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赤ずきんちゃんに、ご用心!

風邪だな。

俺ではない。

今、俺の目の前で金時よろしく真っ赤な顔で、うんうん唸っている幼馴染、日向真夏のことである。

真夏は学校の保健室のベッドに、解凍が始まったマグロのようにころがっていた。

俺は保健の先生から連絡を受け、時間割どおりに授業を終えてここへ来た。

知らされたのが六時限が始まる寸前だったので、真夏がぶっ倒れてからかれこれ二時間は経っていることになる。昼寝には充分な時間だろう。

「真夏、起きろ」

 熱で腫れぼったくなった瞼がひくつき、薄目が開いた。むごい。まるで臨終間近のヨーダ様である。

俺を認めると真夏は荒い息の下から言った。

「ちんちゃああぁん、おほいよお」

「お前には保護者という者はいないのか」

「ぶえっくしっ」

 華麗に飛沫をよけると、俺は保健の先生へ目線をずらした。

「いやん、晋也ちゃんったら。コワイ目しないでよ」

「百合ねえ、学校でチャン付けで呼ぶなっつったろ」

「まあ、やあねえ。家では素直なよい子なのに。真夏ちゃん、そう思わない?」

 ヨーダ様の頭がぐらぐら動いた。生意気にも肯定しているらしい。

俺は白いカバーのついた毛布を引っぺがした。

「ぎゃあ、はにすんのほっ、ころへくはらおろこっ」

 頼むから日本語で話してくれ。

「晋也ちゃん、見てのとおり、重症でしょ。

岸本医院まで連れて行ってあげて」

「百合ねえが連れて行けばいいだろが」

「今日は空手教室の日なの。残念だわ」

「ちんちゃん、おへがいしまふ」

 鼻水かなんかわからん液体で顔がべしょしょの女が俺のブレザーの袖をつかんだ。


「しっかりつかまってろよ」

「あい」

 俺は真夏を自分の自転車の荷台に乗せると、ペダルに足をのせた。

自転車は少しよろめいて走り出した。二月の風が耳に冷たい。

俺と真夏はここ山岡市の南東部にある県立高校の二年だ。

一級河川がのらりくらりと蛇行し、瀬戸内海へそそぐ手前に広がる門前町の一画に学校はある。幼稚園から高校まで、狭い道を隔てて仲良く軒をつらねており、席変えが唯一のイベントと言えるほど滑走路のように平坦な毎日が続く。

風景も変わらない、人も変化がない。幼稚園から中学校まで顔なじみばかりだ。高校で少し、人事異動があるくらいで町も俺たちも忘れ物のようなゆっくりとした時間の中で生きている。この町の警察くらい暇な署はないだろうと思う。


「真夏、大丈夫か?」

 俺は背中の真夏に声をかけた。

返事はなく、ずびーっと鼻をすする音だけが聞こえてきた。うつらうつらとしているのか。落ちるなよ。百合ねえ、車で送ってくれればよいものを。

俺には姉が三人いる。百合、蘭、桃という。

百合ねえは養護教員、蘭ねえはデパガ、桃ちゃんは大学生だ。きれいなお姉さんが三人もいていいなあと単純に喜ぶヤツは女の本当の恐ろしさを知らない愚か者である。いや、幸せ者と言い換えよう。女に対してまだ「夢」を持てるのだから。

俺にはそんなものはない。ないったらない。

そして、とどめはこいつだ。

日向 真夏。はっきり言って、ドムである。

世間には幼馴染とフォーリンラブる軽薄なノベルが多々跋扈しているが、ちゃんちゃらおかしい。もしそんな事態になろうものなら、へそは茶を沸かし、腐った糠みそは元へ戻ることであろう。

まさに世にも奇妙な物語。ホラーである。

だからといって、俺が女嫌いだとか、衆道であるとか勘違いされても困る。俺はあくまで女の恐ろしさを体験学習して尚、どこかにいるであろう、俺のことだけを愛してくれる心優しき女性を捜し求める旅人なのだ。

