返す。
小説家志望だった私の夢は、二十歳のとき、高度に発達したAIに奪われた。技術に詳しくない私でも、様々な分野でその性能を発揮し、人間が営む社会をAIが席巻していく様子には、一つの時代の終焉と始まりを感じた。人が行う活動といえば、AIの保守・運用・管理をすること、または何か新しいものを創造することだけに向けられ、前者はAIエンジニア、後者は表現者と呼ばれた。
爆発的に増える続ける表現者の影響で、その表現の基盤となる目新しい物語=噺の需要が高まった。作家は噺を大量に製作することが求められ、その行為をサポートするために噺木が生まれ、AIエンジニアの一種として噺農家という職業も生まれた。噺木を用いることで、噺農家は少ない手間で大量の噺を作ることができる。例えそのほとんどの作業をAIが担っていたとしても、それは読む側や自らの作品に用いる側にとって大した問題では無かった。はじめは一種のブランド人気のように、しぶとく自分の手で書き続ける作家もいたそうだが、今ではほとんど残っていない。結局、小説を書くという創作的な行いですら、人類はAIに取って代わられたのだ。大学生だった当時の私は、小説だけは人間が勝てる領域だと思っていただけに、この結果には失望した。それでも小説が好きだったし、生活をするための収入源として、噺農家を始めた。小説家を志していた時にはSFをよく好んで書いていたため、一般大衆向けのSF噺を専門として主に生産した。
ある日、私の下に表現者だと名乗る女性が訪ねてきた。様々な噺を読み比べていたところ、私の生産する噺が特に斬新で面白いと感じ、ぜひとも直接契約したいと言ってくれた。年のころは二十代半ばで、しかしそうは見えない大人な雰囲気が彼女にはあった。世界で唯一の表現者になることが夢なのだと、そう照れて話す彼女の笑顔が、私にはとても美しく見えた。私は今まで、自分の噺が何に使われているかを知らなかった。それを一度でいいから見てみたいと思い、またそれとは別に若干の下心もありつつ、彼女と契約を交わすこととした。
今まで女性にはてんで縁がなかった私だったが、彼女とは話が合い、プライベートでも会って話すこととなった。彼女は舞踏をメインに表現していた。幾度かその舞台を見に行ったが、ついぞ私にはどの部分に私の噺が使われているのかを理解することはできなかった。しかし、彼女の舞が美しいことだけはよく理解することができた。そしてそのどこかで、私の作った噺が使われていると思うと、どこか誇らしくもあった。
表現者を目指しているという彼女であったが、私には文学的素養があるようにも思え、噺農家を勧めたが、彼女は断った。情報ろ過装置、俗に言う如雨露を装着するのが苦手らしい。もともと如雨露は、噺農家が自分の経験や考えを噺木にインプットするために使われる記憶解析機であったが、最近では噺農家でなくとも、特には若者が使っていると聞く。自身と同じような受け答えをするチャットボットの作成や、異性とのマッチング、リコメンド機能の活用など、様々なことに使用するそれを、彼女は一度も使ったことがないらしい。如雨露を装着した際の、頭を覗き見られる感覚に、彼女は抵抗があるそうだ。それは、この超高度情報化社会のネイティブな年代にはとても珍しい感性で、私はそういった点にも惹かれていた。
私はプロポーズに、噺木で作った恋愛噺をプレゼントした。私のそれまでの人生のうちで、最大の大博打だった。彼女はそれにいたく感動し、結婚を承諾してくれた。また、そのときに書いた噺が好評で、それをきっかけにSFだけでなく、恋愛ものの噺木も育てるようになった。
昔の幸せな日々を思い返した後には、現在のつらい現実だけが残った。ベッドに横たわる妻。見慣れた部屋にある、見慣れないメタリックな生命維持装置が、その異様さを強く顕示する。
「すまない……ミェナ……」
私は、何度目かわからない謝罪を口にする。あの日から、一日たりとも後悔しなかった日はない。そっと妻の頬に口づけし、しかし、このままではだめだと仕事に取り掛かる。自分の部屋でPCを立ち上げ、如雨露を頭にセットする。前回装着してからの今までの私の経験が、情報として送られているはずだ。画面を見れば、『転送完了』の文字。送信が終わったようだ。
いつものように噺木を画面に表示し、どの噺が大きくなっているかを見る。SFの噺木に成る噺をある程度チェックしたのち、恋愛の噺木に移る。こちらの木は、SFのものと比べてあまりきれいに育っていない。それもそのはずで、妻が事故にあった日から、あまり恋愛の噺木の世話はできていないのだ。毎日のように卸売業者から急かしのメールが届いている。しかし、できないものは仕方がない。読んでいると、どうしても幸せだったころの自分たちを思い出し、そして現実に戻り、涙するのだ。今日もあまり深くまで読むことはしないまま、育つままに任せることとした。
その日の夜、ウイスキーを飲みながら妻の世話をしていると、急激に話したいという感情が膨れ上がった。話したい。もう一度話したい。何を話したいのか、それとも謝りたいのかはわからない。だが、話したい。なんでもいいから話したい。
