002 リシェルの少女は緑茶好き
「え?は?………何で…?」
状況を理解する前にもう一呼吸必要だな…もっとも、遥香にはそんな余裕はないような気がしたのだが。
疑問の嵐が脳内に吹き荒れ、意思とは反して言葉となる。この際時間など関係ない。
「どういうことなのか…説明して」
「…うるさいわね、全く」
少女に悪怯れる様子はない。朝に駅で見た人や図書室であった娘と似た空気を纏っているように思えた。
この空気こそがなんでもない平凡で平穏な日常を散らばった鏡のように粉々にしたと思うと、落ち着こうにも落ち着けない。
目の前のその少女も今日出会った人たちと同じように異色の存在であることは確かだ。
まあ反省の色は全く見えないが。
「別に、わたしは鏡を割っただけじゃない」
「だから…その理由を説明して」
やれやれ、と言わんばかりに遥香の椅子に腰掛け、少し考えるとすぐにこう答えた。
「ああ、この部屋あなたのだったのね、それは失礼した」
「失礼しました…じゃないって、何なの一体?」
「……鏡を割った理由ね…ゲームをしていたのよ」
「は?…ゲーム?」
少女はため息をついた。
何かを深く考え込んでいるのか、しばらくの間うつむくと、静かに答えを返した。
「わたしの名前は楸、第5フィールド『リシェル』の主、第2世代の霊徒」
「霊徒?フィールド?」
初めて聞く言葉に戸惑って続けて質問をしようとしたとき、鏡の破片が光始めた。
「…やっぱり、ただ割るだけじゃ意味ないのね」
鏡の破片が渦を巻き始め、部屋の照明が乱反射する。
ミラーボールさながらに部屋中がきらきらと輝きを放つ。すると次の瞬間、
「今度こそ逃がさないよ、楸!」
茶褐色がかった髪に白いブラウス、緑色のスカート。
遥香にとって、今日見た現実離れした少女はこれで四人目だが、その現れ方には声も出なかった。
現実とは完全に逸脱した存在であることを理解するには、もはや時間など必要なかった。
互いを知っているのか、楸と名乗る少女と鏡から現れた少女が向かい合う。
「さっきも言ったでしょ?そのゲーム、わたしは受けないわ」
「お前が受けようが受けまいが関係ないんでね!決着を着けるぜ!」
鏡の少女がこちらに目をやる。
「…人間か。なるほど、神聖なゲームに於いて人間を巻き込むことはあってはならないって言いたいわけだな?つまりお前はゲームを仕掛けてくるボクから逃げる口実としてここを選んだってことか!」
「わたしは受けないわ」
鏡の少女はふと悔しげな表情を見せたかと思うと、踵を返し、颯爽と窓から飛び立っていった。
当然遥香には理解が追いつかず、それらのやり取りをただ呆然と見ていただけ。無理もない話だが。
「全く…まるで嵐のような娘ね…まあ、鏡から出たときは嵐そのものだったけど」
鏡を割っていた問題の少女―――楸は何故か、紅茶を注文してきた。何故だ。
正直、人の家に上がるなりいきなり鏡を割られ、さらにゲームと呼ばれるなにやら危険なことまでされた遥香は人が好すぎる。
紅茶がなかった変わりに緑茶を淹れてあげた。
「どういうことなのかちゃんと説明してくれない?」
最初、紅色ではなく緑色をした茶を見たときはかなり不思議そうな顔をしていたが、意外と口に合ったのか、気に入った様である。茶菓子にたい焼きも勧めた。
「ここに来た理由…ね…」
一番聞きたいのはそれだ。
先程の鏡の少女の言うにはゲームの挑戦を回避するためにここを選んだと言うが、目的が知れても理由はまだ明確ではない。
「何故わたしがあえて立河遥香の部屋に来たのか?っていうことよね」
「そう」
どうしてわたしの名前を知っているのだろう…。
遥香の中で沸き立つ謎は絶えることを知らない。