夢はないが、欲求は持っているのである。 したがって俺が理想の彼女に求める条件は、容姿、知性、髪の長さ、スカート丈、パンツの柄等、一挙手一投足、微に入り細に及び大変厳しい。WHOも見習うべき基準の厳しさかもしれぬ。

俺は三人の姉とドム、いや真夏という心ない女どもに貴き青春を踏みにじられてきた。 俺だけを愛してくれる女性を早く見つけねばならぬ。男はそのために旅立つ! 前途は長い。時間はない。立て! 立つんだ、ジョー。

と、いらんことを考えているうちに自転車は臓器売買でもやっていそうな怪しげな医院の前に到着した。マッチ一本あれば秒単位で燃え尽きるであろう。聞くところによると渋染め一揆の騒動の折、集会所として利用されていた建物ということだ。俺は風流だが建てつけの悪いガラス戸を苦労して開けた。

「こんにちはー」

 休診でもあるまいに、待合室には誰もおらず、部屋の中に人の気配はない。

完全に解凍マグロと化した真夏を自転車から待合室のソファに移す。俺もマグロの横に腰を下ろした。

コイツは小さい時からよく熱を出した。

こうなるともう桃の缶詰かプリンしか食べなくなる。弁当もほとんど食べてないらしいので、何か滋養のあるものがよいのだが。帰りにコンビニへ寄ってポカリとプリンを買ってやろう。食欲が出てきたら、野菜入りの雑炊でもするか。って、主婦か、俺。

いかん、いかん。昔から、姉たちと真夏には逆らえない。もはや条件反射のようになっている。こういうつまらんことで気を使っているから理想の女性に遭遇できないのだ。

いつもいつも、なしくずしに押し切られてしまうからだめなのだ。心を鬼にして自分の幸せをつかむのよっ、晋也。ん? なぜ、おねえ言葉? こんなところにまで姉たちの菌糸は手をのばしていたのか。つるかめつるかめ。

俺が人生の岐路に立ち、煩悶しているところへ声がした。

「ごめんなさいね」


俺はこの一瞬を生涯忘れないだろう。


その人は何だか疲れているような表情で待合室へ入ってきた。そして気怠そうな口調で「風邪?」

と、聞いた。白衣からは微かにタバコの匂いがした。

いつもなら「それを診るのが仕事だろうが」と減らず口の一つも出るところだった。

だが俺は何も言えず、真夏が答えた。

「ぶえっくしっ」

 その人は目を細めると歌うように言った。

「あらあら、重症ね」

 そして真夏を診察室へと促した。

俺が立ち上がろうとすると、その人は俺を軽く睨んで楽しそうに続けた。

「男の子はダメよ」


「それ、琴子だー。こっち帰ってきてたんだー。なふかしいー」

「モノ食いながらしゃべんなよ」

「晋也、うっさいわねー。シュートメみたい」

「そおよお。晋也ちゃん。細かい男はモテないわよお」

「ふごふご」

「ねっ、真夏ちゃんもそう思うわよね」

「蘭お姉ちゃん、ご飯食べながらしゃべっちゃいけないわ」

「桃ちゃん……。やっぱ桃ちゃんは俺の味方、」

「ご飯粒があたしのおかずに入っちゃった」

「あー、ごめんねー。桃ちゃん」

「ううん、今度からは気をつけてね」

 この家に俺の居場所はない。

俺はそっと箸を置くとキッチンから出た。

「なにー、どしたのー」

「真夏ちゃんの風邪がうつったのかしら」

「けけっ、馬鹿が風邪ひくわけないじゃん」

「蘭お姉ちゃん、そんな言い方しちゃいけないわ。晋也ちゃんはきっとアノ日なの」

「桃ちゃん、それこそゼッテーないと思う」

「ふごふご」

 下品なやつらだ。

単身で行けばよいものを。夫婦で赴任しやがって。親父のあほ。あいつらも連れて行けって。札幌だと? 親父たちについて行けばよかった。ありもしない自由に目がくらんだばっかりに。過去の過ちを悔いてもしかたがないが。

