肝油ドロップス (作 harusame)
仕事が終わって会社から出ると、積乱雲の残骸に夕陽の色が滲んでいた。今日もすこぶる暑かった。いつもの居酒屋で春磨と会うことになっているが、約束の時間近くになって”少し遅れる”とLINEが入った。いつものことだ。みさとはまだ暑い外の空気を胸いっぱいに吸ってから歩き出した。会社からほど近いその店に入るなり「生ひとつ。あと銀杏もね」と注文する。頻繁に会えるわけではないれけど、約束の度に遅刻する春磨に「悪いな」という気はもう起こらず”先に飲んでます”と返信するのが定番になっていた。就職の為に上京して10年が経った。この居酒屋にはかれこれ数年は通っている。
「ハイ、お待ちどうさま」
漆黒の皿に乗った鶸色の銀杏と、ジョッキが目の前にコトリと置かれる。ちょっとだけ塩が振ってあって、てらてらと光るそれに思わずゴクリと唾を飲み込む。生ビールの泡と液体の比率もちょうどいい。もう春磨が来なくてもひとりで十分楽しめるから、もっと残業して来てもいいよ。そして私に可愛いピアスでもプレゼントしてよね。と胸の内で毒づきながらも、少し酔いが回ってくると春磨が恋しくなってしまう自分が憎らしかった。
「もう、早く来てよ…」
二杯目のジョッキが空きそうなところで、春磨が店に入って来た。
「遅れてごめんね。俺、今日はジンジャーエール」
「飲まないの?」
「今日はすぐ酔い潰れちゃいそうだから」
「そんなに疲れてるんだったら無理しなくていいのに」
「大丈夫。みさとの顔見たら元気出て来た」
照れもせず、はっきりとした口調で春磨は言う。
「そう?でも、ほんとに無理しなくていいよ」
こくりと頷くと春磨はおしぼりで手を拭いた。ピアスでも買ってよ、なんて一瞬でも思った自分が本当にバカだなと思った。彼は優しいし、いつだって私のことを大事に思ってくれているのに。
「あ、これ銀杏。春磨の分取っといたよ。」
「ありがと。僕の分もあげるよ。みさと、銀杏大好きでしょ」
銀杏は肝油ドロップにちょっと似ている、とみさとは小さい頃から思っていた。今でこそ銀杏は好きだが、小さい頃は美味しいとは思わなかった。祖父が御猪口を片手に、ストーブで炙った銀杏を口に運ぶのを見て「よくもあんなもの食べられるな…」と思っていた。色や形はちょっと似ているけど、無論、銀杏と肝油は全く別世界のもので、みさとにとっては肝油の世界の方が明らかに天国だった。
「僕の分もあげるよ。みさとちゃん、肝油だいすきでしょ」
「いいの?一希くんだって、肝油好きでしょ?」
「…僕、知ってるよ。みさとちゃんが肝油を溜めてるの。毎日、ちっちゃいケースに入れてるでしょ?」
みさとはハッとして目をきょろきょろさせた。幼稚園の帰りの会で、毎日ひとり一粒ずつ配られる肝油を、みさとは父からもらったフィルムケース(写真を撮影するときに昔はフィルムというものが使われていて、それが入っている手のひらサイズの円筒形のケースだ)にこっそりと溜め込んでいた。溜まったら一度に沢山食べて幸せを味わう、という魂胆だ。肝油があまりにも好きで、両親に買って欲しいとせがんだが受け入れてもらえなかった。それで仕方なくこんな行動に出たのだ。ただ、毎日一粒を食べる、という幸せは失われた。
「一希くん見てたの?誰にも言わないでね!」
「言わないよ。…僕のもあげるってば」
「ありがと」
テーブルの下で一希から肝油を受け取ると、みさとは少し頬を赤らめた。先生に見つからないように、フィルムケースに肝油を忍ばせる。今、半分くらいまで溜まっている。フィルムケースを肝油でいっぱいにするには、もう少し時間がかかりそうだ。その間、先生に見つからずに遂行できるかどうかだけが、みさとの心配とするところだった。
「みさとちゃん、そんなに肝油を溜めてどうするの?もしかしてユキにあげるの?」
ユキはみさとの家で飼っている緑亀で、もう30年以上は生きていると祖父が言っていた。
「ユキは肝油なんて食べないよ。好きじゃないよ、きっと」
「なんでそんなことわかるの?好きかもしれないよ」
「好きじゃないよ!ユキはおじいちゃんがあげたエサしか食べないの」
「ふーん。でも、もしかしたら食べるかもしれないでしょ?」