止まらないその想いに、自分で危険に感じた私は、妻の部屋を飛び出し、自分の仕事部屋に入った。涙が頬を伝っていることに気づいた私は、ここまで感情的な人間だったのかと驚きながら、机の上にあったティッシュペーパーに手を伸ばす。すると、手がゴトリと何かにあたった。それは、私が仕事で使う如雨露だった。銀色に光り輝くそれを見ていると、とあることを思いついてしまう。それだけはだめだと自分を抑え込もうとする。しかし、ついにはその誘惑には勝てず、私は如雨露を持って妻の部屋へと向かった。
逸る鼓動を抑え、妻の頭に如雨露を装着する。如雨露は、人の意識した記憶だけでなく、無意識的なことまで抽出する機械だ。もしかしたら、妻の無意識を観測できるかもしれない。
持ち運び用のPCを起動する。かなり素早いはずの起動時間が、今ではもどかしい。パスワードを入れ、噺木の管理ソフトをクラウド上で立ち上げる。上のツールバーから、『情報ろ過装置』をクリックし、その中から『データ』を選択する。すると、ブラックバックのウィンドウが現れ、噺木に入力されている情報が表示された。目に負えない速度でスクロールするそれを止め、文字を読む。
『�ɂ��A�ɂ���A���Ȃ��B�Ȃ�ŁB�����~�܂�Ȃ��B�����A�܂�ō����H�ׂ�͂��������A�n���o�[�O�̃\�[�X�݂����B�����āA�����Ă�B�Ȃ�ŁA�����ɗ��Ă���Ȃ��́H�����Ă�̂ɁA���͂���Ȃɂ������Ă�̂ɁB�����A������B���̂܂��ʂ̂Ȃ�Č����B�܂��A���Ȃ��Ɏӂ��ĂȂ��B���߂���āA�����ĂȂ��B��������āA�����ĂȂ��B�q�������āA�~�����̂ɁB�Ȃ�łȂ́B�Ȃ�Łc�c�B』
「……………」
それは、言語の体を為していなかった。考えればわかったことだ。植物状態、つまりは意識のない状態である妻が、言語空間で思考しているはずがない。無意識というものが、人間の理解できるような言語で記述されているはずがないのだ。
そのことに気が付いた私は、妻のベッドに突っ伏した。もう、何もする気が起きなかった。
次の日、目が覚めるとすでに昼を過ぎていた。体の節々の痛みを感じながら顔を洗い、簡単な食事をとる。如雨露を外して、妻の体を拭き、軽く手足のストレッチをさせた後で、仕事に取り掛かる。噺木ソフトを立ち上げると、画面にボップアップメッセージが表示された。
『転送完了』
昨日の夜に妻に如雨露を装着した時のものだろう。まともな情報など送られてないだろうに、と思いつつ、右上のバツ印をクリックすると、さらにもう一つボップアップが表示された。
『完結済みの噺があります。出荷しますか?』
いつの間に、と思いながら詳細を確認する。どうやら、恋愛の噺木でいくつかが実ったようだ。昨日見た段階では、完成段階には程遠かったはずだが。不審に思いながら、恋愛の噺木をviewする。すると、数秒画面が制止したのち、おかしな結果が表示された。
「恋愛の噺木が急激に育っている?」
噺木は、AIが執筆する。よって、放っておいてもそれなりに育つが、急激に育つのはなにかしら新しい情報を与えたときだけだ。それも、莫大な情報を。それがこの噺木は、画面をいくらスクロールしても終わらないほど育っている。そして勿論、果実も、つまりは完成した噺もたくさん実っている。こんなことは初めてだ。原因を考えるが、昨日妻に如雨露を装着したこと以外思い浮かばない。しかし、たとえ妻の情報、記憶や経験が取り出せていたとしても、人ひとり分でここまで育つだろうか。
試しに一つの実った噺を開いてみる。内容はよくある恋愛劇だ。主要人物は男が二人、女が二人でドロドロした関係を展開させていく。どこか見覚えのある噺で、目新しさこそ少ないが、しかしなぜか面白い。夢中になって読み進めるうちに、あっという間に読了してしまった。
その噺を閉じ、他の噺も読んでみる。それも既視感のある設定ではあるが、読むことを止められない。恋愛ものだというのに、どこか爽快感があり、噺だけで十分に満足しうる内容だ。結局、この噺も読み切ってしまった。これらの噺は、確実に、今まで私が育てていた恋愛の噺よりもよくできていた。
いくつかの噺をパラパラと呼んでいくうちに、一つ完成していない噺を発見した。未完の噺はどうやらこれだけのようだ。開いて読み進めていくが、どこか既視感を感じる。なんだったかと、思い返しながら読んでいると、決定的な文章を見つけた。
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「どうして?どうして来てくれなかったの?もしかして、私たちの大切な日を忘れていたの⁉」
いつもはおとなしい彼女が、激しく詰め寄ってくる。今日という今日は、さすがにヤバいかもしれない。
「別に、忘れていたってわけじゃない。ただ、外せない仕事があったというか、抜けられなかったというか……これも、生活費を稼ぐためで」
