蚊虻牛羊を走らす(下)
いいか、これは全部、自分が遅刻したことを誤魔化すために田中が引っ張り出してきている、言い訳であり、囈なんだ。これ以上、田中の罠に自ら引っ掛かる必要はない。僕はそう自分自身に強く言い聞かせた。
そんなときにも田中は何かを豪語しているのだが、たまたま聞こえてきた言葉はなんと「俺は最近、自分が普遍妥当性の化身だってことに気づいたんだ。なあ、悔しいか?」、だった。
鬱陶しい。なんなんだこの鬱陶しさは。さながら羽虫のようじゃないか。夏の夕暮れ時、自転車を漕いでいると顔にへばりついてくる、あの細かい羽虫並みに鬱陶しいぞ。
そのとき僕はひらめいた。羽虫と言えばトンボも羽虫だな、それでだ、トンボは顔前で指をぐるぐるとやられると、目を回してしまうのか、じっと動きを止めると聞いたことがある。これは使えるかもしれない、と僕は早速それを試してみることにした。
うるさい止まれ、いいからその減らず口を止めろ、田中。僕は藁にもすがる思いで、真剣に、田中の目と鼻の先で指をぐるぐるとやり始めた。が、次の瞬間、「なんの真似だ、一体」とその手は田中によりばちんと叩き落とされてしまった。
「打たれたボールの行方を見届けることに、人間とは、「責任」でも感じるみたいに夢中になれる生き物である」
自分で気に入っているのか、誰も望んでいないというのに田中はもう一度、その格言っぽくも、呪文めいた台詞をゆっくりと口にしつつ、さらに仕返しのつもりなのだろう、僕の目と鼻の先で指をぐるぐるとやってきた。まるで催眠術のようだ。
「ねえ田中、そんな台詞、威張って言うことじゃない。多感な中高生でも口にしないと思う。田中、君はもう大学二年生だ。君のモラトリアムはあと二年弱、あと二年足らずで社会人で、社会に出れば、そういう軽はずみな言動が今後の命運を分けることになる。わかってるよね?」そう、今は僕が、友達として彼を窘めてやらなければならない大事な場面なのだろうが、あと少しのところで、僕は田中の言葉を否定できずにいる。もやもやとした気分のまま、僕は自分の眉間を搔いている。
そのときだった。鴉なのか黒い鳥たちが群れを成し、それらがけたたましい鳴き声を上げながら巨大な塊となって、遠くの空に浮かんでいるというそんな光景を、見た。二、三秒、僕は息をすることも忘れて、それを見た。
視線を田中に戻したとき、なんと田中は、我が物顔で人差し指を鼻に突っ込んでいた。
ぞっとした。そしてそのとき、僕に再び嫌な予感が飛来したのだった。
僕はもしかして田中の空言に翻弄されているのか? と。
淀みなく流れだす、田中の的外れな言葉を、無視することなく、なんだかんだ言って僕がそれに真面目に向きあう。もしや田中は、心の中でそういうやり取りを面白がっていて、それだから目の前でこんなにも勝ち誇った顔をしているのだろうか、と。
しかし、そう訝りながらも、そして自分でもそれが本当にどうしてなのか分からないのだが、僕はこんなことを言っていたのだ。
「田中の言う通りなのかもしれない」と。決して、田中の言いなりになりたいわけでもないのに。
さらに、おべっかを使うように、僕はうんうんと頷いてしまってもいる。
「そうだね、あの、老人が打ったボールの行方を見届けることに、僕は心のどこかで「責任」を感じていたのかもしれない」もう一度、僕は頷いている。「ボールってわりと凄いのかもしれない」
一方、そのような僕の言動に「こいつ、ちょろいな」ときっと詐欺師の如く内心で囁いているのであろう田中は、このとき、ぱっと明るい顔を見せた。どうせ何か下らないことでも閃いたのだろうが、その表情を、田中と大学生活を二年もともにしている僕が見逃がすはずがない。
「「責任」といえば、そういやお前も言っていた通り、俺は敏腕の弁護士になるんだ。それだからお前と一緒に、法学部で二年、猛勉強をしてきたんだけどな」
「え」、猛勉強? と腑に落ちていない僕のことを指さしながら、田中は唾を飛ばす。
「で、今から言う“三つ”は、俺たち日本人に命じられた「責任」を語るうえでかなり重要なことだ。お前も将来、弁護士になるなら、これくらい知ってるよな」
「僕はべつに、弁護士は目指していないけど、これくらいとは一体なんのことだい?」
どうせしょうもないことを言い出すだろうな、と覚悟していたのだが、なんと案の定、田中はしょうもないことを言い出すのだった。
「ほらあの、『三大義務』的なあれだって。“三つ”あるやつ」と田中はもともと大きな目をさらに見開き、子供さながらに張り切る。
「“一つ”、一度拾った猫は最後まで面倒を見ろ、“二つ”、出された料理は全部食え、“三つ”、打たれたボールの行方は何があっても見届けろ、っていう、あれだ」
「なんだい、それは」腫物を触るように恐るおそる尋ねてみる。
「この国の三大責任だろうが」自信に満ちた答えが返ってくる。
三大責任? 残念だけど田中、そんなものは日本には無い。
呆れてものも言えなかった。絞り出すように「それは、知らなかったよ」とだけ言い、僕は暫し興奮気味の田中から目を逸らし、いまだゲートボールを続けていた老人へと視線を移した。
老人はちょうど打ち終わったボールを拾いに、すべり台に向かって小走りしているところだった。
予想通り、老人の背後にはぽつりと、小さい園児がいた。いまに転びそうな走り方で、懸命に、可愛らしく老人を追いかけている。そしてしっかり、パンチもしている。
膝をパンチされる老人は一体何を思っているのだろう。僕はその気持ちを想像することができない。ただ僕には、どうしてか、あの二人がわりと良い関係を築いているように思えてならなかった。
さすがに喋り疲れたのか、なんと、奇跡のように田中が黙る瞬間があったりして、ほんの僅かな間だったのだけれど、僕は考えごとをする時間を得たりした。
その間、僕はこれから先、かれこれ二年もこの田中と友達でいないといけないのかとか、考えたりした。だがそもそも、今日はこれからその田中と隣町へ行き、田中の趣味であるスポーツクラブの筋トレに付き合い、居酒屋に行き、挙句の果てにカラオケボックスで徹夜をする予定なのだから、そんな二年先のビジョンを想像していられる余裕なんて、今の僕にある筈がないのだった。
まったく先が思いやられる! と僕は隣にいる田中に視線で訴えてみる。が、また変なことを口走るつもりでいるのか、当の本人は不敵な笑みを浮かべるだけだった。
田中が隣で静かにしている間、じつは田中への不平不満よりも、どんなことよりも、考えていたことが僕にはあった。
僕という人間は、いつまでも、隣にいる田中を突き放すことはできないのだろうなということだ。
まるで小さな蚊や虻が牛や羊を追い回すように、僕の目線の先では「えい、えい」「よせ、もうよしてくれ」といつまでもやっている二人組がいる。
穏やかな気持ちにさせられる反面、なんだか、それが他人事には思えない。
「おいお前、なに笑ってんだよ」
「うん、いや、なんでもないよ」
最後まで読んでもらえて、とても嬉しいです。
(※全世界の『田中』さん、本当にすみませんでした(笑))