「あげないもん!私が全部食べるの!」
「みさとちゃん、食いしん坊だね」
「もう!だまってて!」
みさとの勝気なところは祖父譲りだ。両親はどちらかというと穏やかで、でも厳しかった。生意気なことを言うと、母にいつも叱られた。
「みさとちゃん、今日も一緒に帰ろう」
一希が何の躊躇いもなく言う。みさとはもごもごと返事をする。
「…うん」
一希とみさとの家は近所で幼馴染だ。入園して間もない頃は、園が終わると男の子同士で帰っていた一希だが、時々一緒に帰ろうとみさとに声をかけるようになった。みさとはそれが嬉しくて仕方なかった。一希は他の男の子達とは少し違った。先生に叱られても飄々としているし、お母さんの絵を描かなければいけないときに、なんだか得体の知れない化け物の絵を描いていたり、皆んなで合唱しているときには歌わずに窓の外を眺め、でもグラウンドで遊んでいるときに突然大きな声で歌ったりする。そしてそれがとても上手なのだ。自分とは全く違う一希の不思議さが、みさとは好きだった。
幼稚園から家までは歩いて10分もかからない。一希とみさとは並んで歩いた。時々みさとのカバンの中で、フィルムケースに入った肝油がカチャカチャと音を立てた。
「みさとちゃん、ユキに肝油あげてみようよ」
「ダメだよ、おじいちゃんに怒られるもん!」
「大丈夫だよ、こっそりあげよう、見つからないように」
一希は悪戯な目をして言う。祖父の目を盗んで悪さをするなんて、みさとには到底できる気がしなかった。でも一希の目は、ユキに肝油を食べさせる、という未知の体験に及ぶときめきで輝いていた。そんな目を見たら、みさとはもうダメだとは言えなかったし、言いたくもなくなった。むしろ一希と一緒に悪さをすることが、幸せのように感じ、早くユキに肝油を食べさせてみたいとさえ思い始めていた。
家に着いて縁側から居間を覗くと、水戸黄門を見ている祖父の背中が見えた。両親はまだまだ帰ってこないし、祖母は買い物に出ているようだった。今なら大丈夫、とみさとは思った。
「一希くん、おじいちゃんは水戸黄門を見てるから、しばらくは大丈夫だと思う」
「よし、ユキに肝油をあげよう!」
軽くジャンプをしながら翻り、一希はユキがいる小さな池へと向かった。みさとも後につく。一希は本当に楽しそうで、そんな一希の背中を見てみさとは嬉しくなった。
池の真ん中の大きな石の上で、ユキは甲羅干しをしながら気持ち良さそうに目を閉じている。
「寝てるよ?」
みさとが言うと
「おーい、おやつの時間だよ!ユキ、起きろ!」
一希が叫んだ。
「シーッ!おじいちゃんに聞こえちゃう」
一希はペロッと舌を出したが、すぐに真顔になった。
「みさとちゃん、肝油ちょうだい」
みさとはカバンからフィルムケースを取り出し、蓋を開けると一粒取り出して一希に渡した。
「ユキー、おやつだよー」
今度は小さめの声でもう一度言うと、一希は肝油をユキめがけて放り投げた。
肝油はユキの甲羅をかすめて、池にポチャリと落ち沈んで行った。
「あーあ…」
あまりにも呆気なく池に沈んでいったので、あからさまにため息が出た。
「みさとちゃん、もうひとつちょうだい!」
仕方なくもう一粒をフィルムケースから取り出す。
これで今日もらった自分の分と、せっかく一希から分けてもらった肝油がなくなることになる。
「次は絶対に大丈夫だから!」
どこにそんな自信があるんだろうと思ったが、口にはしなかった。
「ユキー!!おやつー!!」
肝油は一希の手から放たれ弧を描いたかと思うと、見事にユキの頭に当たり、反動で向こう側の花壇の手前に転がり落ちた。ユキは驚いて首をすぼめてしまったし、肝油は土まみれになった。一希はもう肝油を求めてこなかった。無理だと思ったのだろう。みさとも、やっぱりユキに肝油を食べさせるなんて間違っている、とすぐに考え直した。
「何してるんだ?」
声がして振り向くと祖父が縁側に立っていた。
「こんにちは」
一希は何事もなかったかのように挨拶したが、一部始終を祖父は見ていたようだ。
「何を投げていたんだ?亀をいじめると竜宮城に連れて行かれて、爺さんにされてしまうぞ!」
