006
「え?明日帰るの?」
就寝前、2階への寝室に向かう途中に夕香が聞いてきた。
明日の予定は特にないが帰る理由はひとつしかない。
「明日は…図書室に当番で行かなきゃいけないから、だから」
「別に学校ならここからでも行けるじゃない」
「明日から毎日午前中は当番にいないとダメなの」
「ええー?そうなの?大変ねえ」
「だから向こうからの方が通いやすいし、春休みはずっとそうだから……ごめんなさい」
「いやいや、いいのよ?明日は直接送って行けるけどどう?」
「……いいや、普通に電車で行くから。あ、それと朝ごはんは行く途中で買うから、朝少し早いから」
夕香の運転はペーパードライバー歴30年とあって実に拙く、遥香の身がもたない。
夕香は不満そうなのか心配なのか「じゃあ気をつけなさいね」と言って布団に入った。
「そんなに夕香の家が嫌?」
寝室に入るやいきなり、楸が話しかけてきた。
「べ、別に嫌じゃないけど…」
「じゃあ帰るのは何故?」
「……霊徒のゲームに巻き込みたくないから」
「…………そう」
楸は特に動揺は見せなかった。
自分の存在が危険であることはやはり分かってはいるだろう。
「まあ、図書当番があるのは本当だよ?明日1日だけだけど…」
危険な存在、「巻き込みたくない」の一言になんとも残酷な意味が含まれているのは相当傷ついただろう。
なんとか取り繕うとする。
「…帰りましょう」
突然、楸が切り出す。
「え…?」
「いいから、早くこっちに…!」
何がそうさせるのか、楸はかなり切迫した様子である。
遥香がその訳を問う間もなく、楸はカーテンを開けると黒い鏡と化した窓ガラスに向けて手をかざす。
「『リシェル』!」
刹那、ばっと窓が光り、
「わたしの手を握って…!」
遥香は楸に促されるまま窓の向こう側に入って行った。
■■■
その窓の向こう側は広い屋敷のようになっており、正面の開け放たれた扉の先の長い廊下の奥には大きな暖炉とテーブル、その上にはティーセットが丁寧に並べられていた。
楸、それに続いて遥香がその屋敷のエントランスに降り立つ。
「ここ……がリシェル?」
初めて見る神秘的な景色に思わず問いかける。
「そうよ、ここがわたしの第5フィールド『リシェル』」
「わたしの…っていうのは?」
「霊徒は世界の失敗作って言ったわよね?」
「う、うん…」
「そんな世界の外れものは隔離された領域で生きなければならない、その領域が『フィールド』よ」
「じゃあ、霊徒1人1人がフィールドを持っているの?」
「質問は後にして」
「え…?うん………」
屋敷の中―――リシェルはぴりぴりした雰囲気に包まれている。
無知な遥香にも戦いの空気を察することができるほどだ。
そんな殺気の満ちた屋敷に圧倒されている間もなく、楸が歩き出す。
何が起こるのかが全くわからない状況で、何が起きてもおかしくない不穏な空気で
「あ、ちょっと、ちょっと待ってよ…!」
すると突然、何かが崩れるような轟音が響き渡る。
「下がって、遥香!」
「………!?」
一筋の閃光と共に昨日、見たことがある緑の少女が現れた。
■■■
「やっと来たか、楸」
まばゆい光と共に現れたのは、先日部屋の鏡から楸を追って来た霊徒―――
「他人のフィールドに勝手に上がり込んでおいて、図々しさとしつこさは折り紙つきね姫委綏」
「こいつは手厳しいな………だが、貴様とは早いところ雌雄を決しておきたいのだが」
「なら、答えはノーよ」
「そうか………それは残念だな…まさか貴様がそこまで腰抜けだったとはな」
ほんの少しのだけ、楸の心が見えたような気がした―――まるで水が波打つかのように。
「今…何て言ったの?」
「聞こえなかったならばもう一度だけ教えてやろう、『腰抜け』と言ったんだ」
屋敷中に緊張が張りつめる―――まるで楸の心と呼応するかのように。
途端、姫委綏の目が虚ろになったかと思うと戦闘本能のみを宿した目に変わった。
「目の色を変えて」という諺はここから来ているんじゃないか。
「フン、やっと代わりやがった……」
「…やる気なのね」
「あれ?昨日会ったときと、さっきまでと……人が違う?」
「………姫委綏は3重人格」
「さ、3重……!?」
「そう、なかなか面倒でよ!だから楸、てめえのフィールド『リシェル』が必要なんだよ」
「………相変わらず賢くないわね」
「……何だと!?」
過激な性格に成り代わった姫委綏は頭に血がのぼり安過ぎる。
おかげで、楸も普段の調子を取り戻した。
「フィールドを渡すことはすなわち、陣獲遊戯での敗北を意味することくらいわかってると思うけど」
「だからてめえと勝負するのさ、ゲームをなァ………」
「陣獲遊戯………?」
「そう、互いにフィールドを懸ける決闘」
「負けたら……?」
「霊徒は持っているフィールドがなければ存在できない、つまりゲームに敗北すれば霊徒は消滅する」
「そんな………!」
「だが…このゲームを制すれば理想鏡が手に入る」
「イディアスタ?」
「どんな願いでも叶えられる究極の鏡と聞いているわ」
願いでも叶えるために戦う、それが遥香にはわからないままだった「ゲーム」の意味。
命を懸けるものの価値としては霊徒にとって何物にも変えられないだろう。
それは遥香にもわかるし、何より納得がいく理由だった。
「だからここで決着してやるんだよ、楸!」
姫委綏が鉈状の武器を取り出し、即座に構える。
空気は一層張りつめ、息もできないほど乾ききってきた。
楸も覚悟を決めかけたそのとき―――
突如、姫委綏の脳内に電流の如く意志が駆け巡った。
「!?………かはッ、!…あ、アッぁぁぁぁ………!」
姫委綏は叫びをあげて座り込み、楸の呼びかけにも応えなかった。