001 部屋の鏡を割られた女子高生
「起きなさい、遥香」
遠くで誰かがわたしのことを呼ぶ声が聞こえる。
まだ、朝の4時半時、始発が出るのが6時半、駅までは徒歩20分。
いつもより1時間は早い。どう考えても早すぎる。
「起きなさい、遥香」
まただ。
「じゃあ、もう先に行くからね」
「はっ!?」
…ただの夢だった。亡くなった遥香の姉が登校する普段の朝の風景を忠実かつ鮮明に再現した何気ない夢。
それなのにとても懐かしく、いとおしくも感じる不思議な光景だ。
何気ないからこそ、そう思うのかもしれない。
「ああ!もう、こんな時間!」
1つ呼吸を置く。ゆっくりと思慮を巡らせ、遥香は最善の方法を考える。
急いで出ても、心に余裕がなければ、(忘れ物…?忘れ物、そうそう、定期券)というように、落ち着かなければ、傷を最小限に留めるどころか2次災害を呼ぶ。
事実、遥香の姉――絃理はそれで事故に遭い、今では植物状態だ。
――乱れた髪を風に任せ、駅へ走り出す。これがわたしの日常の風景――
姉は、1年ほど前に事故に遭い、意識が戻っていない。
もともと、父も母もいないこともあり、かなり不安になった。
叔母が月に2回ほど、世話をしに家に来る。
娘のいない叔母にとってわたしたち姉妹はまさに生き甲斐でもあっただろうか。
なにより、姉を亡くして一番ショックを受けたのは叔母だった。
自宅から電車で7駅の都立2流高校に通う女子高生―――立河遥香は そんな理由もあってほどほどの生活をしている。
成績は優秀でも不良でもなく、運動もどちらかと言えば苦手。
芸術的分野に才能があるわけでもなく、人付き合いも拙く交友は狭い。
内向的で意見は自分の中で噛み殺す、といった性格であり平穏な日常のこの現状に不満もない。
将来の進むべき道、求める道も明確ではない。
幸いにも、時間には間に合った。
これもいつも通り、日常の無限ループ。
よく、「何でもないようなことが幸せだった」なんて言われるが、姉を失って事実上の独り暮らし。
姉との日々は幸せだったが変わりのない現実に飽き飽きしていたし、それは今でも変わらない。
(なんか、お姉ちゃんに申し訳ないな…こんなこと考えるなんて)
そう遥香が思ったときにいつもは見ない光景があった。
(あれ…?)
もう3月だとは言っても、寒さは全く衰えずに、乾いた風がひたすらに身体を突き刺してくる。
そんな日にとても着ていけないような白い薄手の服を纏い、濃紺のロングスカート姿。
つまり、季節に合った出で立ちではない。
(寒くないのかな…)
あくび交じりにふと思う遥香は朝食のサンドイッチを囓りながら寒さに晒されている少女を眺めた。
しかし、日常を覆したのはその服装だけではない。銀髪での頭には赤い髪飾りを着け、黙って駅のベンチに腰かけるその姿、どう考えても今日が初めてだ。
少女は何か考え事でもしているようにぼーっとベンチに座ってどこか遠くを眺める。
遥香がそんなことを考える間、急行列車がホームを通過した。刺すような強風が構内に襲いかかる。
(え…?)
遥香は目を疑った。
その少女の残雪のごとく白い艶やかな長い髪や、ひらひらとしたブラウス、ロングスカート。それらが一切、靡かなかったのだ。
女性はおもむろに立ちあがり、遥香に向かって歩いてくる。すると、風は全く吹いていないのに、今度はその少女の周りだけ風が吹いた。
つかつかと静かに歩いてくるその女性の姿が今度は正面からはっきりと見えた。
透き通るように白い肌、金色の瞳。
ただ一点を見つめたままその人は通り抜けていった。
――始発列車の2本目がわたしの乗る電車、だけど――
(これ、最終なんじゃない?)
そう思うほどに、混乱していた。
自宅から電車で7駅の二流都立高校に通う立河遥香はその日、2度目の3学期を終えた。
■■■
放課後は図書室に通う、というよりは図書室の学校司書に勝手に貸出当番にされただけだが、これも遥香の一欠片の日常である。
だが、すでに朝、日常を奪われた遥香にとって、日々の変わり様はあまり感じられなかった。
日はとっくに落ち、窓からは月明かりが差し込んでいた。
時計の短針は7、長針は9を指している。 帰ろう、としたそのとき何かの気配を感じた。
振り替えると、
(え…?)
薄暗くなった書架の列。
その奥に佇む少女が見えた。いつからそこにいたのか、今日は修了式だったこともあり、図書室の利用者はまばら。
しかも、全員帰ったはずだった。
低めの背、学生服の上にケープコートを羽織り、なにやら分厚い本に黙々と向かっている。
第一、いつも図書室を利用する人は決まっているし名前も顔も把握している。
毎日図書室に通うあまり、知らず知らずに備わってしまったたいそうどうでもいい情報。
それがまさか日常と非日常との判断材料になるとは。
「あの、すみません」
おそるおそる声をかける遥香。
「そろそろ閉館だから、借りる本あったら持ってきてください」
するとその少女が立ちあがり、遥香のいるカウンターに向かった。
遥香もパソコンの読み取り画面を操作して貸出手続きに取りかかる。
「学籍番号と名前教えてもらってもいい?」
「……」
「…借りる?…これを借りたいの?」
一瞬、何を言っているのかわからなかったが、すぐに理解した。(それはこっちの台詞なんだけど)と言うのを抑え、同じ言葉を繰り返した。
少女がさらに続ける。
「これはわたしの本よ。わたしはそこに座っていただけ」
「自分の本を図書室で読んでたってこと?」
何故だろう、会話が噛み合わない。
大体、この学校の生徒なのか、それすらわからない。
先日卒業した3年の先輩かもしれない。
「そういうこと。わたしは柚柑、制服は偶然の一致ね。これがお前…立河遥香の知りたいこと…でしょ?」
目の前の少女―――柚柑と名乗る娘が遥香の心を的確に読み取ってくるではないか。
遥香に戦慄が走る。どこの誰なのか、なぜ制服が同じなのか。
心をここまで簡単に読まれて不快にならない人間はいない。
それは遥香にとっても同じだ。
そう言い残すと、少女の姿はいつの間にか見えなくなっていた。
■■■
帰宅したときには、もう9時を回っていた。
家に入ると、誰もいないはずなのに、2階の部屋は明かりがついていた。
物音まで聞こえる。
(叔母さん?)
だがすぐに思い直す。「叔母さんが明日来る変わりに、わたしが叔母さんの家に行くんだった」と。
それにしても、叔母さんが突然来るなんてことは今までに一度もなかった。
じゃあ、一体他に誰がいるのだろう。空き巣か?
(よし)
万が一の場合に備え、玄関にあった箒を持って2階の自室に向かうが階段がいつもより長く感じる。
薄暗い階段を一歩一歩慎重に踏みしめ、やっとの思いで部屋の前に到着。
2階に近づくにつれて物音はだんだん大きくなっている。
一応、「叔母さん?」と声をかけつつ、箒を構え、遥香は勢いよくドアを開けた。
「誰がオバさんよ」
「え…?」
部屋には見たこともない少女が何故か部屋の鏡を割っていた。