蚊虻牛羊を走らす(中)
◇
「おいお前」、と男にいきなり声を掛けられたものだから、激しく動揺してしまった。僕は咄嗟に身構え、腹をくの字に折っている。「田中だ」
警察だ、とでも言うように怖めず臆せず声をかけてきたのは、もちろん田中である。
足音もしなかったぞと正直、ぞっとしないが、おそらく僕に気付かれないよう慎重に忍び寄ってきたのだろう。今日の田中は白のインナーの上にアビスブルーのデニムシャツを羽織っている。髪は、今は褐色っぽくなっている。
ここでひとまず、モラルハザードの申し子、田中のお出ましである。
「なんだ田中か」
なんだ不審者じゃなくて良かった、と安堵しつつ、僕は突如として出現した田中に「やっと来たか」、という思いでのっそりと身体を向けた。そのときかちゃり、と体重から解放された金網から音がした。
頬を掻きながら僕は続ける。
「それにしても驚いたよ。おいお前、田中だ、なんてさ」
田中は渋い顔で黙っている。僕はすこし不安になる。
「だって、そんなふうに威厳を堂々と示すような挨拶は、警察くらいしかしないだろうから」
僕はそう、何の考えもなしに言ってしまっていた。
そうやって田中を刺激するような発言をしてしまったことが、のちの後悔に繫がることをまだ知る由もなかったのだ。
僕の発言を受け、田中の目が光る。「そうだな、悪かった。さすがに「おいお前、田中だ」は待ち合わせに遅れた人間の第一声としては相応しくなかったよ」、とか言って、この場はやり過ごしておけばいいものの、荒唐無稽で定評のある田中は、「鈍いな、お前」とすぐさま腕を組み、鋭い眼光で僕に反論してきたのだった。
「おい、警察は関係ないだろうが」田中の目は血走っている。
「ましてや、威厳を堂々と吐き散らしていくのが、そもそも男なんじゃねえのかよ! ”威厳堂々”!」
しまった、と僕は心で叫んでいる。こうやって火が付いてしまったときの田中はもうどうしようもない。僕が宥めようとしたらたぶん、火に油を注ぐみたいな感じで、田中の口からは烈火のごとくたくさんの言い訳が飛び出すだけだろう。横で困惑している僕のことなどお構いなしに、田中はいつも通り騒がしい。
「”威厳堂々”か。そういえば似たようなタイトルの楽曲があったな。威風堂々だったか?」
「合ってるよ」
「だがな、今はそんなことはどうでもいいんだ。とにかく、お前も男なら”威厳堂々”とすることだ。二度は言わせるなよ」
意味不明なことをさらりと言ってのけた田中は、今度は間髪を容れずにげらげらと笑い始めた。その不気味さといったら、悪寒がするほどだった。
それにだ、今のこの状況のどこに笑える点があるというのだ。僕は田中の言動に辟易しはじめている。
そのときだった。どん、と僕の右肩から鈍い音がした。
田中が無遠慮に肩を殴ってきたのだ。「田中、さっきから何を言ってるの」とすぐそこまで出掛かっていた言葉が、すっと引っ込んでいく。その代わり、僕は自分の頭に一気に血が上ってくるのを感じている。こんなことは久しぶりだった。
滅多にないことなのだけれど、僕は怒っていた。
「それじゃあ田中の言う通り、堂々と言わせてもらうけど」
約束の時間をすっぽかして、そればかりか反省の欠片もみられない、むしろ図々しく開き直ろうとしている。そんな田中にちょうど苛々(いらいら)してきていたところだ。僕は仕返しをしてやるという気負いで、田中の忠告通り”威厳堂々”と言い返す。
「田中は弁護士を目指しているんだよね? はっきり言って無理だと思う。いや、無理であってほしい。約束もろくに守れない、待ち合わせの時間からもう三十分が過ぎている。先月の講義では「遅刻くらいの粗相は弁護士としては問題ない」、だとか、取り上げられていたけどね、僕は認めないよ。第一、さっきからなんだよ、その態度は。いいかい? もしも遅れそうになったら電話ぐらいするべきだ。でさ、田中は待ち合わせに遅れたんだから、なによりも先に、謝らないとだめだろう」
「それよりさ」
先ほどからなぜか僕の頭部をじっと見ている田中が、はっと驚いた表情で口を開いた。「お前まさか、髪型変えた?」
「いやとくに」と僕は首を傾げている。髪型を変えた覚えはないのだけど、ただ最近、整髪料を買い換えたものだから頭髪の見た目がやや違って見えるのかもしれない。ツヤ感とか、束感とかの関係で。
「髪型は、変えていない」、と断言したものの、それでも気になって自分の前髪を摘まもうとしたときだった。僕は気付きはじめている。
話を逸らされかけていると。
「おい田中、髪型って、どんな話の逸らし方だよ」即座に僕は話を戻しにかかる。