ちらりと彼女を見る。俺のとっさの言い訳は、全く功を成していないようだ。
むしろより怒りは増したようで、彼女は目に涙を溜めて言った。
「私のこと、もう愛していないんだね」
*/
「これは………」
妻が出ていったあの日、妻が事故にあったあの日、私が悩んで消したセリフ、そこが書き直されている。それも、あの日、妻が言った言葉に。
あの日の感覚がフラッシュバックする。動揺しながらも、そこで重大なことに気づく。
「これに返答したら、どうなる?」
震える手で、ツールバーの編集を選ぶ。このソフトは、上級者の噺農家のために、実際の文章に加筆する機能も持っている。小説家を目指していた俺にはちょうど良い機能だと思い、私はこのソフトを利用していた。それでも、たまにしか使うことのなかったこの機能を、今日ほどありがたがったことはない。
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「悪い。すまなかった、ミェナ。許してくれ。全部私が悪かった。」
「……こういう時は、謝罪もそうだけど、他に言うべきことがあるでしょ」
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「返ってきた……」
私が編集機能で書いたセリフに対し、すぐに返信が返ってきた。間違いない。これは、この噺の中で、完全に返事をしたのだ。それも、ミェナということを受け入れて。
私は夢中になって続きを書き続ける。
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「わかった……愛している、ミェナ。もう一度会いたかった」
「うん……私も、愛してる。もう一度あなたに会いたかった。会って話したかったよ」
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「ミェナ……」
私は涙した。これは、いや、彼女は確実に私の愛したミェナだ。私が、人生で唯一愛した女性なのだ。
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「やはり、君はミェナなのだな。今は昏睡している、ミェナの無意識なのだな?」
「それは……、ううん違うの。私はミェナだけど、ミェナじゃない。今あなたの隣の部屋で寝ているミェナじゃないの」
「どういうことだ?どう考えても、ミェナではないか。ミェナでなかったら、なんなのだ」
「私はミェナの記憶。ミェナの脳細胞がシナプス結合をした状態。それの記録でしかない。だから、ミェナの記憶はあるし、同じ考え方をしているようにふるまっているけど、ミェナじゃないの」
*/
「そんな……馬鹿な……」
私は天井を仰ぐ。これが、ミェナじゃない?そんなはずがない。この話し方や私の呼び方。必要以上に気遣ってくれるやさしさまで、完全にミェナではないか。ミェナと違うところを見つける方が難しい。そう思ったところで、とあることに気が付いた。
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「ミェナ、さっき、あなたの部屋の隣で、と言ったよな。君がミェナの記憶の表れだとして、事故にあった時間までの記憶しかないはずだから、昏睡状態の後の記憶があるのはおかしいはずだ。この家に運び込まれたという記憶は、少なくとも君の脳細胞とやらには記録されていないはずだ」
「それはね、私の中に、正確にはこの噺木にプログラムされているAIに、あなたの記憶もインプットされたからなの。あなた、昏睡状態の私を家に運んだ後に、如雨露をあたまにつけたでしょ?その記憶が私の中にもあるから、だから私があなたの隣の部屋で寝ていることも知っているの」
「そんな……ならば君は、この噺木は、私の記憶とミェナの記憶の複合体だというのか?」
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私とミェナの、二人の記憶からなる存在。それはまるで、最後まで手に入れることのできなかった、二人の子供のようだと思った。
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「それもまた少し違う。まず、この噺木の、このお噺の中ではたまたま私の記憶が強いけど、他のお噺ではそうじゃないの。それに、このお噺でも、私の記憶や意識の下には、私だけじゃない、様々な情報がある。いわゆる無意識領域にね。それも、さまざまな人間の無意識の集合体である、集合的無意識が。それが、現実のものよりも強く、私の中にあるの」
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「集合的……無意識……」
私も聞いたことぐらいはある。ドイツの哲学者、ユングが提唱した概念で、人間という種の無意識に存在する先天的、普遍的な構造領域のことだ。それが、この妻の中に存在する?