「別に、特に理由はない。わたしがとっさにこちらの世界にフィールドを繋げたとき、たまたまここに行き着いただけよ」
「『ならいい迷惑だ』って言いたいんだけどどのみち心は読めるんでしょ?」
「それは悪かったわね」
なら、遥香は自分が疑問に思う通りを思い浮かべるだけでいい。
続けて、遥香は今日一日の間に見た他の二人の少女―霊徒って一体何者なの?と思い浮かべる。
でも答えは返ってこない。
「何よ…急に黙りこんで…」
2人同時に同じ言葉が重なった。
「なんでってわたしの心を読み取れるんなら別に何も喋らなくてもいいじゃない」
「そんなのずっとできるわけないわよ、疲れるもの」
「はあ!?さっき言ってた『霊徒』ってのは人の心を読み取れるんじゃないの!?現にさっきまでやってたじゃない!」
「疲れるのよ、自分の能力でもない限りはずっとできるわけではないの」
ふと柚柑と名乗った図書室の少女のことを遥香は思い出した。
「じゃあ、柚柑…って人は?」
「彼女だって同じよ…能力として使えるのは別にいるけど…というか遥香、柚柑に会ったのね」
楸が意外そうな顔をした。
「そんなに意外なの?」
「柚柑が人間に会って話すなんて滅多にない。それに人見知りで『永遠に本を読んでいたい』って言うほどだし。正直、柚柑がこの世界に来ていたとは思っても見なかったから」
遥香が見た限り楸は落ち着き払った性格である。
「そんな楸が少なからず予想にもしなかったと言う以上は意外なんだ」と遥香もようやく冷静に分析を始める。
だが、人間ではないことはすでに理解しているが、まだ存在そのものについては理解してない。
「霊徒って本当に何者?…超能力とか使える人?未来のとか…?何て言うかその、人間とはどう違うの?」
楸は相変わらず緑茶を飲む。
猫舌なのか最初は少しずつだったが、ぬるめになるとたい焼きをお茶請けに上品に飲む。
「霊徒は…わたしの他に7体、合計8体のフィールドを持つ者のこと。仮にここをaという世界だとしたら、あなたたち人間はaの世界に共通して生きている。でも、霊徒は言うなれば世界の失敗作。aとは別の独立した世界、領域―――フィールドで生きている…そうわたしは考えているわ。要するに存在する世界が違う」
世界の失敗作―――自らをそう定義する楸は湯飲みをくるくると回し、ちらりと窓を見た。
「じゃあ、ゲームっていうのは?」
楸は窓を見たまま、静かに答える。
「戦い、決闘、聖戦…例え様はいくらでもあるわ。そんなものよ」
窓に向ける楸の目は真剣な眼をしていた。
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その晩、遥香はただただひたすらに楸に質問した。
「どうしてわたしの部屋に入れたの?」
「わたしのフィールドがこの世界に重なって初めて、わたしはこの世界に来ることができる。その入口が偶然あなたの部屋の鏡だったってだけ」
「じゃあさっきの鏡の人は霊徒?」
「そういうことになるわね」
「どうして戦っているの?」
「……」
「何か目的があるから?」
「……」
楸の答えは多くは語らない。
自らの存在への葛藤なのか、はたまた過去での他の霊徒との因縁なのか。
(他人の心を読めるのに、自分のことは明かさない。勝手に人の領域に入ってきて、まるで自分の領域であるかのように振る舞う。なんか不公平だよね、そういうとこ)
遥香はまだ警戒は解いていないのか、硬い表情を崩しきっていない楸と彼女の真剣な眼を見て思う。
「ただ…」
心を読んでいたのか、最後に楸はこう言った。
「わたしはその矛盾こそ真理だと思うの…」
赤みがかった茶髪を夜風に靡かせた彼女はその夜、大量のカフェインで眠れなかったようだ。