自分だって爺さんだし、どこか話の内容が違う気がしたが、そのときは細かいところまで考える余裕はなかった。
「銀杏!おじいちゃんも好きな銀杏だよ!ユキ、食べるかなーと思って…」
「ユキはワシががあげた餌しか食わん。変なもの食わせると死んでしまうぞ」
銀杏が変なものならおじいちゃんも死んでしまうのかと思い、みさとは怖くなった。
「ごめんなさい!僕が食べさせてみようって言ったんです。みさとちゃんは悪くない」
急に大きな声で一希は謝った。
「はっはっは!一希君は男らしいな。そのままでいけ、そのままでな」
高笑いしながらそう言うと、祖父は家の中に引き返して行った。
さすがの一希も、祖父のことは怖かったらしい。助かった、と安堵の表情を浮かべた。
「じゃ、僕帰るね。おじいちゃん、さようなら!」
祖父の耳にも届くように言うと、一希は軽快な足取りで帰って行った。
その後も一希が毎日肝油をくれたので、フィルムケースはすぐに肝油でいっぱいになった。いよいよ一度に肝油を沢山食べる、という願いが叶う時が来たのだ。しかしみさとは、ここまで溜めた肝油が急に勿体無くなって、なんだか食べる気にならなかった。どうしても食べたくなったら食べよう、と思い冷蔵庫の卵入れのくぼみにそっとしまった。
それからほどなくして、一希が引っ越すことになった。
「みさとちゃん、僕のお父さんがね、転勤なんだって」
「転勤?どこかに行くの?」
「東京だって」
「東京?…遠いの?」
「わかんない。ねえ、みさとちゃん僕のこと好き?」
一希はまた唐突に、何の躊躇いもなく言う。
「…うん」
「じゃあ、大きくなったら結婚しようね!」
「…うん」
みさとはもごもごと返事をしたが、一希は嬉しそうに笑っていた。
結婚しようと言ったわりには、引越し先の住所も電話番号も知らせていかなかった。一希くんはもう「東京」に行ってしまった。私にはどうすることもできない。その場所が近いのか、遠いのかもわからない。すぐに私のことなんて忘れてしまうんだろうな。別の新しい友達がすぐにできてしまうんだろうな。みさとは冷蔵庫の卵入れのくぼみからフィルムケースを取り出した。蓋を開けて、肝油を一粒てのひらに出す。フィルムケースの蓋は、気持ちよく開く。閉めるときも、小気味よくパチっと嵌るのが好きだ。肝油を口に放り込み、ゆっくりと舐める。一度にたくさん食べるのが夢だったのに、一希が分けてくれたものだと思うと、やはり勿体無かった。甘くて美味しくて幸せになるはずが、思い出すのは一希のことばかりで、悲しくなって泣いた。肝油は涙と混ざって複雑な味がした。どんどん溶けていく肝油ドロップ。小さく小さくなっていくそれをいつまでも舌で感じていた。一希くん、忘れないでね。私のこと、忘れないでね。ただ、そう願うしかなかった。
「みさと?どうしたの?泣いてるの?」
春磨が心配そうに顔を覗き込む。いつの間にか涙がこぼれ落ちそうになっていた。何度か瞬きをして涙をごまかす。
「ううん、なんでもない」
一瞬のうちに遠い過去に引き戻されていた。一希くんは今どこにいるんだろう。今も東京の地に居るんだろうか。それとも、どこか遠いところ、遠い国に居るんだろうか。あのままの一希君で、飄々と生きているだろうか。私のことは覚えているかな。元気でいるといいな…。
「ね、銀杏ってさ、肝油に似てない?小さい頃食べなかった?幼稚園で毎日もらわなかった?」
まだ思い出に浸っていた私に、春磨の言葉は矢のように突き刺さり我に返った。
「もらったね。毎日食べてたよね。」
ハッとした割には、なぜだか冷静に答えていた。
「春磨…亀って肝油好きだと思う?」
「亀?…さぁ、どうだろうね?うちの実家に亀いるけど、今度食べさせてみようか?」
みさとは目をぱちくりさせ、思わず身を乗り出していた。
「うん!食べるかな?!」
「案外好きだったりしてね」
ジンジャーエールしか飲んでいないのに、この人は亀に肝油を食べさせることに何の躊躇もなさそうだ。居酒屋から帰る客が開けた引き戸から、昼間よりも少しだけ温度が下がった空気が入り込んできて夏の夜を感じる。無邪気に微笑んでいる春磨を見て「運命の人」という存在を信じてみてもいいかな、とみさとは思った。
完