俺は自分の部屋に入るとドアを背中で閉めた。カーテンを引いていない窓から隣の真夏の家が見えた。

真っ暗だった。

真夏の家は母子家庭だ。母ひとり子ひとり。 小母さんは不動産会社を経営している。旦那が死んでから事業を引き継いだのだ。小父さんの記憶は殆んどない。小父さんが死んでからは俺の家が真夏にとって二つ目の家になった。

俺はカーテンを勢いよく閉めた。


「ねねね、晋也ちゃん」

「なんだよ。俺、忙しいんだ」

「コレとコレ、どっちがいいと思う?」

「また新しいの買ったのかよ」

「だあってえ、かわいいじゃない。星と刺繍、どっちがいい?」

「星」

「きゃん。今日は意見が合うわあ」

「晋也、晋也。あたしのブラどこ?」

「乾燥機の中」

「晋也ちゃん、靴下が片っぽないんだけど」

「桃ちゃん、さっきソファの上に置いただろ」

「そうだった」

 朝は戦争だ。役に立たない姉貴どもを仕事場、大学へと追い出すと、俺は和室の襖を開けた。

「真夏、鍋におかゆ作ってあるからな。ちゃんと食べて、薬飲むんだぞ」

「ありがと、しんちゃん」

 幼子をひとり置いて仕事に出かけなければならない未婚の母の心境だ。真夏がごそごそ動いて布団から手を出すと、俺に向って小さく振った。

「早く帰ってきてね」

 俺が肯くと真夏はうれしそうにもう一回手を振った。


学校から帰ってきたら小母さんが俺の家から出てきたところだった。小母さんは丁寧にお礼を言うと、仕事があるからと帰って行った。俺は急いで家に入った。

真夏は驚くほど回復していて、蘭ねえに借りたネグリジェ姿でキッチンにいた。

「おかえり、しんちゃん。岸本医院さんから電話あったよ。保険証持ってきて欲しいって」

「う、ん。小母さんとさっき会った」

「ココア、飲む? 寒かったでしょ」

「ああ、いや、いい。ちょっと行ってくる」

「ごめんね」

 俺は逃げるように家を出た。蘭ねえのネグリジェを着た真夏と二人きりというのに耐えられなかった。息苦しくなってしまったのだ。

トップレスで家の中を平気で歩き回る姉貴たちを見慣れているから、ネグリジェごときに屈する訳がないのに。

俺はカバンだけをおろすと、再び自転車に飛び乗った。


今日も受付には誰もいなかった。

声を張り上げていると、白髪の先生が現れた。白衣から微かにタバコの匂いがしていた。

事務的に清算を終えても、俺はなんとなくぐずぐずしていた。

先生も奥に引っ込むではなく、男二人、妙な間で向かい合っていた。若い俺が時間を持て余して帰りかけると先生が口を開いた。

「君は中村、蘭ちゃんの弟さんかね?」

「はい、そうですが」

「男の子みたいな子じゃったが」

 みたいじゃなくて、今じゃ酒癖の悪い中年親父ですぜ、あれは。

「うちの琴子と仲良かったがの」

 そういう先生はとても寂しそうに見えた。

俺は礼を言って、医院をあとにした。

もう、自転車に乗る気分にはなれず、押して歩いた。何か理由があって琴子さんは故郷へ帰ってきたのだ。それを先生は手放しでは喜べないのだ。

男の子はダメよ。

俺は昨日の琴子さんの言葉を思い出していた。診察室で交わされたガールズトークはどんなだったのだろう。

真夏のおしゃべりめ。

男の子はダメよ。俺を軽く睨んだ。

俺は真夏がうらやましい。


「晋也クン」

 自転車を押して青木さんちの角を曲がったときだった。

昨日とは別人のように晴れやかな表情の琴子さんが目の前に立っていた。

 医院の帰りだというと、お礼をしなくちゃねと言った。逆でしょうと俺は言った。琴子さんは、あんなボロ医院に来てくれたお礼なのだと言った。並んで歩きながら琴子さんは子供のようにはしゃいでいた。俺にとっては何の変哲もない景色を見ては懐かしい、懐かしいを連発した。だがそれは失われた記憶を思い起こすことで自分の存在を確認する、俺にはとても痛々しい作業のように思えた。

