Op.60 ナリタイ
(現実から独立するだと……?)
強く眉根を寄せたガルベルトは、諭すように言葉を返す。
「……拒否感を示したところで、現実から遠ざかることなど出来はしない。人の心中から狂気や悪意が一掃されでもしない限り、国際社会において確固たる信用を得ることは不可能なのだ。無為に自らの善性を主張したところで、誰が信じる? 誰も信じはしない」
ガルベルトが発言する中、ミコトの足元にポタリと赤いものが落ちた。
それに気付いたシタンがミコトを見やると、銃に撃たれた箇所を中心にして、着衣に血が滲んでいるのが確認できた。
(ミコト……!)
傷口が開いたことを悟ったシタンは、ミコトを医務室に連れて行こうと手を伸ばした。
しかし、ミコトの凜然とした声が、それを阻んだ。
「信じられるようになれば良いんです。信じてもらえるようになれば良いんです」
「それができないと言っている」
「どうしてですか? どうして、できないと言い切れるんですか?」
「我々が人間だからだ!」
「…………」
声を荒げたガルベルトの迫力に気圧され、ミコトは押し黙った。
「……もう十分だ。終わりにしよう」
ガルベルトは議長に向き直る。
「議長、決議を――」
「終わりません……」
ガルベルトの言葉を遮るように、ミコトの声が響いた。
「人には、終着点なんてありません。どんな困難も、どんな哀しみも、向き合って、乗り越えて、前に進むことができるんです。
僕の父は、科学者です。ほんの少しでも世の中が良くなるようにと、毎日、夜遅くまで研究に打ち込んでいました。僕の……僕の亡くなった母は、医者でした。一人でも多くの人を救うために、世界中を飛び回っていました。
身の内に宿った新たな命のために、必死で生き抜こうとした人がいました。全てを失いながらも、心を黒く蝕む憎しみに打ち克った人がいました。
人は、そんな風になれるんです……そんな風に、生きていけるんです」
昂ぶる気持ちに身を委ね、ミコトは訴え続けた。開いた傷口からの出血は止まらず、羽織る衣服を真紅に染めていく。
「人の祈りから背を向けて、夢や理想から目を逸らして、現実という檻の中でうずくまっていたらダメなんだ……僕たちは、僕たちが求める未来を創り出していかなくちゃならない……」
ミコトは、自らの胸を掴む。
「そのための力は、ここにある。踏み出す力は、ここにある。この胸の内に、誰もが持っているんだ!」
叫んだミコトに圧倒され、会議場が静寂に包まれた。
しばしの間を挿んで、議長が自らの職務を思い出したかのように木槌を叩く。
「決議を取ります。会議の冒頭でも触れましたが、本議案の成立は、全会一致を条件とさせていただきます。それでは、世界安全保障機構の設立に賛成の方、御起立願います」
議長に促され、小国の首脳数人が立ち上がった。
(……人を縛る鎖は、これほどまでに頑強なものなのか……っ)
世界安全保障機構の設立を支持した首脳のあまりの少なさを目の当たりにして、シタンが悔しさに唇を噛んだ。
その時。
「雨ニモマケズ――」
歌うようなミコトの声が、会議場に響いた。
「風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ――」
それは、ミコトの母親であるイノリが、好んで口ずさんでいた宮沢賢治の詩だった。
情感を込めて、ミコトはその詩を、音に変えていく。
「慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ――」
ミコトは胸を張り、無邪気に、しかし誇り高く微笑む。
「僕は、なりたいです」
ナリタイ――。
その言葉が、未だ座席に着く首脳たちを打ち据えた。
彼らの誰もが、幼い頃に抱いていた、どこまでも純粋で、まぶしいほどに光輝く志を、思い起こしていた。
「失念していた……私が、今の立場を目指した理由を……!」
独白し、首脳の一人が立ち上がった。
それに勢いを得たかのように、一人、また一人と起立していく。
「…………」
ガルベルトもまた、政治家を志した幼い頃のことを思い出していた。しかし、尚、その政治家としてのしがらみが身体を縛り、腰を上げるまでには至らない。
そんな中、ふっと、ミコトの身体から力が抜けた。
「ミコト!」
倒れるミコトを、シタンが背後から抱き抱える。
「十分だ……ミコト……貴公は、よく頑張った……」
シタンが声を震わせた。
そんな彼女の腕に、ミコトは自らの手をそっと添えた。
残された力を振り絞り、心から溢れ出る思いを言葉にする。
「僕たちは、孤独なんかじゃありません……たくさんの人に支えられているんです……だから、伝えてみてください……ありがとうって、大好きだって、愛しているって……そこから、始められるんです。僕たちは、新しい世界を、始めていけるんです」
「……っ!」
ガルベルトは、ミコトの澄んだ瞳を見つめた。
(……そうだ……何をためらう……私は大統領なのだ。幾多の誇り高き国民の勇気に支えられている。そして――)
ガルベルトは、会議場を見渡した。
踏み出すことを決意した各国の首脳たちが、友を見る目を、こちらに向けて来ている。
「どうやら……私は、大切なことを忘れていたらしい。全く、恥じ入るばかりだ……だが、思い起こすことが出来た。私が政治家を志したのは、国家という囲いを守るためではない。人のため、誰もが幸せに生きることができる社会を創るためだ。
極めて困難な道だ。行く先は果てしなく、暗い闇に包まれている。だが、恐れることはない。我々自身が、道を、世界を照らす光となるのだ。幾億の友と、幾億の家族と共に」
告げて、ガルベルトはミコトに視線を送る。
「そうなのだな?」
ガルベルトの問いに、ミコトは頷いた。
ガルベルトも頷き返し、そしてゆっくりと、しかし力強く――立ち上がった。
同時に、木槌が打たれる。
「全会の一致を確認しました。これにより、世界安全保障機構の設立は可決されました」
議長が厳かに告げた。
その瞬間、会議場と、ユグドラシル全域でラジオの音声に耳を傾けていた全ての人々の間から、怒濤のような歓声と拍手が巻き起こった。
歓喜に包まれる中――ミコトとシタンは、満面の笑顔で頬を寄せ合った。