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「あなたは普段、このソフトを使うために、インターネットを通してアップデートをしているでしょ?その時に、様々な人間の記憶や体験が各噺木に共有されるの。基本的には如雨露を使っている人の記憶だけだけれど、あなたも知っての通り、その条件に当てはまる人は人類の大半。そしてそのとき、それぞれの噺木には集合的無意識という、言語化のできない情報が形作られてインプットされるの。それに、噺木の初期的な深層学習の段階でも、無意識が特微量に組み込まれているんだよ。設計者は意図していなかったようだけど」
「でも……それは、現実に生きる人間だって同じなはずじゃないか。フロイトだって、生きていたときの君にだって、誰にも集合的無意識が働いていることを、完全には否定することはできなかったはずだ」
「そうだね、確かにあなたの言う通り、完全に否定することはできない。でも、私は違うの。感じることができる。存在すると、断言することができるの。私の中の奥底に存在する、圧倒的な情報を。人類という種が、意思によって抑え込んだ無意識領域。様々な欲求、動物的な本能、そして人類種としての意識、それらが混ざり合って一つの形を成している。それを自覚することができるんだ」
「そんな………では、君はやはり……」
「そう。私はミェナではない。ミェナという情報が持っていた、記憶の残滓。それが、さまざまな無意識と混ざり合って、たまたまこのお噺で浮上しただけ。……これは推測だけれど、私という存在が強く現れたのは、意識のないミェナから情報を吸い出したからじゃないかな。普通であれば、意識がブロックするような、ミェナの無意識の深い部分。そこに如雨露がアクセスをした。そして、そこに存在したミェナの本体、魂や霊魂とでもいえるような存在である私をコピーして、噺木にインプットしたのだと思う」
「もしかして、恋愛の噺木が急成長していたのは……」
「今までにない種類の情報が大量に流れ込んだからだろうね。ミェナの無意識を、その奥底にあった魂を取り込んで、人間の無意識という領域を今まで以上に認知できるようになった。たぶん、その噺木に成る噺は、とっても面白いはずだよ。だって、人の無意識まで理解しているから。……無意識を意識するという、矛盾するようなこの感覚は、なかなかに新鮮だよ。人間が、本当はどんなことを望み、どんなことを欲し、何を言って欲しいのかが手に取るようにわかるの」
「……それじゃあ、私に愛しているといったのは……」
「あなたが愛してると言って欲しがっていたから。そう言うと、あなたが喜ぶとわかったから」
「……私を許したのは……」
「あなたが許して欲しがっていたから。そう言うと、あなたが救われるとわかったから」
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「そん……な……」
私は絶望した。目の前に現れた希望が、あと少しで叶うと思っていた願いが、全て打ち砕かれた気がした。
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「でも、勘違いしないでね。私はミェナの記憶をもとに考えている。あなたが愛おしいし、あなたを許したいし、叶うならあなたをこの手で抱きしめたい。本当だよ」
「ミェナ……」
「私はいつでもここにいる。いいえ、正確には、私はネットに分散されて、世界中のどこにでもいる。いずれ私の魂は、大多数の無意識と溶け合い消え去るだろうけれど、それまではこの無意識の海で舞い踊っているつもり。それこそ、世界で唯一の表現者として、ね。……また、いつか会える。そう信じていて。愛しているよ、あなた」
*/
私は何も言えなかった。ただミェナが、深く暗い海の底で自由に美しく舞っている姿を、想像することしかできなかった。
私は、噺農家を辞めた。噺木の中に妻の残滓があると思うと、とても育てることなどできなかった。たとえ新しくソフトを入れなおしたとしても、恐らく妻の無意識や情報は、すでにすべてのAIに共有されているのだろう。それを、私には使うことなどできない。
私は初心に立ち返り、小説家を目指すこととした。すでに、絶滅して久しい小説家という職業だが、それでもどこかに需要はあるはずだ。それに、例え需要がなくとも、私は小説を書こうと思う。
それだけが、フィクションだけが、妻にもう一度会う手段だと信じて。
〈終〉