商店街の中にある屋台で鯛焼きを買い、俺と琴子さんは堤防の上の道に出た。

夕暮れの風は冷たかったが、俺たちは河川敷へと続く階段に腰を下ろして鯛焼きにかぶりついた。風が吹くたびに琴子さんからはタバコの匂いがした。

「私、タバコは好きじゃない」

 俺は食いかけの鯛焼きを見つめた。鯛焼きを見ることで何かヒントがもらえるとでも言うかのように。

俺は今まで使ったことがないくらい脳みそを使って答えをひねり出した。

「お香みたいなモンですね」

 そして再び鯛焼きにかぶりついた。

「晋也クンは大人なのね」

 俺は鯛焼きを噛まずに飲み込んだ。

琴子さんの悲しみをガブガブ食ってやりたい。腹いっぱい食ってやりたい。

あんな廃屋のような寂しい家の片隅で吸いもしないタバコをくゆらせて。先生はそれを息を潜めるようにして見ている。

俺ならそんなことはさせない。悲しみごと琴子さんを頭からむしゃむしゃ食ってやる。

琴子さんは俺の腹の中で安心して目を閉じるのだ。まるで暖かく優しい腕の中にいるかのように。

俺は二匹目の鯛焼きにかぶりついた。

「かわいいわね、真夏ちゃん」

 鯛焼きが口から逆流しそうになった。

 いやあ、どう見ても、違うでしょ。

「女の子はね、かわいいのよ。かわいくなるの。ホントよ」

 俺は鯛焼きを持ったまま、琴子さんを見た。

「女の子はね、待ってるの」

 琴子さんの手の中の鯛焼きはとても冷たそうに見えた。

「普段はネコでね、いざというときオオカミになってくれる男の子を待ってるの」

それは、あなたでしょ。

その言葉を俺は鯛焼きと一緒に飲み込んだ。

琴子さんの待っているオオカミはひどく臆病なのかもしれない。それともネコであり続けることが正しいことだと誤解しているのか。

そう、信じているのか。間違いだと思っていた答えが実は正解だと思いもしないで。

待っても来ないオオカミよりも新しいオオカミを探すべきだ。世の中にはたくさんオオカミがいる。よりどりみどりじゃないか。

俺だって琴子さんのためなら、オオカミになれる。頭からまる飲みしてやる。誰にも渡さない。そんな俺の考えを見通したかのように、琴子さんはつぶやいた。

「オオカミは一匹しかいないのよ」

 違う。オオカミはたくさんいる。男の数だけいるのだ。普段はネコをかぶっている心優しきオオカミの群れが。そして道に迷う女の子を待ち伏せするのだ。ネコだと思って頭を撫でようと無防備に差し出す細い手首を捕まえるために。

俺は鯛焼きを食い終えると、立ち上がった。

「メシ作らないといけないんで」

 琴子さんは黙って俺を見上げた。

「メシ、食いにきませんか。鍋しますから」

 琴子さんは眩しそうに目を細めた。

「ウチは誰もタバコを吸いません」

 俺はそう言うと、琴子さんの手からほんの少し口をつけただけの鯛焼きを奪い取った。

「この鯛焼きのお礼です」

 そのまま後も見ずに堤防を自転車ですっ飛ばした。


「ねえねえ、今日、何?」

「鍋だ」

「きゃいー、豪勢ねえ」

「ちょっとお、早く言ってよねー。日本酒、切らしてんのにさー」

「料理用の酒ならあるぞ。清酒『金の珠』」

「バ、バカっ。あんた、やっぱりバカだわ。二級酒をナメんじゃないわよお」

 知るか。

「あ、鯛焼きだあ。食べていい?」

「食うな。さわってもいけない」

「けち」

 俺は広告のウラにマジックで「食うな。食べると必ず老ける。晋也」と大書すると鯛焼きをくるんだラップの上から貼り付けた。

琴子さんは、鍋が始まってから少ししてやってきた。日本酒とエプロンを持って。

俺はエプロンに泣いた。これぞ女の鑑。


 女の鑑は酒も強かった。酒豪が四人! 四人だぜ? 俺は琴子さんの持ってきたまるでメイドさんみたいな白いエプロンをつけさせられていた。

「きゃははは、晋也ちゃん、チョー可愛い」

「酒ーっ」

「晋也ちゃん、写メ、写メ」

「激かわゆすですー、晋也クン」

 俺は蘭ねえと互角に渡り合っている琴子さんを見つめていた。本名は漢と乱という名前だったに違いない。住民課の記載ミスだろう。まあ、仕方ない。人には誰でも間違いはある。