しかしながら「髪型、変わってなかったか、残念だ」と臆面もなく喋りだす田中は待ち合わせに遅刻した、謝れ、という話を意地でも僕にさせたくないのだろう、今に限っては関係のない話を、僕の言葉を上塗りするように素早く持ち出してくる。あまりに一方的だ、田中、これでは言葉の暴力だ。
「それにしてもお前、ゲートボールなんかに興味があったのか」
「なにそれ」
「とぼけんなよお前」田中は人差し指をあらぬほうへと向けた。「さっきからあの爺さんが打ったボールを、かれこれ三十分は、眺めていただろ」
そんなことを言われ、僕はちらっと、今なおスティックでボールを転がし続けている老人の姿を一瞥した。
とくに期待をしていたわけでもないが老人の背後には、元気な園児が、まだいた。「よせ、もうよしてくれ」というワンパターンで、心のこもらない、どこか歌うような老人の悲鳴を喜ぶように、園児はきゃっきゃとさらにはしゃぐ。そして「えい、えい」、と掛け声は変わらないものの、なんとなくだが園児のパンチはさっきよりもエスカレートしているように見えた。
ただし、ずっと無表情だった老人の顔が、一瞬、笑顔になったように見えたとき、僕はとても妙な気分になり、すぐに田中のほうに向き直った。
話を戻すが、そういえば今ここに到着したばかりの田中がどうして、僕が三十分ものあいだ公園でどういう風に過ごしていたのかを知っているのだ。どうせまた適当なことを言っているんだろう。いや適当なことを言っているに決まっているのだが、それでも田中が言っていることは事実だった。
田中と親しくしているうちに、なんとなく解ってきたのだが、僕という人間はどうやら隨分とお人好しな性格らしい。
遅刻を無かったことにされようとしているこの分が悪い状況でさえ、僕は「田中の話に乗ってやってもいいかな」などと甘いことを考えている。
「うんそうだよ」と僕は始めている。
「そうそう、ボールを見ていた。だけどゲートボールがしたいとか、そういうんじゃない。ただ、ボールを目で追っていると、飽きないんだよ。なんでだろうね、飽きない。ただそれだけ」
「それだけ、か」としみじみと言い、田中は腕を組んだまま深々と頷いている。
「そうだな、動き出したボールには人の視線を釘付けにする力がある。そんなことを、たしか有名な哲学者が言ってたな。考えてもみろよ、そうでなけりゃ子供たちが「将来はサッカー選手か、野球選手になりたい」、と夢見るほどサッカーや野球が人気になることもない。そればかりかゴルフのランカーに、たった一試合で、何千万といった賞金が支払われるなんて絶対にあり得ないだろう」
「たしかに」、と言いつつ僕は、いい加減もう黙ってくれ、こんなこといちいち公園で話すことではないよ、場所を変えよう、と内心では懇願気味になっている。
そこで田中が一拍、置いて、されどまた喋る。
「ただし、ここで重要なのは、スポーツ観戦者のほとんどが、汗だくでボールを運ぶ選手たちではなく”ボールそのもの”をひたすらに目で追っているという事実だろうな。これが重要なんだ。どの選手が、どう活動したか、そんなことは翌日の新聞を確認すればいいだけの話だろ」田中はあたかも新聞をめくっているように、ふんぞり返って伸ばした腕を動かしている。「みんな、プレイヤーのことはそっちのけなんだ。人間は球技というものを、どの選手が活躍したのか、試合は何点差でどのチームが勝ち、負けたのか、なんて見方を本来は楽しむことができない。なぜだと思う?」
「そりゃあ選手の名前とか、顔とか、チーム名とかを覚えるのが面倒だから」
「人間はもとより可能性が未知数な存在を、見守っていくことに、喜びを感じるようにできているからだ」
「そうなの?」
「違うのか?」
「知らないよ」
「だからだ、人間は一向に行方の分からない、ああいう動き続けるボールに夢中になれたりする。人間はそういう生き物だ。あの爺さんが打ったボールを、お前が「責任」でも感じているみたいに必死に目で追っているあいだ、俺はそういうことを、感じていたね」
打たれたボールの行方を見届けることに、人間とは、「責任」でも感じるみたいに夢中になれる生き物である。
田中がそう、格言めいたことをぼそっと口にする。
田中、いくらなんでも話が長すぎるよ、と面食らう側面、「責任」か、なるほど僕は三十分のあいだ老人のゲ―トボールを、いや、地面をころころと転がっていく”ボール”を見守ることに、「責任」でも感じていたのかもしれないぞ、と、このときの僕は田中の出まかせにみすみす蠱惑されかけていた。
が、寸前で踏みとどまった。
いいや騙されてたまるかと。
読んでもらえて嬉しいです。