だが、ひっそりとした暗い部屋でタバコの匂いに抱きしめられるのもいいけれど、今日ぐらいはこんなのもいいじゃないか。

底抜けに明るい姉貴たちに感謝した。

騒げ騒げ、琴子さん。

飲め飲め、琴子さん。

明日になったら、俺がとびっきりうまい味噌汁を作ってやるから。

俺は鍋パーティーをやっている和室の隅に毛布を四枚用意すると、襖をそっと閉めた。

真夏に雑炊を作ってやろうと思ったのだ。

鍋パーティーの一味に和室を占拠されたため、真夏は桃ちゃんの部屋で寝ていた。明日は学校へ行けるだろうか。俺は粛々とした気分だった。

だが、キッチンに入った俺は絶叫した。

「た、鯛焼きが」

 ない。

背後から欠伸といっしょに声がした。

「何、大声出してんの」

「真夏……。き、貴様あああ」

「げふ」

 俺は出鼻をくじかれ、がっくりとキッチンの床に膝をついて項垂れた。

士道不覚悟。未熟者。詰めが甘い。

俺は自分の迂闊さを呪った。まだ、女はいたのだ。それも後ろを取られるなんて。

オオカミになんてなれないことはわかっていた。

オオカミは一匹しかいないのだ。

琴子さんの言うとおり。

琴子さんにとってオオカミはただ一匹しかおらず、俺はそうではない。

オオカミにはなれないから、ネコとしてのささやかな楽しみを取って置いたのだ。それなのに。返す返すも迂闊だった。

真夏は明るく言った。

「明日は学校、行くからねー」

 俺はのろのろと顔をあげて

「うん」と、言った。それしか言いようがないじゃないか。

 真夏は俺のそばにくると、同じように膝をついた。何だ? 半分、残しておいたとか?

 俺が吸い寄せられるように顔を向けると、真夏は小鳥が木の実をついばむようなキスをした。

そして顔を離すとにっこり笑って言った。

「ごちそうさま」

 俺はきっとパレンケの仮面のような顔をしていたに違いない。そして、アレクサンダー大王の遠征は何年だったかとか、サンダルを揃えて火口に身投げしたのは誰だったかとか、おおよそ今の状況とは全然関係ないことばかりを思い浮かべた。

俺の動揺をよそに真夏は余裕たっぷりに立ち上がった。そして俺の唇を奪ったうえにずうずうしくも付け加えた。

「明日はクロワッサンがいいな。チコリとクレソンのサラダに、スクランブルは半熟よ」

「……、出来るか、バカ」

 真夏はうひょひょひょと、下品に笑うとキッチンから出て行った。新橋の酔っ払いよりも品がない。

ああ、あぶねえ。家の中で襲われるとは。

ついさっきまで、オオカミがどうのこうのと能書きをたれていた自分が恥ずかしくなった。真夏の潔さに脱帽だ。あの童話のオオカミだって赤ずきんに襲われたら、きっと正気じゃいられないだろう。恐るべし。

しかし、初めてのキスが鯛焼き味とはどうだろう。あまりにもデリカシーがなさ過ぎないか。それも酒ビンが足の踏み場もなくころがった台所とは、いかがなものであろう。

これはひとつ説教をせねばなるまい。

俺は真夏の後を追ってキッチンを出た。

和室では四人の赤ずきんちゃんが大変な騒ぎである。そうだ。騒げ、騒げ。

百合ねえは二つのブラの間で悩み、

蘭ねえはブラの行方を捜し、

桃ちゃんは靴下を片方なくし、

琴子さんは香水を買いに行く。

明日からを平凡な日々にするために。

そして俺は。

クロワッサンを焼き、チコリとクレソンのサラダに、半熟のスクランブルを作るのだろう。

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